キアラ ⑤シズルのキアラ

 モトコは家を出た。

 バスを待つのももどかしい。歩く方が早いと歩き出すと、にわかに雲が広がり空を覆っていった。

 みるみる辺りは暗くなり、雨が降り出した。


 大粒の雨は、あっと言う間に世界を灰色に変えた。傘を取りに戻るには遅すぎるし、たまには雨に濡れるのも悪くない。とにかく今は、二日連続で昼間に連絡をくれたマサキに会いたかった。


「そんなに濡れて」


 マサキはタオルでモトコを包みストーブの前に座らせると、「すぐに風呂を沸かすから」と部屋をあとにした。


 机には湯気の立つココアが用意され、モトコはほんのりした気持ちになった。

 二、三口すすると、マサキがばたばたと戻ってきた。


「寒くないか?」

「大丈夫よ」

「びっくりしたよ。まさかずぶ濡れでくるとは思わなかった」

「私も」

「なんだか嬉しそうだね。なにかいいことでもあったの?」

「なにも。マサキに会えて嬉しい」


 マサキはタオルごとモトコを抱きしめ、肌に唇をつけた。


「マサキも濡れるよ」

「いいんだ」


 二人は倒れ込んでキスを交わした。


「マサキ、お風呂の水、止めなきゃ」

「今はそんなこと気にしなくていいよ」


 聞こえるのは、激しくなった雨の音と、浴槽を満たし溢れる水の音だけ。現実から遠く離れた場所に二人きりでいるようだった。


「……ん」


 目覚めると、すっかり日が落ちていた。


 今も激しく降り続く雨の音に目をやると、閉じられた窓辺に見慣れた紙が置いてあった。

 手紙に使われる小さな紙だ。


  ゆっくりしてきてね。

            キアラ


 こんな雨の中、鳥が飛ぶとは思えない。モトコの鳥を呼ぶ笛を持っているのは、モトコとシズルとマサキだけだ。そもそも鳥は家に手紙を運ぶのであって、モトコのいる場所には運べない。キアラのことだ。あの不思議な力で手紙だけを届けたのだろう。


「どうした?」

「なんでもない。手紙を見てただけ」

「手紙って誰から?」


 マサキも起き上がった。


「話したよね。家にいる女の子」

「俺も見ていいかな?」

「いいよ」

「へぇ。本当にキアラちゃんなんだ。手紙といえばさ。博士から手紙でも連絡ないのか?」

「手紙も五年前に来たきりよ。あの手紙、あなたも見たでしょ?」

「ああ。でも、本当に、なにもないのか?」

「なにかあったら、マサキにも言うわよ」

「そうだよな」

「ねぇ。手紙といえば、この前の」


 マサキの唇がモトコの言葉を遮った。


「まだ夜は長い。キアラちゃんの許しもあることだし、もっと楽しもう」


 次に目を覚ました時には、もう日が高くなっていた。自己嫌悪に陥りながら、身体を起こす。


 マサキの姿はない。台所から良い匂いがする。遅い朝ごはんを作っているようだ。

 枕もとに乾かされてキッチリたたまれた服があった。マサキの几帳面さは好ましい。シャワーを借りて服を着た。


 窓からさしこむ光は違いがわかるくらいに強くなっていた。

 昨日の大雨は気まぐれな季節の終わりのものだ。今日からは、空気が乾き青空が続く。


「食べていくだろ?」


 気のせいか、マサキの微笑みがいつもと違って見える。妙に照れてしまって、目をそらした。


「どうした?」

「なんだかドキドキする」

「俺の顔を見るだけでドキドキするんだ。嬉しいね。じゃあ、もっと近づいたら、もっとドキドキする?」

「もう。今日はなんだか変なのよ」

「で、ドキドキする?」

「……うん」


 自分でも不思議だった。

 ひかれるように唇を重ねた。


「これ以上はダメだよ」

「俺はかまわないけどね」

「せっかく作ってくれたんだから、さめないうちに食べよう」

「はいはい」


 ブランチが終わると、マサキはコーヒーをいれはじめた。こだわりのサイフォン式で、良い香りが満ちていく。


 キアラを思い出した。結局、一日経ってしまった。キアラはどうしているだろう。一人でなにか食べたんだろうか。


「淹れたてをどうぞ」

「ありがと。これを飲んだら、私、帰るわ。キアラ一人じゃ心配だし」


 羽の音がした。白い鳥は窓枠に止まると、小首をかしげてじっとモトコを見つめた。


「ありがとね」


 手紙を外すと、鳥はすぐに飛びさった。


  モトコへ

  少し出かけてきます。

  ゆっくりしてきてね。

            キアラ


 手紙を覗きこんだマサキが笑う。


「良かったじゃん。ゆっくりしていきなよ」

「いいの?」

「もちろん。いいに決まってるじゃないか」


 いつものマサキからは考えられないことだった。ことが終わるまでならともかく、ことが終われば、「仕事があるから」「早く帰らないと噂になるよ」と、帰るように促されることはあっても、引き止められたことなどない。


