何時か貴方を食べるその日まで

ウィル・レクター

序章:出会い

第1話

 ◆


 小夜子。本名、芦原小夜子あしはらさよこ


 僕、築嶋浩太つきしまこうたが彼女と出会ったのは5月の事だった。春も終わりに差し掛かり、大学の図書室の窓から仄かに夏を思わせる香りを風が運んできている。

 僕は窓際の机の上に、原稿用紙を乱雑に広げてそれらと睨めっこをしていた。

 僕は趣味で短編小説を書いている。別に小説家になりたいと思ったことは一度もない。ただ頭に浮かぶ情景を、文字に起こす事が好きなのだ。

 しかし、今回ばかりは何かが違った。いつもなら書きたい物語が頭の中からすらすらと出てくるというのに、次の講義が始まるまでの2時間という時間を使っても、一向に原稿用紙にシャープペンシルを当てる音すら鳴らせないでいた。

「やってるね、大文豪」

 後ろから聞きなれた声がする。僕は原稿用紙から顔を上げ、下がりかけた黒縁眼鏡の位置を直した。

「次の講義、場所変更になったから伝えに来たぞ」

 そう言いながら向かいの席に座った友人、佐竹博則さたけひろのりは中学校時代からの付き合いだ。僕の数少ない理解者でもある。

「ありがとう、ヒロ。すっかり夢中になってた」

 僕はカバンに真っ白な原稿用紙を詰め込んだ。その様子を見て、博則はややにやけた表情をこちらに向けてきた。

「で?進捗はどうよ。浩太」

「それが、全然書けなくて。前書いたのはSFホラーで、その前はファンタジーだったから、今回は現代物の日常系をテーマにしようと思ってるんだけど」

 全く書けていないことを博則に正直に伝える。

「現代物の日常系ねぇ。だったら外に出て、いろんな人間と交流したらどうだ?大学と家の往復しかしてないで、現代物の小説なんて書けるわけないだろ」

 博則の言う事はごもっともではあったが、知らない赤の他人と話すことが苦手な僕は、外に出て人と話す事は億劫で仕方がない。

「だからさ、今度の土曜日お前も来いよ。飲み会。いい創作のネタのきっかけになるぞ。ついでにカワイイ女子とも話せる」

「結局そこに落とすのか…」

 博則は親切心で言っているのだろうが、僕はそういった誘いに全く興味はなかった。話をする相手が、たとえ酒が入って気の緩んだ人間たちでも、それはそれで面倒くさい事には変わりない。

 今回の小説の内容は、題材そのものを変更する事にしよう。僕はそう考えた。


 そんな事を話していると、僕たちの横を一人の女性が通り過ぎて行った。微かにローズマリーの香りを纏ったその人を、手慣れた感じで博則は呼び止めた。

「お、小夜子ちゃん」

 歳は僕らと同じか少し上であろうその女性は、掛け声に反応してこちらに振り返った。揺れる濃い茶色のボブカットの髪と、透き通った黒い瞳を見た僕は彼女に釘付けになってしまった。

「あら、ヒロさん。こんにちは」

 彼女は礼儀正しくお辞儀をした。

「小夜子ちゃん。今週の土曜日時間ある?俺達で人集めて飲み会やろうと思ってるんだけど、よかったら来ない?」

「それは嬉しいのですが、その日は生憎用事が入っておりまして…」

 少し困ったような顔を見せた彼女は、僕の目線に気が付き軽く会釈を交わした。

「こちらの方は初めてお会いしますね。芦原小夜子です」

「あ、紹介するよ。俺の友人で未来の大文豪、築嶋浩太」

 未来の大文豪だけ余計だよ、と思いながら「どうも」と小夜子さんに挨拶する。

「文豪?小説か何かを書かれてるのですか?」

「まあ、趣味程度だけれども。それに短編しか書いたことなくて…。人に作品を見せたこともあんまりないんだ」

「もったいないことしてるよな?自信を持って世の中に発表すれば良いのに。俺は普段小説なんて読まないけど、こいつのだったら面白くてすいすい読めるぞ」

「自信がないとか、恥ずかしいとか、そういうのじゃないんだよ」

 僕の書いた小説は、ネットにも流さないし家族にすら見せたことがない。高校時代に博則が覗き見して読まれた事が最初くらいだ。偶に博則は、クラスメイトに小説の原稿を見せて回したりした。他の人からも概ね好評ではあったが、他の作品を読みたい等と言ってくる人はいなかった。僕が作れる物はその程度の作品だ。世の中に見せたって仕方がない。

