第96話 影は色を持つ

 夢を見る――ここは巨大な箪笥が鎮座する引き出しの世界。

 箪笥の遥か上段を見上げる。


 誰かが引き出しを開けて、中を覗き込んでいる。

 俺は透明な地面を蹴り上げて、ソイツに近づいた。



「何をやってんだ? 影の女!」

「何って、あなたの記憶を見ているだけよ」


 影の女は覗いていた引き出しから顔を引っこ抜き、こちらへ向ける。

 俺は彼女の姿を目にして、息を詰めつつ驚きの声を上げた。


「おっ、お前っ、その姿っ!?」


 女は影などではなかった。

 

 流麗な長いみどりの黒髪と、雪のように白く美しい肌を持つ女性。

 潤んだ瞳は美しき貴石として名高い深緑の翡翠の色。

 身長は今の俺よりも少し高い。

 瞳の色を除けば、容姿は……まるでヤツハを大人にしたかのよう。

 


「ふふ、驚いた?」 

 女は妖艶に笑う。

 その笑顔に、俺の瞳は犯される。

 俺を見つめる彼女の瞳の奥には、どろりとした蠱惑的な死が見え隠れしている。


 俺は彼女の視線から目を逸らし、息を吐いた。

 そして、自身という存在をしっかり持ち、再度女を見た。


「なんで、そんな姿に? しかもヤツハっぽいし」

「以前、言った。私はあなた、あなた自身だから。この姿は、あなたが自分を女性化した想像を素地そじとしている」

「素地? 俺は鏡を前にして、初めてヤツハの姿を目にしたとき、自分が想像した人物とは思えなかった。この姿はお前じゃないのか?」

「違うわ。本当の私は、もっと美しかったから」



 女は左手を頬に当てて、ぐにゃりと顔を伸ばすように唇から顎先へ降ろしていく。

 その態度からは、容姿に対する不満がありありと見えた。


「うわ~、随分と自分に自信のある女だな。だったら、このヤツハの姿はどこからやってきたんだ?」

「ヤツハは女性のあなたと私の容姿が融合した姿。いえ、あなたの素地の方が色濃い。はぁ~、平凡なあなたの姿のせいで、こんな醜女しこめになるなんて」

「ムカつく女だなぁ~。俺は十分可愛いだろうがっ」

「うふふ、それはヤツハはってこと? あなた、自分が笠鷺燎かささぎりょうだってこと憶えている?」

「っ!? もちろんだよっ!」


「ふふん。ま、どうでもいいけど……」


 

 女は傍にある引き出しに手を掛けて開こうと試みる。


「お前、勝手に何を?」

「あなたの過去の経験や知識から、情報を得ようとしているだけよ」

「勝手に人の頭をまさぐるなっ。てーか、脳に負荷がかかるだろ!」

「負荷なんかかからないわ。私が見ているのは、奥に沈んだ記憶じゃない。表層領域に記憶されている情報を見ているだけだから」


「表層領域? 日常の記憶ってことか? いや、負荷がかからなくても、人の過去の日常を勝手に覗くなよ!」

「あら、許可を得られたから覗いているんだけど。ほら、御覧なさい。記憶の深くに眠る情報の引き出しは、私には開けられない」


 女は適当な引き出しの取っ手を握り引っ張るが、引き出しは微動だにしない。


「ね」

「ね、じゃねぇよっ。俺は日常の記憶であっても許可した覚えはないぞ!」

「許可は直接的なことを意味しない。あなたが私を受け入れた。だから、日常の引き出しは開いた」

「受け入れた?」

「そう、あなたは私を警戒している。でも、どこか私に油断を見せている。その油断が引き出しのカギを緩めた。もっとも、緩めた引き出しはどうでもいい情報ばかりだけど」


「どうでもいい、情報……?」


 

 俺は女が開けっ放しにしている引き出しを覗き込んだ。

 引き出しの中には家庭科の授業の光景が広がっていた。

 俺は鮭のムニエルを前に、じっとフライパンを見つめている。


「たしかに、どうでもいい情報だな。つまり……どういうことだ?」

「あなたは私に油断をしているけど、深い記憶や守りたい記憶などの大切な情報を見せるほど油断はしていない、ということ」

「ふ~ん。そんな俺に有利になりそうな情報与えても大丈夫かよ?」

「ゆっくり、あなたの警戒を解いて見せるから、問題ない」


「はんっ、自信たっぷりだな、影の女め……いや、もう影じゃないのか……お前は何者だ?」

「ナニモノ? ふ、ふふ、ふふふ」

「何がおかしいっ?」

「何者って、私はあなたの前世。それはもう知っているでしょう」

「そういうことじゃないっ。いちいち癇に障る女だな。名は? どんな人間で過去に何をした?」

「ふふ、教えてあげない」


 女は声に幼子のようないたずら心を乗せながら、軽く髪に手を通し流す。

 星のように流れる美しき黒髪。

 とても小さな仕草なのに、思わず心はドキリと跳ね上げる。

 それはヤツハにはない、女の色香……。

 女は俺の心の表面を、慈しみ、優しく撫でるように物柔ものやわらかな微笑を浮かべる。



「ふふふふ、いずれ気づくでしょう。あなたはさといから。さぁ、そろそろお目覚めの時間よ。エルフ、だったかしら? 交渉、頑張りなさい。もし、助けが必要なら、助けてあげてもいいわよ」

「いらんわっ。これ以上、お前に対する警戒心を解くような真似できるか!」


 俺が女から目を離すと、視線の先に光の渦が生まれた。

 渦の先からはアプフェルたちの声が聞こえる。

 俺は渦に手を伸ばし、アプフェルたちの元へ帰る。

 だが、その間際に、俺は女へ振り返った。



「エルフだったかしら? ねぇ……。つまり、お前はエルフを知らないんだな?」

 この言葉に、女は口角の片端を醜く捻じ曲げる。

「フフ、本当、聡い子……」

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