ハチコイ

三毛猫マヤ

        ハチコイ        

 朝、スマホのアラームが鳴る五分前に目を覚ます。

 この時間に設定してから三週間、体が馴染んできたのか、アラームの前に起きる日々が続いている。


 洗面所に行くと、早めに朝食を済ませた母親が歯磨きをしたままあいさつしてくる。

「おふぁよ」

「おはよ」

 タオルを片手に母親がうがいを終えるのを待つ。

 洗面台の脇にある窓から、朝日が差込んでいて、天気予報の通り今日は晴れのようだった。

「はいよ」

 母親が脇によけ、洗面台を譲る。

 私が洗面台の引出しから洗顔クリーム等を用意していると、母親が声をかけてくる。

「ここ三週間くらい、早起きじゃない」

「そうかな」

 素っ気ない声音で応えて冷水で顔を洗う。

 その間も母親からの視線を背中に感じ、内心早く行けと念じる。

 私がリップクリームを塗っていると、母親がニヤニヤしながら言った。

「かぁれぇしぃ~~っ?」

 声のトーンを上げ下げして意地悪な笑みを浮かべて聞いてくる。

 私は無言で洗顔クリームの容器を持って勢いよく振り向くと、母親は「ひっひっひ」と童話に出てくる魔女のような声をあげながら逃げていった。

 まったく、子供かよ。

 ため息をついて寝癖を直すべくスプレーを髪に吹き付けた。


 母親のいうとおり、最近まで私はいつも遅刻ギリギリに登校するのが常だった。

 それが急に三十分以上早く起き始めたのだから、母親が勘繰るのも無理からぬことだった。


 家を後にする前に、玄関にある姿見で全身の最終チェックを行っていると、運悪く母親が通りかかった。

 母親が私の側に来て、じっと見詰めてくる。

「な、なに……?」

 私は先程、姿見で笑顔の練習をしていたのが見られていないか、内心焦りながらもぶっきらぼうに訊ねる。

 母親が洗面所の時と同じニヤけ顔で言った。

「笑顔の練習なんてしちゃって、か~わ~い~い~♪」

 一昔前のギャルのような返しに、私はかあっと頬が熱くなるのを感じながら、逃げるように家を出た。


 顔馴染みの駅員にあいさつをしながら改札を抜け、階段を降りる。

 朝、始発駅のホームには、私以外に数人の利用客しかいない。

 電車が来るまでの時間、私はイヤホンをしてぼんやりと三週間前のことを思い出していた。


 三週間前、私は思いがけず蓮花れんかと再会した。


 蓮花とは小学生の頃によく遊んでいた友達だったが、中学生になると学区の違いから会う機会が無くなっていた。

 私の親は高校生まではスマホを買ってくれなかったし、友達の家に電話をするというのは、結構緊張するものだった。

 小学生の頃は学校で毎日会えたし、遊ぶ約束もその場で出来たため、家に電話することはほとんどなかった。

 そのため、たまに家に電話した時に、本人が出てくれればいいが、親とかが出たときに感じる緊張した雰囲気が苦手だった。

 また、中学校という新しい環境で早く友達を作ったり、学校生活に慣れなければという思いもあり、慌ただしい日々を過ごす中で、いつしか疎遠になっていった。


 蓮花と私は別々の高校に進んだ。

 それが電車の中で偶然再会した。

 始めこそお互いぎこちなさがあったものの、私たちの根本は変わらなかったのか、少しずつ昔の関係を築いていった。

 好きな歌や漫画、テレビ番組等の共通の話題が一致していたことも大きかった。


 ホームに電車が滑り込んで来ると私は一両目の決まった席に座る。

 電車に揺られて三分。隣の駅に到着する。

 正面のドアを見ると、長い黒髪に花の髪飾りをしたセーラー服の蓮花がいた。

