第19話 色気のない風呂回

 脱衣場の奥にある引き戸式のドアを横にスライドして、浴室へ。

 浴槽と床は大理石っぽいもので作られており、たっぷりと張られたお湯からは霧のように湯気が立ち昇る。

 

 浴槽はかなり大きく、学校のプールの半分くらいの大きさ。浴槽内は二つの仕切り板で三面に分かれていた。

 浴槽の端には石製のお湯の通り道があり、そこから絶えずお湯が供給されているようだ。

 

 

 浴槽の前には体を洗う場所が設けられていて、いくつかの木製の椅子と桶。そして、石鹸が置いてあった。

 日本の銭湯のように、鏡は置いていない。蛇口も完備していない。

 蛇口の代わりに壁隅には中央部分が深くえぐられた石臼が数個あって、そこからはお湯が溢れ出ている。

 

 お湯が溢れ出る原理はわからないけど、魔法が存在するからそれを使った技術だと思う。

 今はそれらの疑問は端に寄せておこう。

 ここで考えても仕方ないし、わかんないものはわかったときに考えればいいだけ。

 わかることと言えば、この石臼から溢れ出るお湯は体を洗い流すときに使うためのお湯だってこと。


 

 ノアゼットは桶を手に取り、石臼からお湯をすくい、何度か頭から浴びている。

 俺も彼女の隣に並んで、まずは指先で湯加減を確かめる。

 ほどよい湯加減。桶に湯を汲み、自分の身体にかける。


 ノアゼットがお湯で身体の表面を清めたところで、桶に十分のお湯をすくい、それを手に持って、洗い場にある椅子に座った。

 俺もあとについて、彼女から一人分の隙間を開けて座る。


 目の前には石鹸が置いてある。そばにはふわふわとした布の塊。

 たぶんこれで体を洗うんだろうけど、使いまわし?

 でも、触ってみると、そんなに濡れた様子はない。浴室内の湿気を吸った程度の湿しめり。新品?

 

 まぁここで、誰が使ったなんて気にしても仕方ない。少なくともドブ塗れの俺よりは清潔だろう。

 布の塊をお湯に浸し十分にお湯を浸み込ませてから、石鹸をこすりつける。

 ふわふわした布が空気を取り込み、ほわほわと泡立つ。

 

 そいつを左手からこすりつけて、右手に移り、首から下へと体にこすりつけていく。

 特に胸の下は入念にやっといた。ここは汗だまりができて、ちょっと痒かったので。

 全身を石鹸の香りに包まれドブの匂いがしなくなったところで、体にお湯をかける。



 しかし、それだけでは全身の泡は流せない。

 もう一度、お湯を汲んでこようと立ち上がったその時、髪がパサリと肩にかかった。

 髪を手に取り、洗髪もしなければならないことを思い出す。


(ああ、そうだ。髪も洗わないと。でも、シャンプーとかコンディショナーはないよな。仕方ない、石鹸で洗うか。あとで髪がごわごわするのは諦めよう)

 

 

 髪から手を放し、お湯を汲みに立つ。

 立ち上がった時に起こる僅かな空気の流れに乗り、石鹸とは違う香りが鼻腔を通り抜けた。

 香りに惹かれ、そちらへ顔を向ける。

 ノアゼットが半透明のあおい二本のガラス瓶に入った液体を使い、頭を洗っている。


(もしかして、シャンプーとコンディショナー?)


 瓶をじっと見ていると、ノアゼットがこちらの視線に気づいて、瓶を俺の方へずらしてきた。


「開封済みで用なしだ。やる」

「え、やるって、ほとんど使ってないけど」

 ノアゼットはギロリと俺を睨みつける。俺は無言で何度も首を縦に振りながら瓶を謹んで頂戴した。


 頂戴したはいいが、なんで彼女は俺なんかに洗髪剤をくれたんだろう?

 開封済みで用なしということは、一度使ったものは使わない主義なんだろうか?

 見事なまでにお金持ちな行動だ。


 ともかく、せっかく手に入ったシャンプーとコンディショナーだ。使わないと損。

  

 

 石臼からお湯をすくい、何度か頭からかぶって、再び椅子に座る。

 ガラスの瓶に刻まれた文字を読み、まずはシャンプーの栓を開けて液体を手の平へ乗せる。

 すると、花の蜜のような香りが湧き立つ。

 

 お湯の浸みた髪に液体を塗り込み、指の腹を頭皮に当てて、優しくこすっていく。

 髪の毛が、もこもこした泡に包まれていく。

 髪が無駄に長いため、肩口から後ろ髪を前へ持ってきて、両手で軽くこすりつけるように洗う。

 長い髪の洗い方がこれで正しいのか知らないけど、汚れは落ちるだろう。

 

