魔法の水差し

雪野湯

魔法の水差し

 それは夕暮れ時のことだった。

 大学からの帰り道。

 俺は公園を通り抜けて、近道をしようとしていた。その途中で、草陰から奇妙な光がチラリチラリと反射しているのに気づく。

 近づいて反射元を調べてみると、草むらの陰に水差しが潜っていた。

 

 

 水差しは装飾など一切ないシンプルな造り。

 しかし、つるりとした表面が光を受けると七色に輝く。

 とてもとても不思議な水差し。

 俺は少々行儀は悪いと思いつつも、水差しを家に持ち帰ることにした。

 


 

 家に着き、部屋で水差しをよく観察する。

 夕暮れの薄暗い光ではわからなかったが、表面の所々に汚れが目立つ。

 だが、汚れていても美しい七色を魅せる水差し。磨けば、より一層素晴らしい輝きを見せてくれるに違いない。

 

 

 そう思い、柔らかな布で表面の汚れを丁寧に拭う。

 拭えば拭うほど、それに応えるかのように、水差しの七色の輝きがどんどん増していく。

 七色の光に魅了されて無我夢中で磨き続ける。すると、水差しは激しい光を放ち始め、一気に光の洪水が部屋を飲み込んだ。


「くっ、なんだこれはっ?」

 

 あまりの眩しさに、視界は一時的に奪われた。

 何度か瞬きを繰り返したり目を押さえたりなどをして、視界を取り戻そうとする。

 なんとか目が落ち着いたところで水差しに目を向けるが、水差しはすっかり輝きを失い、灰色の薄汚れた姿へと変わっていた。

 一体どういうことだろうと水差しを見つめる。

 すると不意に、背後から見知らぬ声が響く。


あるじ様」

 

 主と呼ぶ声は女性のもの。俺は慌てて後ろを振り向く。

 そこには、淡い煌めきを放つ水衣を纏った美しい女性が立っていた。



「だ、誰だお前は? どうやって家に入ってきた? 家の鍵はかけたはずだが?」

「私は水の精。主様の願いを一つだけ叶えてあげる」

「は? 水の精?」

「ええ、私はこの水差しに封じられている水の精霊よ」

「はぁ~?」

 

 

 俺は水の精霊を名乗る女に怪訝な顔を向けた。

 そのような俺に対して女は口を開くことなく、にこやかな笑顔を見せている。



「う~む、にわかには信じられないな。お前が水の精である証拠は? よしんば、水の精だとしても、何故、縁もゆかりもない俺の願いを叶えてやる必要がある?」

「私はある罰を受けて水差しに封印されてるの。その罰は、人の願いを叶えるために助力することで赦される。だから、主様の願いを叶えてあげたいの」


「ふ~ん……で、水の精霊である証拠は?」

「あら、証拠なんて出す必要性がどこにあるの?」

「何?」

「私を求める人間は世界にごまんといる。信じないなら信じないで結構。だってそれは、主様が貴重な機会を逃すだけのことだから」

 


 女は言葉を終えると、軽く微笑んだ。

 俺のことを主様と呼びながらも、どこか居丈高な態度。美しい女性だが、実に気に食わない。

 しかし、女の言い分はもっともだ。



「たしかに、せっかく願いを叶えられるチャンスなのに、疑ってふいにするのは愚かな話か。それに願いを口に出したからって、特にデメリットはないからな」

「そうね、賢明な判断」

「で、何でも叶えて貰えるんだよな?」

「何でもとは……とにかく願いを口にしてみて」

「ふむ……よくある話だが、一つの願いを二つには?」

「それは無理。一人につき、願いは一つのみ。これは絶対の規則」


「絶対の規則?」

「さらに禁止事項として互いに干渉し合う願い、または不特定多数が望む願いは叶えることはできない」

「なんだそりゃ?」

「多くの人間がその願いを唱えても、叶えられるのは一人だけ。そんな願い。例えとして、世界征服など」


「なるほど。俺が世界征服の願いを唱えたのに、他の人間も同じ願いを唱えたら矛盾が生じるからな」

「ええ。他には、世界平和なんかもそう。多くの人々が願っている願いを、主様一人の願いで叶えることはできない」

「あくまでも、俺個人の欲望の範囲ってことか。さて、どうしたものか……」


 

 願いは一つだけ。

 金か、女か、権力か。それとも健康……不老不死?

