5分で読める物語『フィスト』

あお

第1話

 羽場蓮の両親は先月離婚した。蓮が物心つく前から、二人の仲は険悪で、物心ついた後もどうして結婚したのだろうと、疑う日の方が多かった。そして愛も喜びもない家庭で蓮は育った。だから蓮は愛というものを知らない。

 離婚後蓮は母方の祖父に引き取られた。目下高校二年生の蓮は、東京から祖父の住む滋賀の高校に転校した。

 地方の学生にとって、東京出身者は憧れと嫉妬の的だった。憧れには舌打ちを、嫉妬には暴力をもって、蓮は自信の生活を守った。そうして蓮は、転校早々、都会の不良少年として名が知れることとなった。

「わしの孫がご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございませんでした」

 蓮の祖父、敏徳が校長、教頭陣に深々と頭を下げた。

「じいさん、いいんだよ。先に吹っかけてきたのはあいつらだ。俺らが謝る理由なんてねぇ」

「先に手を出したのはお前さんやろ。相手に怪我をさせた。そんだけで十分非はある」

 敏徳は頭を下げたまま動かない。まるで蓮が謝るのを待っているようだった。敏徳は言葉を使わず態度で示してくる。引っ越してまだ一ヶ月だが、蓮もそのことに気付いていた。

「もういいですから、頭をお上げください」

 校長が困ったように呼びかける。敏徳は数刻の間のあと、ゆっくりと頭を上げた。

「幸い向こうの親御さんも、非を認めておりますし、大した怪我でもありませんので。これから気をつけていきましょう」

 学校側はことを大きくするつもりはないらしい。まだ転校してすぐの生徒ということもあり、蓮のこれからの学校生活を思っての配慮だと言う。

(謝ってそれで終いかよ)

 しかし蓮の方は、学校の対応に不満気でいた。謝れば解決する――そんな人間社会の合理的な仕組みにすら蓮は癇癪を覚えた。

「羽場も、もう人を殴るんじゃないよ」

 校長に諭される蓮だったが、頷く気などさらさらなく、ただ相手を睨むだけ。

「こいつもこいつなりに、反省しとるさかい、許したってください。帰ってわしからもしっかり言うときますんで。ほんまに堪忍です」

 そう言うと、敏徳は再び頭を下げた。

「やめろよじいさん! おら話はもう済んだろ。帰らせてえもらうぞ」

 蓮は敏則の肩をぐっと引き戻し、校長室の扉へと向かった。追いかけるようにして敏徳は荷物を取り、最後に一礼して校長室を出た。



 二人は何も話すことなく、家に着いた。蓮が今日の夕飯作りの当番なので、すぐさま台所に向かい、味噌汁やら鰆の西京焼きやらを準備する。慣れた手つきで調理を済ませ、いつものように食卓に並べる。ほどなくして、敏徳が席に着き、蓮もエプロンを脱いで敏徳の向いに座った。

「いたただきます」

「っす」

 東京に住んでいた時は、食前に手など合わせなかった蓮だが、敏徳と初めての夕食の際に

こっぴどく叱られた。先生や警察に叱られるときは、何が悪いのかさっぱり分からないが、敏徳は自分の表情を見て、わかるように叱ってくれた。敏徳は蓮にとって、初めて自分のために叱ってくれた人間。この人なら信頼できるかもと初めて思えた人間だった。

「蓮や。ワシにどれだけ迷惑をかけてもいい。なんべんでも代わりに謝ったる。けどな、人様の身体を傷つけることは、しちゃいかん。誰かを殴りたくなったらぐっと堪えろ。そんで堪えた分ワシを殴れ」

 突拍子のない敏徳の発言に、蓮はなにが言いたいのかほとんど掴めずにいた。

「なんで、じいさんを殴るんだよ」

「人様を殴るよりはずっと良い。ワシは頑丈やからのう。お前のショボいパンチなど屁でもないわ!」

 はっはっはと高らかに笑う敏徳。問題を起こしても、しっかりそれに向き合い、最後は明るく締めてくれる。蓮の固く閉ざされた心は、敏徳の言葉で緩やかに、解かれていく。

「だから約束してくれ。もう人を殴るな」

「分かったよ。もう人を殴らねぇ」

 蓮と敏徳の約束は、これが最初で最後だった。敏徳は翌朝、急性心不全で亡くなった。

 大切な人の死とはさも唐突である。そしてその悲しみは、埋葬を終え日常に戻った食卓で、深く強く襲ってくる。蓮は齢十七歳でそれを知った。

「じいさん。あんたは頑丈つったじゃねぇか。なんですぐ死んでんだよ。俺はこの先誰を信じていけば、いいんだよ――」


***


 翌日、蓮は普段通り学校へ行くことにした。学校に行ったってやることはないが、誰もいない家で、一人の時間を過ごすよりかはましだった。そしてそれは、一通の手紙から始まった。そこには〈放課後、校舎裏に来い〉とだけ書いてある。

「なんだこれ」

 裏を見ると、差出人らしき名前。

「真島黒咲? ったく誰だよ」

 蓮が読み上げたその名を聞いて、教室にいる生徒全員が、一斉に振り返った。

「真島は、最恐最悪の男だよ。絡まれたら最後、身ぐるみはがされ、体中の骨はバキバキに折られる。悪いことは言わねぇから、真島に呼び出されてんなら、絶対行くな」

 蓮に助言をしたのは隣の席に座る男子。都市伝説のような話だが彼の目は真剣だった。

 しかし、蓮の経験上、呼び出しを無視するほうが後々厄介なことになる。助言はありがたかったが、蓮は放課後、校舎裏に向かった。



 蓮がその場所に着くと、既に長身の男が待っていた。

「おお~、ほんとにきた。来なかったら、家まで殴り込みしてやろうと思ってたけど、その必要はないみたいだな」

 やはり来てよかったと、蓮は心密かに思っていた。男は自分よりも数センチ高い身長で、金髪のショートヘア。襟元を大きく開け、首回りには銀色のネックレスをしている。パンツは全体的に薄汚れており、靴もぼろぼろだ。

