未来へのセレンディピティ

中澤京華

蜃気楼のような街の淡い影

 その日、帰り道の電車の中で一人の女性が泣いているのに気づき、俺は無性に気になった。


俺の真向かいに座っていたその人は俯いて咽ぶように肩を震わせている。


—長い黒髪に覆われその人の顔は見えなかったが、その様子が無性に気になり、それとなく見ていたら、その人は不意に顔をあげ、指で涙を拭って周囲を見渡した。


物憂げな視線が俺の視線とち合った一瞬、俺は慌てて目を逸らすと、丁度開いていたスマホの画面に目を向けた。


—新型コロナウイルスによるパンデミックが広がったコロナ禍の影響で、電車の車内では誰もがマスクをしている。


その人も類に漏れず、マスクをしていたが、潤んだ大きな瞳は印象深く、その悲しみを物語っている。


なぜ、泣いているのだろう?

何か悲しいことがあったんだと思うけど。


—なんだか無性に気になる—。


そのままスマホの画面に視線を向け、新着をチェックしていると、次の駅名を告げる車内アナウンスが流れた—。


真向かいに座っていたその人は徐に立ち上がると、近くのドアの前で電車に揺られている。その後ろ姿が気のせいかとても凛として見える—。


—あの人は涙を堪え、今、何を考えているんだろう—。


その時、電車が急ブレーキをかけて大きく振動し、踏ん張りきれなかったのか、その人は不意にしゃがみ込んだ。


「大丈夫ですか?」

俺は咄嗟に駆け寄り、声をかけた。


見るからに目元に苦痛を滲ませながら俺の方をちらっと見た彼女は、そのまま蹲ると苦しそうに息をしていた—。


—なんだか苦しそうだけど、どうしよう—。


戸惑い気味に周囲を見渡すと近くにいた乗客も何事かといった表情で蹲っている彼女の方を見ている—。


そうこうする間にも電車は次の駅に着き、速度を下げて、停車した。


「……ここで降ります…」

苦しそうに立ち上がると、彼女は手摺りに掴まった。


俺は咄嗟に彼女の身体を支えるように手を回した。


電車のドアが開くと彼女を支えながら私も一緒にその駅で降りた。


「駅員さんを呼びましょうか?」

「……すみません。少し休めば落ち着くと思います」


彼女を支えながら、近くに休めそうな場所がないかと辺りを見渡していると、誰かが呼んでくれたらしく、駅員さんが駆け寄って来た。


「あの……、具合が悪くなってしまったみたいで休める場所はありますか?」

「救護室にならご案内できますけど、お知り合いの方ですか?」

「ええ、まあ……」

俺は咄嗟に知り合いの振りをした方がいいような気がして、そのまま言葉を濁した。


「あの、いいんですか?」

痛みを堪えているのか、辛そうな表情で彼女は言った。

「ええ、一緒に降りてしまいましたし」

「ありがとう。助かります」

ホッとしたように彼女は微笑んだ。


駅員の案内で救護室に入ると俺たちは備え付けのアルコールで手を消毒をした。


「今、看護師を呼んできますから熱を計ってここで休んでいてください」

看護師は体温計を差し出すと、救護室を出た。


医務室にはベッドが備え付けてあって、横になって休めるようになっていた。


彼女は早速ベッドに横になると体温を計り始めた。


「誰かご家族の方に連絡して迎えに来てもらった方がいいんじゃないですか?」

「……少し落ち着いたら、タクシーで帰りますから大丈夫です。それより、お時間は大丈夫ですか?ここまで付いてきてもらっただけで充分ですし、もし、用事があるなら帰ってくださいね」

「大学の帰りなので、大丈夫です」

「そちらこそご家族が待っているんじゃないですか?」

「まだ夕方ですし…」


—その時、看護師らしき男性が救護室に入ってきた。


ピピッ、ピピッ—。

体温計が鳴ったので、彼女は体温計を看護師に渡した—。


「36.4℃、平熱ですが、顔色が悪いですね」

「ええ、腹痛と目眩が酷いですが、少し休めば落ち着くと思います」

「そうですか。最寄りの医院に救急外来で連絡しなくていいですか?」

「はい」

「では、コロナ禍のご時世ですし、何かの時のためこちらの利用者記録にお名前と連絡先を記入してください。付き添いの方もお願いします」

そう言うと、駅員は利用者記録を記入する用紙を私に渡した。


「書けますか?」

「ええ、なんとか」


 彼女はゆっくりと起き上がると、用紙を受け取り記入した後、俺に渡した。彼女から受け取った用紙に書かれた名前と住所と電話番号を咄嗟に眺めながら、俺も自分の名前と住所と電話番号を急いで記入し、駅員に渡した。