「そうなんですか。なんだか少し気になりますね」

 すると、僕達の話を聞いていた博則が、まるで良いことを思いついたかのように両手を叩いた。

「そうだ。浩太、見せてやりなよ、小説。あ、俺のお気に入りは化け物退治専門家とモンスターが恋するってやつで…」

 そう言うと博則は勝手に僕のカバンを漁り始めた。

「お、おい。勝手にあさるな!」

 僕のかけたその言葉も空しく、博則が原稿を小夜子さんに手渡した。

 小夜子さんは渡された原稿を読み始めた。時折「へぇ」とか「わぁ」とか感情を言葉に出している。そして暫くして、僕に原稿を返した。

「凄い。ヒロさんの言う通り、とても面白くて素晴らしいです」

 小夜子さんは目を輝かせながら感想を述べてきた。

「そ、それは良かった、です」

 僕は作品をここまで褒められた事が無かったためか、どう反応を返していいか分からず彼女から顔を背けてしまった。

「そうだ。良ければ浩太さんの他の作品を読ませてもらっても、構いませんか?」

 想定外の返事が出てきて、僕は驚いてしまった。言葉に詰まり、博則にアイコンタクトで助けを求めるも、彼はにやつきながら「渡してやれ」とハンドサインを送ってきた。

「ちょ、ちょっと待って」

 僕はカバンの中から、幾つかの原稿用紙の入ったファイルを彼女に手渡した。

「確かこれはSFホラーの作品だったはず。それとこれは有名漫画の二次創作。あと、ヒロの言ってた作品も入ってるから」

「ありがとうございます。読み終わったら連絡しますね」

 そう言って僕と彼女はスマホの連絡先を交換し合った時、「アッ」と小夜子さんが呟いた。

 僕の右手の人差し指から、血が滲み出ていた。

「あれ?カバンに手を入れた時に紙か何かで切ったのかな?」

「大変!止血しないと」

 小夜子さんはその細い小さな両手で、僕の右手を握った。僕は彼女の急な行動に驚いて、手を振り払ってしまった。

「こ、これくらいなんともないから」

 僕は顔が熱くなるのを感じた。恐らくそれは彼女も分かっているだろうが、そんなことは気にしていられなかった。

「ダメですよ、しっかり手当しないと。黴菌ばいきんが入ったらどうするんですか」

 そう言うと彼女はポケットから白いハンカチを取り出して、僕の指先の血を拭った。そして彼女のカバンから絆創膏を取り出し、丁寧に巻いてくれた。

「はい。これで大丈夫です」

「…ありがとう、ございます」

 僕は指に巻かれた絆創膏を見つめながらそう言った。

 そして小夜子さんは笑顔で会釈して図書室から去っていった。

「おいおい、羨ましいじゃねえか!」

 急に大声を出した博則が絡みついてきた。

「ちょっと、ここ図書室だって!」

 小声で博則に注意を促す。周囲の生徒はこちらに冷ややかな目線を送っていた。我に返った博則は「あ、やべ」と足早に僕と共に図書室を後にした。


 講義が終わり、下校時。博則は小夜子さんがどんな人物なのか話をしてくれた。どうやら彼女は、大学の女子の中でもかなり人気な部類に入るらしい。数名の男子が彼女に猛烈なアプローチを仕掛けているが、ことごとく失敗に終わっているのだとか。