「俺も今日は休みなんだ。二人で暇な日なんて珍しいよね。行きたい所ある?」


 デート先もいつもマサキが決めていた。モトコはとっさに頭に浮かんだ場所を口にした。


「キャラウェ」


「そんな所でいいの?」


「どこでもいいの。マサキとゆっくり一日中いられるんだったら、部屋でもいい。どこにも行かなくったっていいのよ」


「俺もだよ。でも、せっかくのいい天気だから、外に出ようか。モトコは最近キャラウェに行ってないんだろ?」


 さすがに昨日行ったとは言えないし、行きたいのは本当だった。今までマサキと一緒にキャラウェに行ったことはない。一緒にキャラウェに行けるのなら、友達の話していたことも、昨日の電話も杞憂だとわかる。


 準備をするマサキには、他の研究員の目を気にするそぶりもない。

 二股は考えすぎだったんだ。モトコはほっとした。


 二人でキャラウェに向かう丘を歩く。

 洗いたての髪が乾いた風に流れて気持ちがいい。


「思っていたより風があるね」


 空には雲ひとつない。

 坂の途中で、マサキはモトコの手をとって立ち止まった。


「こうして目を閉じると、なんだか空を飛べそうな気になるね」

「そうね」


 実際に空を飛ぶよりも幸せだった。二人で空想の空中遊泳を楽しんでいると、

「モトコ!」

 空の上からキアラが叫びながら飛んできた。


「一緒に来て!」

「どうしたのよ?」

「チチよ。チチがいたのよ!」

「父さんが? 本当に?」


 モトコも飛び上がった。


「どこ? どこにいたの?」

「あの穴の奥。わたし、あれから気になって行ってみたんだけど。とにかく来て!」


 二人は昨日の穴まで飛んだ。

 穴に入ると、キアラから懐中電灯を手渡された。


「持っていて。一気に行くよ」


 言葉が終わるのと同時に、辺りは暗闇に包まれた。

 ひんやりとした空気。

 水滴の落ちる音がする。

 空気が抜けるような音が定期的に聞こえる。


「父さん?」


 モトコはいそいで明かりをつけた。

 シズルの姿はどこにもない。


「父さん。いるんでしょ? どこにいるの?」

「……モ……トコ?」


 空気の抜ける音は、シズルの荒い息遣いだった。


「父さん!」


 苦しそうな声だ。怪我をしているのかもしれない。声のする方向に明かりを向けた。岩が浮かび上がるだけでシズルの姿は見えない。


「まさか、この下にいるの?」

「会い……たかった……。声だけでも……嬉しい……」

「私だって会いたかったよ!」

「満足だ……。最後に、おまえの声が聞けた。もう、思い残すことは……」

「なに言ってるのよ。キアラは? キャラウェの宝は父さんの夢でしょう?」

「キア……ラ……」


 はあっ、と、大きな息がもれた。続いて激しくせき込む音が響く。


「大丈夫? しっかりして!」

「……ここに、キアラのすべてがある。モトコ……あとは、おまえが…………」

「父さん? 父さん、父さん!」


 モトコが息をのんで黙り込むと、息遣いはもう聞こえなくなっていた。


「……キアラ。私の願いをなんでもきいてくれるって言ったよね?」

「うん」

「私、まだ全部話してないのよ。お願い。父さんに会わせて!」

「いいわ」


 キアラは左手を、シズルの声のした方向に伸ばした。

 迎えるように開かれた指先は、闇の中、ゆっくりと淡い光をおびていった。光は少しずつ、人の形になっていく。


「父さん……?」


 流れ上がる光の粒子は、モトコの息にかき消えそうになりながら、シズルの姿を形成した。七十三歳のはずの姿が、五十代くらいに見える。あの写真に写っているシズルそのものだ。