 目が合い、私は照れくささを誤魔化すために微笑む。

 蓮花は少し俯いて、足早に車両に乗り込んできた。

 隣の席を勧めるとおずおずと座る。

「おはよ、蓮花」

「…お、おはよ……綾音あやね

 わずかに頬を染めながら応える。

「はぁ、今日は朝から数学だよ、やだなぁ…」

「…綾音は、数学、苦手なの…?」

「うん。だってさ、証明問題とか二次関数とか意味分からない。絶対将来役に立たないでしょ…」

「ふふ、確かにそうかも……」

「蓮花は、授業苦手なものとかないの?」

「私? 私は、体育がちょっと……苦手」

「あー、跳び箱とか苦手だったよねー」

「それ、小学生の頃でしょ。別に跳び箱苦手じゃなかったし……ただ、タイミングが難しかっただけで……」

「いや、それって苦手ってことじゃないの?」

「え? そうなの、かな?」

 きょとんと蓮花が小首を傾げる。

 私の呆れた視線に気付くと、わざとらしく咳払いをした。

「ま、まあ、それはおいといて。授業というよりは、体育教師自体がちょっと……苦手」

「ふむ」

 まあ確かに蓮花の性格と体育教師のハキハキした感じのイメージは合わない感じがする。

「その…うちの学校の体育教師がボディービルダーが趣味の人で……いっつもパツパツのシャツなの……しかも肌が浅黒くて、いちいちポーズを取ってくるの…それが、苦手かな」

 思い出したのか、蓮花が目を細めて身震いする。

「うえー、それはキツい…。生理的に無理だわ……」

 水泳の授業とか、ブーメランの形状の布切れを着用して来そうでヤバそうだなーと思ったのは黙っておいた。

 私はしんみりしはじめた空気を振り払うべく、いつもより明るい声音で話題をふった。

「あのさ、蓮花。この前シエルが新曲を発表したの知ってる?」

「え? そうなの?」

「うん、この前のラジオで流れてたの録音しておいたから、一緒に聞かない?」

「うん、聞きたい聞きたい!」

 普段は控えめで一歩引いた態度を取る蓮花も、好きなものに対しては積極的になる。

 この性格は小学生の頃から変わらない。

 そのギャップは彼女が持つ魅力のひとつだと思う。


 私は左耳用のイヤホンを渡し、右耳用のイヤホンを自分の耳に差し込む。

 長さが二メートルに満たないイヤホンを二人で使用すると、自然に肩が触れ合う形になる。


 田舎の単線電車、朝の時間帯、同じ車両には数人のサラリーマンが座っている。そのほとんどが新聞やスマホなどを操作しているか、居眠りをしていて私達の座る五メートルの範囲には誰も居ない。


 蓮花が耳を澄ませるように目を閉じる。

 私はその横顔をそっと見詰める。

 細く白い首筋、つややかで光沢のある黒髪、ほんのりピンクに染まる頬。

 柔らかそうな唇から静かな吐息が漏れていた。


 電車が揺れ、蓮花の華奢きゃしゃな肩に垂れる長髪が私の頬に触れ、シャンプーの香りが鼻先をかすめた。

 不意に、蓮花の手のひらに触れたいと思う。

でも、それによってこの関係が失われるのではないかと恐れ、気持ちを押し留めた。


 最近、私は暇さえあれば蓮花のことを考えていた。

 休日には何をしているのか。

 どんな私服を着てどこに出掛けるのか。

 家の中ではどうやって過ごしているのか。

 どんな友達と付き合っているのか。

 彼氏や好きな人はいるのか。

 そして、時々は私のことを思い出したりしてくれているのか…。

 私は蓮花にとって、何番目くらいに優先される友達なのか……。

 気になることは山積みで、でもそれを聞いてしまうとストーカーみたいに思われるのではないか、引かれてしまうのではないか?