 どれも素晴らしい願いだが、いまいちパッとしない……だが。



「ふ~む、ありきたりだけど金でいいか。これがあれば大抵のものは手に入るわけだし」

「その願いで、いいの?」

「ああ、そうだな……いや、健康も地味だが捨てがたい。いやいや、いっそのこと大スターになるってもの悪くないか。一度きりの人生、派手に生きるのも悪くないし。いや、しかしだな……」

 困ったことに、色々考え出すと次から次に欲望が湧き出てくる。



(くそ~、どうしたもんか。やはり、願いが一つってのがネックだな。人間の欲望をカバーするには全然足らない。一度きりの人生を堪能するには、一つとはあまりにも少ない)

 

 

 俺は頭を掻き毟りながら、あれこれと願いを思い浮かべる。しかし、何を取っても不満が残る。

(ああ、何度でも叶えられたら。何度でも、何度でも……ん、何度、でも? 待てよ、一度きりの……?)


「あっ!?」

 

 ここで、俺はある願いを思いつく。そして、それを水の精霊に伝えた。

 願いを聞いた彼女は片眉をピクリと上げて、こう返事をした。



「嘘……でしょ……」

「いいや、本気だ」

「本当に、その願いでいいの?」

「もちろんだ。それとも、この願いは禁止事項に引っ掛かるのか?」

「いいえ……はぁ」

 

 

 渋い面を下げながら彼女は返事をすると、小さな溜息を漏らす。

 俺はその姿を見て、してやったりと満面の笑みを浮かべた。

 その笑みを見た彼女は、再び溜め息を漏らす。



「はぁ……まぁ、私が願い事に口を出す権限はないしね。わかった、主様の願いを叶えて上げる」

「ああ、頼むぜ!」

 

 

 俺が威勢よく返事をすると、彼女は静かにこくりとうなづく。

 続いて、彼女が息をゆっくりと吐き出すと、彼女の全身は水差しから湧き出た同じ七色の光に包まれた。

 光は七色から太陽のように激しい白光と変化していき、全ての色を白で埋め尽くす。

 

 しばらくすると、輝きが徐々に収まっていき、部屋はいつもと変わりない風景へと戻った。

 光の洪水から解放された俺は辺りを見渡す。

 部屋からは水の精霊と、彼女の入っていた水差しが跡形もなく消えてなくなっていた。


「消えた……さて、本当に願いが叶ったのかね? ま、のんびりその時を待つか」 

 


 

 その日から俺は新聞、テレビ、ネットいった情報媒体から政治、経済、スポーツなどの様々な情報に対して、意識的に触れるよう心掛けた。

 

 

 月日は流れ、一人の女性に出会い、結婚。そして、二人の子どもが生まれた。

 さらに時は経ち、年老いた俺は病院のベッドに横たわり、最期の時を迎えようとしていた。

 ベッドの周りでは、妻や子供たちや孫たちが哀しげな表情を俺に向けている。

 妻が俺の手を握る。そこからは彼女の暖かな想いが伝わってくる。

 

 

 その暖かさが、俺の歩んできた道が間違っていなかったことを証明してくれていた。

 俺は……一度きりの人生を無難に生きてきた。

 酒は嗜む程度。ギャンブルはやらない。妻を裏切ったこともない。子どもたちを悲しませるようなこともなかった。


(刺激はないが、これはこれで良い人生だった……)

 

 

 歩んできた人生を思い返して、心の底からそう感じることができる。

 ……ゆっくりと、鼓動が小さくなっていくのを感じる……旅たちの時が来るのだ。

 あやふやで、ふわりとした感覚が身を包む。

 消えゆく思考の中で、俺はあの時の願いを思い出していた。



(さぁ、どうなるかな? 本当に水の精霊は願いを叶えて、くれる……のか……)

 思考は完全に消え去った……しかし。



 