 頭を洗い終えて、お湯をかぶり、シャンプーを落として、コンディショナーへ。

 まんべんなく髪に塗り付ける。長い髪なので面倒くさい……。

 しばしなじませてから、再びお湯で洗い流し、浴槽へ向かった。



 浴槽にはすでにノアゼットが浸かっていた。彼女は三面に分かれた浴槽の真ん中に入っている。

 ここで別の浴槽に入るのはさすがに気が悪いので、彼女と同じ浴槽に浸かることにした。

 でも、もしかしたら庶民が同じ浴槽に入る方が失礼かもしれない。

 だけど、もうわかんないのでテキトーに行動する。


 浴槽に足首まで沈めたが、ノアゼットは無反応。大丈夫なようだ。

 では、温かいお湯に体を沈めるとしましょうか。



「おふ~、気持ちいいねぇ~。たまにはお風呂もいいや」

 日本ではシャワーで済ませることが多かったので、こうやってお風呂に浸かるのは数か月ぶりだ。

 お風呂に浸かった時の胸部への圧迫感が苦手で避けていたが、疲れた体を癒すには全身お湯に浸かる方が良い。


 銭湯が広いので、足を思いっきり伸ばせるというのも気持ちよさに一役買っている。

 お湯の心地よさに、体と心が弛緩し、自然と鼻歌が生まれる。

 気持ちよく鼻歌を刻んでいると、ノアゼットが歌に興味を示してきた。


「ふふふふ~ん♪、ふふふふ~ん♪、ふん、ふん、ふん、ふん、ふふふふ~ん♪」

「珍しい歌だな」

「え?」

「あまり聞かぬ曲調だが、何の歌だ?」

「えっと、それは……」

 


 とあるアニメソングのOPです。なんて説明しても理解してもらえるわけがない。

 ここは記憶喪失設定を展開。

「俺って、記憶を一部失っていて、たまに自分でもよくわからないことを披露しちゃうんです」

「記憶を、失っているだと?」


 低い口調をさらに低め、威圧するような視線をぶつけられた。

 なにか、余計な嫌疑でもかかったんだろうか?

 答えに窮して視線を泳がせていると、ノアゼットは目を閉じて、一言。


「難儀なことだ」


 う~ん、わからない。この人のことが全然わからない。

 心配してくれてるのか疑いをかけているか、俺は一体、どんな態度で応えればいいのか。


 ノアゼットは目を瞑ったまま、湯の中で瞑想しているかのように微動だにしない。

 俺は彼女の顔から視線を下げる。

 そこには、お湯に浮いている二つの山。

 肉体が戦いのため特化したような人なのに、しっかりとしたお胸をお持ち。

 柔らかな物体は筋肉に取り込まれることなく、たしかな形で存在している。

 大きさは俺のなんか目じゃない。



「どうかしたか?」


 

 ノアゼットは目を閉じたまま、語り掛けてくる。

 見えてないはずなのに……気配を感じた、ということか?


「あの、胸が大きくて、すごいなぁって」

「邪魔なだけだ」

「はぁ、柔らかそうなのに、もったいないことを」

「なにぃっ」


 こめかみに血管を浮かせて俺を睨みつけてきた。逆鱗に触れてしまったようだ。

 慌てて、その場しのぎの言い訳を口にする。


「だって、同じ女のとして負けた気がして。うう、嫉妬です。身の程知らずですみませんっ!」

「女……」

 ノアゼットは眉間に皺を寄せて、もう一度こちらを睨んだかと思ったら、ふいっと首を横に向けた。


 なんなんだ、この人はっ? 

 何を考えているのか、本当に本当に、わからん……。



 ゆったりと心を包むお湯の温かさと、地獄のような視線はりむしろを堪能しつくして、風呂から上がった。

 着替えは元の服のままだけど、それはしょうがない。

 早めに替えの下着くらいは買い揃えないと。


 ノアゼットから『私の着替えは時間がかかる。お前は先に出ていろ』とドスの利いた声で追い払われたので、お先に失礼させてもらった。

 彼女からもらったシャンプー&コンディショナーを両手に抱えて外へ出る。建物の出入り口に来たところで、最初に話しかけた兵士が近づいてきた。


「大丈夫だったか? うむ、見たところ、怪我もないし、骨も折れていないな」

「ええ、おかげさまで……」

 


 他の兵士たちも俺が無事だったことに、ほっと胸を撫で下ろしている。

 街の人々も安心した様子で、一様に息を吐いていた。

 街の人や部下からこんな風にみられているなんて、六龍将軍ノアゼット=シュー=ヘーゼル。

 普段から、よっぽど恐ろしい人なんだろうな。

 幸い、怖い場面は何度かあったものの、彼らが心配するようなことは起こらなかった。


 めでたしめでたしと、肩から力を抜こうとしたところに、背後からノアゼットの声が響く。

「まだ、いたのか」

 ノアゼットが現れると、兵士たちは一斉に姿勢を正し、直立不動でノアゼットを見つめる。

 街行く人たちは顔を伏せて、こそこそと立ち去っていく。


 

 俺は眼光鋭く睨みつけてくるノアゼットに怯えながらも、シャンプーをいただいた礼を述べた。

「あ、あの、洗髪剤、ありがとうございます。俺、お邪魔でしたか?」

「……名は?」

「え、な? ああ、名前か。ヤツハって言います」

「ヤツハ……有意義な時間であった」


 ノアゼットは短く言葉を残し、颯爽と踵を返して、ここより去っていく。

 兵士たちはすぐさま彼女の後ろに列となり、整然とした行進を見せて歩いて行った。

 最初に話した兵士が、去り際に小さく声をかけてくる。


「君は、凄いな。あのノアゼット様からを御恵与ごけいよいただいた上に、お褒めの言葉までいただくとは」

「あれ、誉め言葉なんだ……」

「あのお方の、あんな上機嫌を見たことがない。一体どんな魔法を使ったのか、教えて欲しいんもんだ」


 それは俺が知りたい……って、あれで上機嫌なのか?

 兵士は驚き露わとし、周りの人々は俺を見ながら何かひそひそ話をしている。

 悪目立ちしまくりだ。

 

「すんません。俺、用があるんで!」


 俺は兵士に軽く頭を下げて、妙な噂が立つ前にさっさとここから去ることにした。

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