「お前が、真島か」

「おれ以外に誰がここに来んだよ」

「なんの用だ」

「この前うちの弟が世話になったみてぇだからよ、その礼だ」

 真島の弟など蓮に心当たりはなかったが、こっちに来て会った人間は限られている。

「この前ヤったあいつか」

「家に帰って来るなり、いきなり泣きついてきてよぉ。転校生にいきなりぶん殴られたっていうじゃねぇか。それはまぁ、こっちも恩義ってのを示さねぇとよ」

 そういうや否や、真島は蓮目掛けて跳び蹴りを繰り出しきた。すかさず躱す蓮だが、真島の動きは俊敏で、着地後すぐ振り返りの要領で右フックを見舞う。瞬時の判断で頭を下げた蓮だが、目の前には真島の膝があった。

「ぬりぃんだよ!」

 顔面に直撃した膝蹴りは、蓮の鼻を折る威力があった。衝撃でよろける蓮に、体勢を整える隙も与えず、真島が連続で殴り掛かる。

「おらおらおらおら! どうしたよ⁉ まだ礼がし足りねぇんだけどよぉ!」

 両腕でガードを決めるも、その腕ごと壊していく勢いだ。

「おいおい、こんなもんか、よっ!」

 真島は左足を大きく前に踏み込み、全力の右ストレートを蓮の両腕目掛けて打ち込んだ。蓮の身体は、トラックに轢かれたかのごとく吹き飛んだ。

 立ち上がらない蓮に、真島がじりじりと歩み寄る。

「てめぇ、なんで反撃してこねぇんだ」

 真島は心底不機嫌に蓮のことを見下ろす。

「こんなひ弱でしゃばいやつに、弟はヤられたのか? なんで一発も殴ってこねぇんだ、ああ⁉」

 連の胸ぐらをつかみ上げる真島。

「殴らねぇって、約束した」

「約束だぁ? 誰にだ」

「死んだじいさんにだ」

「はっ」

 つかみ上げていた腕で、蓮を突き飛ばす。

「お前はそんなにつまんねぇ男だったのかよ。あーやめだやめだ。くそが」

 真島はそう吐き捨てると、校舎の方へ戻っていく。その去り際、

「そんな甘ったるい爺に育てられて、お前も可哀そうだな。死んでせいせいしたろ? 爺なんているだけ邪魔だかんな」

この言葉が、蓮の逆鱗に触れた。

(ごめん、じいさん。約束守れそうにない……っ!)

 蓮は立ち上がり、一気に走り寄る。足音に気づき振り向いた真島の横顔を、全力で殴り飛ばした。真島は数メートル転がると、よろけながらも立ち上がり、笑みをこぼした。

「やるじゃねぇか」

 再び真島が突っ込んでくる。初手の右ストレートを寸前で避け、空いた相手の中腹部を左のフックで刺す。いわゆるみぞおち。しっかり入った感触まであったのにも関わらず、真島は気にせず蓮の顔面に拳を入れる。よろけた蓮に次いで正面蹴りを繰り出すが、蓮はその足ごと掴み、回し投げる。投げた先に先行し、立ち上がる隙も与えず蹴り飛ばす。二人は、互いにかなり疲弊しきっていた。

「約束ってのは……いいの……かよっ」

「俺は、たった一個の……約束も守れねぇ、出来損ない、だ」

「へっ……出来損ないの、くせして……やるじゃねぇか」

 そこに、騒ぎを聞きつけたのか、筋肉隆々の体育教師が駆け込んできた。

「羽場ぁ! またお前かっ!」

「あぁ……結局いつも、こうだ……」

 蓮の感情は、侮辱された怒りと、約束を破った罪悪感、そして罪人扱いする大人たちへの悲嘆にまみれていた。

「お前は反省できん人間なのか! 次はもう退学だぞ!」

 蓮はもういっそのこと、この教師ごとぶっ飛ばしてやろうかと考えた。その時、

「待て……吹っ掛けたのはおれだ」

仰向けになったままの真島が、切れ切れながらも、力強く声をあげた。

「そいつは、悪くねぇ……おれがケンカを吹っ掛けて、おれが……負けただけだ」

「おまえ」

「羽場ぁ、いや蓮ん! おまえは強い。悔しいが、おれの負けだ」

 真島はどこか嬉しそうだった。

「おら、お前のせいで、立ち上がれねぇんだ。手ぇ貸せ」

 そういって蓮に手を伸ばす。

「負けたやつがなんで、偉そうなんだよ」

 蓮はその手を強く掴んで、持ち上げた。

「うるせぇ、そんで次は肩貸せ」

「もう勝手に使ってんじゃねぇか」

「うるせぇ、、そんで今度お前のじいさんに、墓参りさせろ」

「なっ」

「そこで、お前とお前のじいさんに謝る。悪かったってな。負けたら非を認める。それがおれの流儀だ」

 真島は潔く、清々しい人間だと、蓮は感じた。

「俺も、悪かったよ。お前の弟殴って」

「負けてねぇやつが、謝るんじゃねぇよ。おら、あのうるせぇ教師が呼んでやがる」

「ああ」

 二人は肩を組んで、体育教師の後についていった。保健室で傷の手当をしてもらい、その後数時間、校長室でみっちりとしごかれるのであった。

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5分で読める物語『フィスト』 あお @aoaomidori

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