 真っ暗な場所……俺は今、目を閉じている。

 光を求めて、ゆっくりと目を開く。

 光り差し込む視線の先には、彼女がいた。


「やぁ、久しぶり。精霊さん」

「そうね。でも、久しぶりっていうのは、ちょっと変かも」

「ははっ、だな」

 

 

 俺は、一つ一つ確認するように、辺りを見渡した。

 ここは見覚えのある場所。俺が学生時代に一人で住んでいた家。

 あの日、公園の茂みから拾ってきた不思議な水差しを磨いた部屋。



「戻ってきた。ちゃんと願いを叶えてくれたってことか」

「もちろんよ。あんたの願い『自分が死んだとき、記憶を持ったまま願いを叶える前の時間に戻してくれ』……この願い、しっかり叶えたからね」

「あんた? いや、まぁいい。ありがとう」

 

 

 俺が懸命に考え抜いて、思いついた願い。

 それはいま彼女が口にしたように、『俺が死んだら、今までの記憶を持ちながら願いを叶える前の時間に戻せ』というものだった。



「さて、これから俺は二度目の人生を楽しむことになるな……何が起こるのかわかっている状態で」

 俺はそのためにテレビやネットなので、重要な政治・経済・芸能。その他、雑多な情報を意識して覚えておいたのだ。



「今の俺は経験と記憶を持ち越している。テレビゲームで例えるなら、強くてニューゲームといったところか。フフフ」

 経験と未来の情報を手にしている状態では、何でも、とまでは言わないが、様々な事象で有利に行動が可能だ。



「さぁさぁ、どうしようか。投資や宝くじで儲けるのもいい。預言者として巷を騒がすのもいい。今まで触れた事のない世界に挑戦するのも悪くない。妻とは……また出会うのもいいな。下世話な話だが、妻以外の女との出会いは次の人生で楽しむとしよう。フフ、ハハハ」

 

 本当に願いが叶うのかわからない一週目の人生では無茶はできなかった。せいぜい、二週目に備えることぐらいしか……。

 しかし、今は違う。



「俺は何度でも人生をやり直せる。途中で失敗だと思えば、自殺でもすればいいだけだ。任意でリセットでき、今までの経験を持ち越した状態で再プレイ可能とは、正にゲームだな、ハハハ!」

 

 

 俺は今まで出した事のない大きな声で笑い声を上げた。

 気分は昂揚し、笑いの収まる気配がない。

 だがしかし、そこに冷や水を浴びせるかのような低い声で、水の精霊が語りかけてくる。



「ゲーム? ゲームじゃない……地獄よ。あんたは地獄に堕ちたの」

「ん、今なんと?」

「あんたはこれから何度も人生をやり直す。それに飽きたら別の願いを唱えるつもりでしょう。その願いは、おそらく繰り返す人生でも叶わなかった事柄。そして、それは同時に、繰り返す時間から脱却するためでもある」



「ああ、そうだ。そのために『願いを叶える前に戻る』。そう、頼んだのだからな」

「その願いで、二つめの願いを産んだつもりでしょうが……馬鹿な男」

「何だと?」


「願いは一つ。これは絶対の規則」


「だから、それを覆すために願いを叶える前に」

「あんたが今ここに居るのは、願いが叶ったから。その時点で願いは終了している」

「いや、それはおかしい。俺は『願いを叶える前に戻せ』と」


「それは、戻る場所と時間を指定しただけにしか過ぎない……もう一度、言う。願いは一つだけ……これは絶対の規則。そして、あんたは願いを叶えて時間をさかのぼった。だからこそ、死を迎えたはずなのに、ここに居る」


「え? 待て、つまり……いや、まさか、それって? そ、そんな……嘘……だろ……」

 

 

 彼女の言わんとしていることが徐々に呑み込めてきた。

 だが、それを認めたくなくて、俺は何度も頭を振る。

 拒絶し続ける憐れな俺に対して、水の精霊は静かに、諭すように苛烈な現実を突きつけた。


「幸い、あんたはとても長生きだった。しばらくは繰り返す人生を楽しめるでしょう。しかし、それも無限の前では……」

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魔法の水差し 雪野湯 @yukinoyu

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