第17話 ラシールの決断

「ラシールは、大丈夫なの?」


「何が?」


 熊の襲撃は逃れたものの、すでに満身創痍だったエカテリーナは、ただいま絶賛療養中。

 そのベッドの傍らに座り、ラシールは本を片手に微笑んでいた。


「あなた、王太子様の側近狙いなのでしょう? あまり、わたくしに近寄らない方が良いのではなくて?」


「ん~。ラルフらから話を聞いたと言えば分かる? その話どおりなら王太子の側近になる理由が無くなるんだよねぇ」


「理由?」


 訝る彼女の顔全面に浮かぶ疑問符。

 その無垢な仕草に苦笑いし、ラシールは読んでいた本を閉じる。

 そして静かにエカテリーナの手を取り、これ以上ないくらい柔らかく包んだ。


「俺がフィルドアの側近になりたかったのは、君が彼の傍にいたからだよ」


 はにかみながら、窺うように呟くラシール。

 イマイチ理解出来ていないエカテリーナの鈍感さに、呆れつつも、さらにラシールは言葉を紡いだ。


「君が王太子の婚約者となり、正妃となれば、そう簡単に近寄れなくなるよね? だから、君の傍にいるために、フィルドアの側近になりたかったんだよ。誰よりも君の近くにありたかった。でも........」


 ラシールは満面の笑みを浮かべてエカテリーナを見つめる。

 その慈愛と情熱に満ち溢れた笑顔は、彼女の胸を高鳴らせた。

 なまじ整った容貌なだけに、ラシールの笑顔は、微かな動きすら凶器に等しい。

 王太子と並ぶと、その凄みはさらに増す。女生徒らの黄色い声が絶えない事にも頷ける美貌の二人だった。

 ラシールは幼馴染み、フィルドアは押し付け婚約者。

 そのどちらとも幼い頃より交流のあったエカテリーナには、その美貌の効果がない。

 特に王太子の中身の残念っぷりは、その容姿を遥かに凌駕するマイナスイメージでエカテリーナに認識されていた。覆される事は容易でないだろう。


 そんな彼女にだって、目の前のラシールが醸す雰囲気に気づかない訳はない。

 情欲の滲むその瞳が、彼の心情を雄弁に物語っている。


「ラルフ達の話しによれば、いずれ君は自由になるんだろう? なら俺がフィルドアの側近になる理由はない。だから....... 君が自由になるまで、待っていても良いかな?」


 真摯な眼差しと言葉に含まれる遠回しな求婚。彼らしい奥ゆかしさに、思わずエカテリーナは顔を綻ばせた。

 自分達は貴族だ。その婚姻とて本来なら自由にはならない。

 政略であり、契約。いかに家の利益とするか。恋と婚姻は別物で、伴侶とは違う情人を持つ貴族も少なくはない。

 そんな中、子供らの意思を尊重する辺境伯家は異質なのだ。

 王家と対等に近い地位にありながら、その姻戚による弊害がないため、代々恋愛結婚を続けてきたせいなのだろう。

 王家から血縁を迎えた事もなく、完全に独立した家名である。


 だからこその今回の事態だった。


 エカテリーナは、兄達がラシールに事の経緯を話した事にも驚いたが、ラシールの思惑にも驚いた。

 そこまで自分に執着していたのに、その実らぬ恋心を完全に隠して傍にいてくれようとした気持ちにも驚嘆を覚える。


 彼女ははかける言葉が見つからず、軽く眼を泳がせた。


「リーナを困らせるつもりは無いんだ。俺が勝手に待つだけだから。もし、君が自由になった時、少しでも俺に気持ちがあるのなら思い出して? 俺は既に爵位を捨ててるから、拾ってもらえたら嬉しいな」


「爵位を捨てた? どういう事?」


 驚き眼を見張るエカテリーナに、してやったりと、ほくそ笑むラシール。


「弟に譲ったんだ。こんな爵位なしの男に言い寄る御令嬢はいないしね。誰に憚らず君を待てるよ」


 いかにも至福と言わんばかりの蕩けるような微笑みで、ラシールは握っていたエカテリーナの手に口付けた。

 そこから伝わる熱量に、彼女は背筋を震わせる。彼の本気度が、これでもと伝わってきた。


 己の恋が成就しようとしまいと、元よりその全てをエカテリーナに捧げるつもりだったラシールは、思いがけず掌に落ちてきた幸運を逃がすつもりはない。


 全力で獲りに走る。


 懇願のように聞こえる彼の願いは、彼女の退路を潰す陥穽だった。

 こう言っておけば、エカテリーナの脳裏にはラシールしかなくなるだろう。

 他の男が彼女に近づいたとしても、色恋を仄めかしたところで、彼女の脳裏に浮かぶのは待ち続けるラシールの姿。

 待つというラシールを、エカテリーナは絶対に無下には出来ない。

 それだけの絆はあると彼は確信していた。伊達に長々と辺境伯家で家族同然の暮らしはしていない。

 

 爵位を捨て、王太子の側近にもならず、自らを崖っぷちに追い込み、ただエカテリーナを得る事のみを望むラシール。


 これに揺らがぬほど、エカテリーナも情がない訳ではなかった。


 元々、縁の深い幼馴染みである。家ぐるみの付き合いで、御互いに気心の知れた人間。

 いずれ辺境伯が良い縁談を結んでくれると思っていた彼女だが、それがラシールであれば文句のつけようもない。

 成績優秀、品行方正、さらには騎士団に所属出来るほどに腕も立つ。

 王太子の側近となるべく、内政も学び、政治にも明るい。

 辺境伯家領地の婿とすれば、これ以上ない最良物件である。


 一子相続の通常の貴族と違い、広大な領地を持つ辺境伯家は、各地域を貸与し、発展および税収の寄与を望んでいた。一代限りであれど、親の興した土地を領地とし、子供らが領主になれるのだ。

 辺境伯が親となり、各領地の領主が子となる血族による為政システム、

 三親等離れていれば婚姻も可能で、実際のところ、領外から迎える配偶者より、領内で迎える配偶者の方が多い。

 王国の1/5を占める辺境伯領内が、小さな王国となりつつある現状を王宮は知らない。


 そんな特異な辺境伯領だ。

 ラシールの申し込みは、諸手を挙げて歓迎されるだろう。

 内に外にと、即戦力となる彼の存在は非常に有り難い。


 御互いの気持ちを感じ、面映ゆく見つめあう二人を知らず、王宮で暗躍を始めるフィルドア。


 こうして、二つの恋物語が始まる。


 


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