 シズルの右手はキアラの左手とつながっている。シズルは不思議そうな顔をしていたが、モトコに気づいて笑った。


『モトコ。大きくなったね』

「父さん!」


 シズルに触れようとしたモトコを、キアラは右手で止めた。


『こんな形でも、会えて嬉しいよ』


 モトコに微笑むと、シズルはキアラと視線を交わした。


『時間がない。モトコ、よく聞いておくれ。私はキアラを見つけた。キアラがどうやって作られたのか、それとも元々存在していたのかはわからない。わかったのは、キアラは「宇宙の力」、「人の願いを叶えようとする力」の増幅器のようなものだということだ』


「増幅器?」


『そう。それも絶大な力だ。だから神殿の幾重もの布は、キアラが人々の目に直接ふれないように、隠すためだったと考えられる』


「どうして、隠したりなんか」


『神は公平でなくてはならない。神が個人と関わりを持てば感情が生まれ、願いが偏ってしまうと考えたのだろう。キアラは神殿に祭られ、外部と遮断された中で、人々から届く願いを叶え続けた。それこそ神のようにね。でも、あるとき、神殿に入った人間によって、キャラウェは崩壊した』


「キアラと人間が直接会っただけで文明が滅んだってこと?」


『おそらく、その人間が滅びを望んでいたのだろう。キアラは純粋な増幅器で、善も悪もない。望まれるままに力を使う。その人間も、滅びを口にはしなかったのかもしれない。直接出会ったことで、無意識レベルの望みまでも叶えられた可能性がある。それほどまでにキアラの力は強いのだ』


「そんなこと信じられない」


『モトコはこの姿をどう思う? 若いだろう。ここに閉じ込められてから、日に日に若くなっていった。最初は気のせいだと思ったが、間違いない。私が望んだからだ。「キャラウェの謎を解くまでは死にたくない」、「モトコに会うまでは死ねない」それだけで、けがを負っても、飲まず食わずでも、ずっと生かされ続けてきた。私の願いが叶ったから死んだ。それでいい。もう十分だ。キアラについては、私の死体のそばに詳しく書きとめて置いてある。研究員をこの場所までつれてきてほしい』


「いやよ! だって、研究員がケガをした父さんをここに閉じこめたんでしょう? そんな人達に知らせるなんて絶対にいや!」


 シズルは寂しそう笑った。


『確かに私は仲間に閉じこめられた。口うるさい私は邪魔者だったんだろう。でも、おかげでキアラを見つけることができた。今となっては良かったと思っている。これでこの事業は成功で終わる。なにもかもが長過ぎた。これで良かったんだ。あとはモトコに託したい。モトコがすべてを継げるように、遺書も書いた』


 話している間にも、シズルの身体は足元からちぎれていき、光はうすく小さくなっていった。


「なんで、なんでもっと早く連絡してくれなかったの? ここにいるってわかってたら、私……」


『手紙を出したのはずいぶん前だ。ここに閉じ込められて最初は暗闇の中をさまよっていた。キアラにたどり着いてからはキアラについてまとめていた。出口もわからなかったが、そのうち横穴がつながった。しかしへたに出て研究員に見つかれば今度こそ殺されるだろうと、隠れて機会をうかがっていた。隙を見つけてモトコにだけわかるようにと手紙を出したんだが……』


 顔だけになったシズルはキアラを見た。

 シズルの顔は、もう半分以上消えていた。シズルはキアラを見て、懐かしそうに目を細めた。シズルには、キアラは思い出のネックレスを身に着けた在りし日の妻に見えていたのだ。


『君がそばにいてくれたんだね。ありがとう。モトコは寂しくなかった……だろ…………』


「父さん!」


 光の粒子は完全に消えた。


 明かりは力なく垂れたモトコの手に握られた懐中電灯が床を照らすのみで、水滴の落ちる音だけが空しく音をつなげた。しばらく待って、キアラが口を開いた。


「モトコ」

「あ……帰らなくちゃね。キアラ、外に出して」


 キアラはモトコの手を取ると、穴の外に出た。外の様子は、穴に入る前と少しも変わらない。

 青空の下、乾いた風に吹かれていると、さっき目の前で起こったことが夢の出来事のように思えた。


「私、マサキのところによってくから。先に家に帰ってて」


 強い日差しの中、モトコはマサキの家に向かった。

 なにから話せばいいのか見当もつかない。いや、その前にマサキから、目の前で飛んでいったことを聞かれるだろうか。

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