「では、良くなるまでここで休んでいてくださいね。付き添いの方、何かあったら、近くにいる駅員を呼んでください。また退室の際も駅員に声をかけてくださいね。よろしくお願いします」


そう言うと、看護師はそそくさと出て行った—。


「田辺由美子さんっていうんですね」

「ええ、平凡な名前でしょ。あなたのお名前は?」

「あ、すみません。森大樹といいます。俺も平凡な名前です」

「…森君……コロナで大変な時に突然、ご迷惑かけてしまってごめんなさい。でも、助けてくれてありがとう。森君は大学生なのね」

「あ、はい。今日は対面授業がある日で。コロナのこともあるのでこの後、特に予定はないです。……それより、早く良くなるように横になってください」

「そうですね、ありがとう……お言葉に甘えて少し休みます。少し休めば良くなるので」

田辺由美子さんは静かに横になると安心したように目を閉じた。


—それにしてもこの状況、なんだか緊張する—。


 手持ち無沙汰になった俺は鞄からスマホを取り出すと、いつものようにアプリからの通知やSNSを何気なく確認した。救護室の外の駅のプラットホームに電車が入り込む音や忙しなく人が行き来する足音が聞こえてくるせいか、気持ちがそわそわして落ち着かない—。


「…ところで、熱がなくて、良かったですね」

俺は田辺由美子さんの様子が気になり、それとなく呟いた。

「ええ、いつもの貧血だから、少し休めば良くなるわ。少し寝不足が続いただけ……森君はもう帰っていいのよ」

田辺由美子さんは目を瞑りながら答えた。

「寝不足続きって、大変そうですね。俺、気づくと寝ちゃってるから寝不足にはならないです。…そういえば、それに、さっき泣いてましたよね。何かあったんですか?」

「ああ、さっき、泣いてたの見られちゃったね……」

そう言うと田辺さんは言葉を濁した。俺は聞いたら不味かったかなと内心、気不味い思いで一杯になった。

「あの……、すみません。余計なことを聞いて」

「ううん。目の前で泣いてる人がいたら、気になるわよね。……ちょっと悲しいことがあったの」


—その時、携帯の着信音らしき音楽が流れた—。

田辺さんは起き上がり、鞄から携帯を出すと電話に出た。


「はい、田辺です。はい…。はい…。わかりました。まだ、家に帰る途中なので、後程、確認しておきます」

そう電話に応答すると田辺さんは電話を切った。

「仕事の電話。あ、そうだ。助けてくださったお礼に名刺を渡しておくね。何の役にも立たないかもしれないけど、私の連絡先よ」

田辺さんは少し休んで楽になったのか、さっきとは打って変わったキリッとした表情を目元に浮かべ、鞄の中から出した名刺を俺の方に差し出した。


「えっ!名刺を!いいんですか!?ありがとうございます!名刺は生まれて初めて貰います」

俺はその名刺を丁重に受け取り、じっと見た。


—○○研究所 アドバイザー 田辺由美子と表記された後に住所、電話番号、携帯番号、メルアドが書いてあった。俺はその名刺を学生証の入っているパスケースに急いで仕舞った。


「…私、もう起きれるから、そろそろここを出ましょう」

そう言うと田辺さんはゆっくりと起き上がった。

「あの、この連絡先に連絡してもいいですか?俺、ブログがあるから後でメールします」

「そう……送ってくれるなら、見てみるわ」

「よろしくお願いします。じゃあ、駅の改札まで送ります」

「ありがとう」

田辺さんは徐に立ち上がると、身支度を整えた。


—救護室を出ると俺はすぐ隣りの駅事務室にいた駅員さんに声をかけた。

「彼女、体調が良くなったみたいなので、もう出ます。ありがとうございました」

「良かったですね。お気をつけて!」

駅員さんはにこっと会釈した。


駅の改札に着くと、田辺さんは改まったように俺に向かって深々とお辞儀した。

「今日はほんとうにどうもありがとうございました」

「いえ、気をつけて帰ってくださいね」

「君も気をつけてね」


 田辺さんはにこっと微笑むと俺に向かって手を振った。そして俺が会釈すると、改札を通ってそのまま出口の方へと歩いて行った。


 さらさらとした長い黒髪が印象的な田辺さんの後ろ姿は、夕闇へと向かう蜃気楼のような街を歩く人々の波とともに俺の心に淡い影をじわじわと刻みつけながら、遠ざかっていく—。


 次第に遠くなっていくその後ろ姿がまだわかるうちに、追いかけていきたい衝動に俺は咄嗟に駆られた。


—さっき知り合ったばかりで追いかけたら、やっぱりストーカーみたいと思われるだろうか。それとも、どうしたの?と笑ってくれるだろうか—。


そう思いながら、元来たホームへと向かうエスカレーターに乗った。


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