「大学の男子、6割は小夜子ちゃん狙ってるからな。かく言う俺も。彼氏らしき人は居ないみたいだし、できる事なら落としてみたいなぁ」

「そっか。まぁ頑張れよ」

 先の出来事で頭が回らなかった僕は、ぼんやりと明後日の方を見つめながら返事を返した。

「まぁ、女性経験も皆無に等しい浩太君には、今後の発展は厳しい相手かもなあ」

 やや声のトーンを上げながら、博則が僕の脇腹に軽く肘打ちをする。地味に痛い。

「…ヒロ、さっきの件まだ根に持ってるのか?」

「あたりめぇだよ!俺だって小夜子ちゃんの手にすら触れたことすらないのに!」

 博則は頭を抱えている。そんなに悔しい事なのか。

「あれは偶然だって。僕もあんな事になるなんて思わなかったし。そんなに羨ましいなら、小夜子さんの目の前で転んだら、ヒロも手当てしてもらえるんじゃないか?」

「いや、流石にそれはダサいし、小夜子ちゃんドン引きするだろ…」

 僕は落ち込むヒロをなだめ、駅前の牛丼屋で一緒に食事を済ました後、それぞれの帰路についた。


 ◇


 浩太さんの血液が付着したハンカチを嗅いでいた。

 鼻に充てて、ゆっくり香りを吸い込んでいく。

 他の誰の物とも違う、甘美的な香り。

 これは、当たりの予感がする。

 気が付くと、口角が少し緩んでいた。


「小夜子様。お食事の用意が出来ました」

 ガラガラとキャスターの音を立てながら、使用人のエマが料理を運んできた。

「先程まで生きていましたので、とても新鮮でございますよ」

「…私は少し寝かせたお肉の方が好きなのですけれどね」

 そう呟きながら食卓の席に着いた。隣のワイングラスに白ワインが注がれていく。

鹿のモモ肉赤ワインソース仕立てでございます」

 皿に赤黒いソースを纏った鹿の肉が運ばれてきた。

 ナイフで切り、フォークで口へ運ぶ。赤ワインの豊潤な香りとコクに肉の旨味が合わさる。これは、なかなかに美味しい。

「この鹿、余程いい育ち方をしたのですね。気に入りました」

「それは良かったです。では、私は失礼いたします」

 エマはお辞儀をして食卓から立ち去っていった。

 私は暫くの間、料理に舌鼓を打ちながら、浩太さんの事を考えていた。

 今日彼から借りた小説の原稿。一通り読んでみましたが、ヒロさんが言うようにとても読みやすくストーリーも凝っていて面白い。ただ、残念なのが恋愛関係の描写がどれも現実味のないチープな物ばかりだったこと。

 恐らく彼は、今までまともに女性と向き合ったことが無いみたい。

 私はソースの痕が残った皿を眺めながら、グラスに注がれた白ワインを軽くステアリングした。


 ◆


 家に帰ってから暫く、テレビを眺めていた。見たい番組が見終わって、軽くザッピングをしていると、あるニュース番組が目に入った。

 ニュースの内容は『霧江山きりえやま市内行方不明者の増加』といった物だった。霧江山市は僕らの通う大学があるそれなりに大きな街で、僕もヒロもここに住んでいる。どうやらここ最近、市内の行方不明者が増えているようで、つい先日、とあるジャーナリストが行方不明になったそうだ。

「最近は世の中も物騒になって来たな」

 そんな事を呟いてると、突然スマホが鳴った。

「おい、今大丈夫か?」

 電話の相手は博則だった。

「どうした?」

「いや、あの後めげずに小夜子ちゃんを飲み会に誘ったんだけどさ。彼女、浩太が来てくれるなら行くって言うんだよ」

「…は?」

 何を言っている?状況が呑み込めなかった。

「お前、小夜子ちゃんにえらく気に入られたな。チクショウ!」

「えっ…?えっと、それは良い事なのか?」

「良いか悪いかって言われたら、正直に言うと悪い!でも、お前が飲み会に来てくれれば、俺にだって小夜子ちゃんを落とすことが出来るチャンスが回ってくるんだ!その点に関しては良い!」

 知らない女性に気に入られた。それも今日初めて会った人に。

 寄りにもよって、この僕が。

「頼む!お前が来てくれれば、小夜子ちゃんが来てくれるんだ!一生のお願い!!」

「一生のお願いって…。それ、何回目だよ」

 僕は少し深呼吸をして、なぜこのような事になったのか考えてみた。

 もしかしたら、今日渡した短編小説を返却するのに、その飲み会の場を利用しようとしているのだろうか?広い構内を探すより確実に返すことが出来るし、その場で感想を話したりも出来るし。うん、きっとそうだ。そうに違いない。

 そうとでも思っておかないと、頭がおかしくなりそうだ。

「…来てくれるか?」

「分かった、行くよ」

「マジ?!言ったな!!!」

 電話越しに博則が嬉しそうに叫ぶ声が聞こえた。

「よっしゃ!そうと決まれば話が早い!詳しい時間とか決まったら、また連絡する!」

 そう言って博則からの電話は切れてしまった。

 ベットに寝転がって、絆創膏が巻かれた指を眺めた。まさか、あんな子が僕を気に入るなんて。夢でも見ているのではなかろうか?

 眼鏡を外し、目を強めに擦ってみた。しかし、指にはしっかりと絆創膏が巻かれてある。改めてこの話が現実であると思い知らされた。

 その日は目が冴えて眠ることが出来なかった。


 ◇


 ヒロさんからメッセージが届いた。

 浩太さんが飲み会に来てくれるそうだ。

 また、あの人と会える。


「おい!おい女!聞いてんのか!さっさと降ろせ!!」

 後ろから男の声が聞こえる。目隠しをされ、逆さに吊り下げられた状態で、必死に私に訴えかけている。

 私はゆっくりと男に歩み寄る。そして優しく頬を撫でた。

「ごめんなさい。気が変わってしまったの」

 男の頬に触れた瞬間、彼は突然静かになり、カタカタと小刻みに震え始めた。

「な、なぁ。冗談はよそうぜ、お嬢さん。あんた達なんだろ?霧江山市の誘拐事件の犯人。いくら何でもこんな事、世間が黙っちゃいない…。ただ、俺を逃がしてくれればあんた達の事は言わないし、撮った写真も全部焼くから!頼む!殺さないでくれ!!」

 私は何も言わず、唯々黙って男の頬を優しく撫で続けた。そして、作業台の上に置いてある鋭利な包丁を掴む。

「さようなら」

 私はそう言って、手に持った包丁で喉を一気に切り裂いた。

 赤黒い鮮血が勢いよく噴き出す。男の苦しそうな音と共に、床が命の色に染まっていった。

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