ザリクとシャーリーリ
金澤流都
第一章 旅のはじまり
1-1 難破船
カイリオン号は完全に難破状態だ、と乗客に伝えられたのは、まだ陽も登らない早朝だった。カイリオン号はひどい風にあおられてマストが折れ、荒波に揉まれてぐらぐら揺れている。カイリオン号はもう沈むしかない。船長以下、船員たちはそう判断し、乗客を小船にのせて脱出することにした。
明かりのない船室の隅で、髪をベールで覆い隠したルルベル教徒の女が、恐怖に震えていた。その女は、女が外で仕事をすることを悪とするルルベル教徒とは思えない、いかついビジネスバッグを抱えていて、どうやら貿易商の仕事をしているらしいことが見て取れた。よく見れば髪を覆うベールは、東方の地で産出されるメダルマ蚕のシルクで、西方に多いルルベル教徒が身につけているものとしては珍しい。建物の中では素足のルルベル教徒なのに、優美なハイヒールを履いているのも、その女が異質な存在であることを示していた。
「小船の用意ができました。このままではこのカイリオン号は沈みます。順番に、ゆっくり船室を出てください。余計な荷物は積めません」
船長が船室の乗客たちにそう声をかけた。金持ち風の男が、
「オートマタも乗せちゃだめかい?」と、船長に訊ねた。
「オートマタ……機械人形ですか……うーん……」
船長は悩んでいる。オートマタ。魔法で動く機械人形だ。
その機械人形は、ルルベル教徒の女の向かいで小さく座っていた。わりと人に寄せたもので、皮膚なんかは錬金術を用いて作られた、人間のそれにそっくりな肌だ。おそらく高貴なひとに仕えるために作られたものだろう。ルルベル教徒の女は、その人によく似た機械を、呆然と見つめていた。
「まあ、記憶チップを移し替えればいくらでも替えが効く。枢機卿さまならこの程度のオートマタの一体や二体、なくしたって文句は言わないさ」
金持ち風の男はそう言って笑うと、オートマタの後頭部に手を伸ばした。かちり、と音がして、オートマタはがくりと首を倒した。六角形のカード――記憶チップ――を奪われたオートマタは、意識を失ったようだった。
ルルベル教徒の女は、捨てていかれるオートマタに一瞬同情して、それでも死ぬわけにいかない、と立ち上がった。女は義足だった。幸い、体のラインを隠す長いスカートの民族衣装を着ていれば、両脚が作り物であることなど気にならないし、女自身生まれてからずっと義足で暮らしてきたし、つけているのは最先端の魔動義足なので、なんの違和感もないことだった。
女が小船に乗り込む番が来た。ビジネスバッグを抱えて、船室を出る。ひどい風だ。雨もばちばちとベールに打ち付ける。
女が小船に降りようとしたそのとき、ものすごい突風が吹きつけてきた。
「きゃぅっ」女は悲鳴を上げた。その風の勢いで、カイリオン号につながれていた小船のロープは、あっけなく切れてしまった。
女は海に落ちそうになった。外洋である、海に落ちれば海の中の異形生物に一瞬で食われる。女は慌ててカイリオン号にしがみついた。右足の義足が、ぶつかったはずみに外れて、海に落ちた。
女は這いずってカイリオン号によじ登る。もう小船は、カイリオン号から遠く離れて、波の向こう側に行ってしまっていた。
(どうしよう、悩んでる余裕なんかないけど……そうだ)女は左脚の義足を引きずり、船室に戻った。抱えているビジネスバッグはすでに雨と潮でぐちゃぐちゃで、中の書類が無事かと言われたら微妙なところだ。でも、この状況で書類の心配なんか無意味だな、と女は思った。
女はあることに賭けてみようと考えていた。船室では、何ごともないかのように、オートマタがうずくまっていた。女はビジネスバッグから、天球盤を取り出した。天球盤というのは、複雑な計算を一瞬でやってくれる魔法道具だ。ルルベル教徒は昔から数学に長けたものが多く、その数学の技術で生み出されたものは数知れない。天球盤もその一つで、ルルベル教徒の商売人ならだれでもカバンに入るサイズのやつを一つ持っているのが当たり前だ。
天球盤を揺れる船のなかで起動し、記憶チップの白紙化ボタンを押す。商売のデータはすべてぶっ飛んでしまうが、命がけのこの状況で、商売のデータなど構っていられなかった。
