僕の奇妙な少女譚

じゅん

連続少女世界①

 精神病は突然はじまる…。


 朝目が覚めたとき、僕は恐ろしい予感に身を震わせた。ベッドから身体を外に出すのがおっくうに感じ、ただ時が過ぎるのを待つように寝床に横たわっていた。


 カーテンから射しこむ太陽の光が僕の顔を数秒ごとに照らす。きっと頭上ではいくつもの雲が太陽の前を行き過ぎているのだろう。無限に繰り返されるかに思われる光の現れに身を捧げていた。できれば何も起きてほしくはなかった。正体のわからない不安が姿を見せないのを願っていた。


 とにかく、もう取返しのつかないことが始まっているにちがいなかった。動物の危機回避の本能にしたがってぷつぷつと全身に鳥肌が立つ感覚がした。心臓の内側からどろどろに溶けた赤い液体が激しく体内に循環される。僕は明らかに動揺していた。目を閉じて深呼吸をし、目の裏側の暗闇の背景に想像を張り巡らそうと必死になっていた。


 唇を噛みながら心を落ち着かせる安息の地を求める…。そう、たとえば…一点の曇りもない青空、鏡のように静かな湖面、その周りをめぐる新緑の大地、湖畔に立つカラフルなパラソル、白色のビーチチェアに仰向けに座って僕は目をつぶっている。明鏡止水。ここに至って、内なる我が世界と外界は和解し、すべては一寸の狂いもなくバランスを保って静止している。


 僕が求めているのは、万物が調和している平穏な世界。ついに、究極の桃源郷を手に入れたのだ。


「お兄ちゃん…」


可愛らしい声が耳元で聞こえた。しかしそれはなぜだが、死者が生者の足首をつかみ、力づくで生臭い匂いが渦巻く闇に引きずり込もうとする呪いの声に聞こえてくる。息が苦しい。酸素を求めるように小刻みに呼吸をしながら、意固地に僕は目をつぶり続ける。


「お兄ちゃん…起きてってば…」


何者かにまぶたを無理矢理開けられて、僕は再び現実へと引き戻された。朝の光に包まれた視界の中央で一人の少女が微笑んだ。栗色の髪を肩までなびかせ、黒い瞳を大きく開いて僕を見ている。優しい表情だった。


「やっと起きた…学校遅れちゃうよ?」


ほっとしたように一息ついて、心配そうに小刻みに瞬きを続ける。美しいまつ毛の輪郭をなぞるように眺めながら、僕はまだ夢見がちに眼球を動かした。自分がここに「生きている」実感を得ようとあくせくしたが、結局のところ何も見いだせなかった。


「大丈夫…?体調悪い…?」


可愛らしく小首をかしげる少女の鼻がひくひく動くのを観察しながら、ふと猫のようだなとぼんやり考えていた。しかしこの奇妙な現象はなんだろう…。まったくもって不可思議な眼前の事実に僕は戸惑いを隠せなかった。


 わなわなと唇を震わせながら、声に出しただけで殺されそうな一言を絞り出す。


「あんたは…だれだ…?」


狂おしいほど爽やかな朝が始まる前、僕が安らかな眠りに落ちる前の世界に少なくともこんな少女は存在しなかった。「お兄ちゃん…」そう僕を呼ぶ声から察するに、彼女は僕の妹だと言いたいのだろう。しかし、記憶の端から端を探してもそんな情報は見つからない。


 僕は一人っ子で、父と母以外に家族はいない。


 しかして、この少女はだれだ…?



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