僕たちは、ソラを仰ぐ余裕さえも忘れ。
日比谷支逢世
第1話 こびりついた汚れと、思い出
「帰り道にさ、星空を見上げるんだ。それができればまだ上を向いていられる、頑張れるって思えるから」
大学時代の口癖をなんで今……。
レースのカーテンからオレンジの夕日が差し込む。今日は有休だったので、ベッドの上にてタブレットとの共同生活を楽しんでいたら、いつの間にか眠ってしまっていた。
「颯太、今日は本当に何もしてないな。何か生み出したって言われたら二酸化炭素ぐらいなもんだぞ、ははは」
ベッドの上に、僕よりも太々しく寝転がるそいつは僕に話しかけた。
「たまには良いんだよ、いつも仕事で頑張ってるんだから休みの時は好きにさせてくれよ。そっちこそ散歩にだって誘っても行かないで、ダラダラばっかりして。そんな犬聞いたことないよ」
「うるさいな、散歩に行って足を洗ってもらう手間が生まれないだけ感謝してほしいもんだ。第一、誰が犬はみんな散歩が好きだなんて決めたんだ。常識っていうのは、偏見の塊なんだってどっかの偉い犬が言ってたぞ」
そんな犬聞いたことない。
いや、犬の世界にも偉人ならぬ偉犬がいるのか?そんなどうしようもない思考を巡らせていると、ハッと思い出し、キッチンへ向かう。昼ごはんの片付けがまだだった。
この犬は、僕が仕事帰りにたまたま出会ったなんとも奇妙なイキモノだった。見た目は真っ黒でモフモフな大きな毛で包まれている犬のような姿をしているのに、人の言葉を話すのだ。しかも僕と同じ声で。
「下に何か落ちてるのか?」
仕事であまりにも疲れていて、幻聴やら幻覚が見えたのかと気にしないようにしていた。周囲も姿は見えておらず、どうやら声も聞こえていないようだ。なのにずっと付いてくるし話しかけてくるしで僕は不気味に思ってすぐに逃げた。
しかし、曲がる角の先々で待ち伏せされており太々しくあくびをしながら待たれていたので、なんだか不気味というよりも無愛想なキャラクターのように見えてきた。
そこで僕は、逃げずに恐る恐る話をしてみることにした。
「言葉を話せるの……?」
「当たり前だろ、お前だって言葉を話してるじゃないか。同じようなもんだ」
「いや、それとこれとは話が違うわ! 何でだろう変な薬とか飲んでないはずなんだけど」
「犬を副作用扱いするな! それよりもずっと下向いて何か探してたのか?」
そう言われてハッとしたんだ。
当時、仕事でもうまく行かずに本当に嫌になっていた。学生時代は周囲よりも色々なことをしながら尊敬されるような人だったし、将来はスゴイ人になると自他共に期待を外さなかったのだから。それが社会人になり、思うようにうまくいかずに自分の体の外側を覆っていた期待の殻がパラパラと欠けていくようや感覚を味わっていた。そんな日々で、僕は上を向くことを忘れていたのかと、今まさに言われて気が付いた。
「ほっといてくれよ、自分にも世の中もう期待なんかできないんだ。仕事だってうまくいかないしそりゃ下を向きたくもなるさ」
「下を向いて目の前の電柱に頭ぶつけるなよ、まぁ自分の足元を見てどこにいるかを見つめることも大事だからな」
そう言ってから、その犬は僕の横を歩き続けた。こういうことを言った後には説教をされるかと思いきや、むしろ肯定されて呆気にとられた。不気味だけれども、悪いヤツではないみたいだ。
結局家まで着いてきたそいつを僕は居候として招き入れることになった。今までどうやって生活していたのかを聞いても、「気ままにブラブラさ〜」とはぐらかされたのでそれ以上は突っ込まなかった。
ちなみに、呼び名はその時イヤフォン越しに聴いていた曲名が「空」だったので、真っ黒な見た目には似つかわしくない「ソラ」と命名することにした。
さて、と思い立ち、
僕はベッドを降りてキッチンへと向かう。
銀色に光るシンクの中に、黒い深さのあるプレート皿が鎮座していた。昼ごはんに作ったタレ付きの唐揚げが少し焦げていたので、お皿にこびりついていた。
なかなか取れない汚れを、お湯でゆっくりと落としていく。水切り台には対になる白いプレートが置いてあった。
見るたびに、僕は胸が苦しくなる。
元恋人を思って一人暮らしを始める時に、買ったのがこの二対のお皿だった。今でもこのお皿を見るだけで、家で一緒にご飯を食べている場面が浮かんでくる。
汚れの落ちきった黒いお皿も、水切り台へと受け取られる。
「悩みや後悔も、こうやってすぐに落ちればいいのにな……」不本意にもそんなことを思ってしまった。
幸せは、その分不幸で返ってくる。
人生は良いようにバランスができている。
それをわかっているからこそ、幸せを感じることが同時に怖くもあった。
そんな僕の予感通り
その瞬間は突然現れた。
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