白紙化された記憶チップを、うずくまっているオートマタの後頭部にかちりと差し込む。オートマタはしばらく黙ってから顔を上げると、
「記憶チップを認識しました これよりマスターの登録を開始します」
と、この状況ではずいぶんと悠長に感じられる言葉を発した。ルルベル教徒の女は、オートマタの顔を覗き込み、
「わたしはシャーリーリ・イレイマン。アリラヒソプ葡萄酒貿易社の社長です」
と、名前と肩書を登録した。
「マスターの登録を完了しました。続いてオートマタの個体登録を開始します。八音以内で、本体の名前を入力してください」
「ザリク」シャーリーリはそうはっきりと、悩まずに言った。
ザリク、というのは、シャーリーリが幼いころイレイマン家に仕えていた召使いの名だ。
シャーリーリは、ザリクが大好きだった。しかし、ザリクはシャーリーリに特別気に入られている、という理由で、シャーリーリの兄たちの召使いにリンチされて死んだ。
「個体登録を完了しました」
ザリクはそう答えると、宝石の目玉をきらりと光らせた。
いかにも高価そうなオートマタだと、シャーリーリは思った。枢機卿が使っている、と持ち主が言っていたことを思うと、最近開発されたばかりの、高価なタイプのオートマタかもしれない。ホムンクルスとのハイブリッドの、オートクルスというやつだ。
「シャーリーリ。どうしますか」
「まずはこの嵐を乗り切らないことには。この船は沈みかけてる。わたしをかかえて、どこか安全なところに移動できませんか」
「了解しました」ザリクは言葉少なにそう答えると、シャーリーリをひょいとお姫様抱っこした。シャーリーリはまさかお姫抱っこされるとは思っておらず、「ふぇ?!」と声をたてた。ついでに、ザリクはシャーリーリのビジネスバッグも拾ってくれた。
「少々揺れますので、しっかりおつかまりください」
「えええ?!」
ザリクの背中から、ルルベル教の経典に出てくる神の使いのような翼が生えた。ザリクはばさばさと羽撃くと、シャーリーリを抱えて、近くの岩場に移動した。
「ここなら海に沈む心配はありません。満潮でもこの岩は残るとデータベースにあります」
「ザリク……、お前はずいぶんと賢いのですね」
――次第に雨は弱まってきて、風も収まり、海のかなたから太陽が昇るのが見えた。
シャーリーリは濡れたベールを外そうと頭に手を伸ばした。しかしベールは風でどこかに飛んでいったらしく、濡れて首や頬にまとわりついているのは長い黒髪だった。
「……こんなところで、戒律なんか守っても仕方がありませんね」
「シャーリーリ。どうしますか」
「地図は開けますか? ここはどこでしょう」
「イーヤ国から南西の海上です。近くに有人島があります。そこまで移動しますか?」
「――それがいいでしょうね。できるのですか?」
「お任せください」ザリクはそう答えると、またシャーリーリをお姫様抱っこして、ばさばさと空を飛び始めた。
「ちょっ……ザリク! 高い! 高いです! しかも速いです!」
「失礼しました」
ザリクは高度を少し下げ、飛ぶスピードを少し緩めた。それでもシャーリーリには、相当に恐ろしいことだった。
――島が見えてきた。岩場があるということは要するに陸が近いということ。見れば、脱出してシャーリーリとザリクを置いていった小船が、ひっくり返って浜辺に流れ着いていた。
無事に助かったのは、シャーリーリとザリクだけだったのだ。なんたる皮肉。シャーリーリはため息をついた。唇が青くなっているのが分かった。
島の浜辺に降り立つ。片足が海に沈んでなくなり、歩けないシャーリーリは、ザリクに、
「お姫様抱っこはさすがに恥ずかしいので、ふつうにおぶってもらえませんか」
と訊ねた。ザリクは「了解しました」と答えて、シャーリーリをおんぶした。
浜辺を、島民の子供たちがかけてきて、シャーリーリとザリクを取り囲んだ。「生きてるぞ!」と、子供たちが言うのを聞いて、シャーリーリは自分が生きていることを確信した。
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