 思うだけの、モヤモヤとした日々が続いている……。


 そんなことをぼんやりと考えていると、急に耳元で不快な羽音が聞こえた。

「うわっ」

 驚いてのけぞると、蜂が飛んでいた。

 イヤホンを外す。

 避けるように蓮花に寄りかかり、はずみで手のひらを重ねていた。

 ひんやりとした細長い指先がびくりと震え、驚いた蓮花はイヤホンを外してこちらを見る。

「あ、ご、ごめん……蜂に驚いちゃって」

 と、今度はその蜂が蓮花の方に向かって来る。

「きゃっ」

 蓮花が私のほうに寄りかかり、胸にすっぽりと収まる。

 蓮花を守るように頭を抱き寄せて蜂に警戒の視線を送る。

 蜂が窓から外に出るのを見届けると、声をかけた。

「もう大丈夫だよ、窓から外に出ていった」

「綾音、ありがとう…」

 お礼を言いつつ、顔を上げるが、そのまま動こうとしなかった。

 表情は血の気が引いたようにやや青白く、肩が小さく震えているのに気付いた。

「大丈夫…?」

 心配そうな視線を向けると、蓮花が小さく言った。

「実は私…昔ハチに刺されたことがあって……」

 アナフィラキシーという言葉が頭に思い浮かぶ。詳しくは知らないけど、過剰なアレルギー反応によって呼吸困難などを起こすことがあると昔何かで聞いたことがあった。

 私は落ち着かせるように、おそるおそる、髪をゆっくりと撫でる。

 蓮花は目を閉じて、深く呼吸をしていた。

 髪が指の間をサラサラと流れて、淡いシャンプーの香りがした。

 小さく震えている姿はより一層に弱々しくて、このままぎゅうっと抱きしめたいと思う。

 でも……嫌がったりしないだろうか。

 その不安が付きまとい、髪を撫で続けた。

 しばしの沈黙の後、蓮花が独白するように言った。

「…綾音は、変わらないね…」

「え?」

「小学生の頃、私に意地悪をする男子から守ってくれたよね。それ以外にも、私が困っているといつも駆け付けてくれて、手を差しのべてくれた……」

「そう、かな。たまたまだと思うけど」

 それと、多分あの男子は確実に蓮花のことを好きだったと思う。

 しかし、何で男の子っていうのは、好きな女の子に意地悪をするのかねぇ。

 まあ、それしか注目して貰える方法を知らないのかもだけど……。

 私が小さく鼻を鳴らしていると、蓮花が呟くような声で言った。

「ねぇ……綾音は、好きな人っている?」


 不意打ちの質問にドキリとする。

 何で急にそんなことを聞いてくるのだろう……もしかして、蓮花は私の視線に気付いていた?

 でも、気付いたとしても、その抱えている想いまでは、バレていない……と、思う。


 蓮花が私をじっと見詰めてくる。

 鼻と鼻が触れ合うくらいの近い距離。

 真っ直ぐな眼差しを向けられ、耐えられず、視線を外す。

 前髪をいじるふりをして、熱くなりつつある頬を隠しながらなんとか応えた。

「えっと、まだ、分からないんだけど……気になる子は、いる……かな」

「…そう……なんだ」

 声のトーンを落とし、瞳が哀しげな色に揺れた気がした。

「そういう蓮花は、好きな人いるの?」

「いるよ」

 迷いのない即答。

 それは、彼女にとって好きなもののひとつ、だからだろう。


 すごいな、蓮花は……。


 感嘆と羨望せんぼう

 そして、自分への歯がゆくて悔しい気持ち…。

 この気持ちを私はいつまでも抱えて行くのだろう……。

 いつまでもこのまま変わらずにいたら、蓮花と再び疎遠になるかも知れない。

 その時、私はきっと、また何かを言い訳にして、この気持ちを無かったことにするのだろう。

 

 それは、すごく、嫌だ。

 

 だから、私は少しだけ勇気を振り絞った。

 なんとなく、先程の蓮花のセリフが気になっていたこともあり、冗談めかして訊ねてみた。

「ねえ、蓮花の好きな人って、もしかして私のこと~? みたいな……」

 大丈夫、このノリなら、勘違いであっても蓮花が冗談として、受け取ってくれるはず

 そう思って、蓮花を見て――――危うく声がれそうになる。

 蓮花の顔がみるみる赤くなってゆき、耳たぶが淡いピンク色に染まっていた。

 ん……あれ? も、もしかして図星……ってこと? いや、いやいや、いやいやいや…そんな、まさか……ねぇ。

 きっと何かの冗談だって、うん。

 私が一人で納得して自己完結させようとしていると……。

「……どうして、分かったの……」

 蓮花が目を見開いて、口に両手を添える。

 驚きと不安と興奮と哀しみと……私には推し量ることができないくらいの複雑な表情で聞いてくる。

「いや……えぇと、その……冗談の、つもり……だったんだけ……ぐぇっ」

 いきなり襟元えりもとのリボンを捕まれて、自分でも聞いたことのない声が出る。

 蓮花がハッとなり、すぐに手を離して、咳き込んでいる私に謝りつつ、控えめに聞いてきた。

「……その、冗談ってことは、つまり……私のこと、好きじゃないってこと?」

「いや、そういう意味じゃなくて……蓮花のことは、もちろん大好きだよ」

「ふ、ふわっ。う、うん……わ、私も綾音のこと……だ、だい、だい、だい…好き……です……」

 なんか橙大好きみたいな感じになってる。


 私はもう一歩、踏み込んでみる。


「あはは、なんか……告白みたいな感じになっちゃったね」

 蓮花が顔を伏せて大きく一度深呼吸をしてから、潤んだ瞳で私を見詰める。

「…うん…わ、わた、私は……そ、そのつもり、だけど……」

 本気……ということで、いいのかな? 

 本当の本当に、私のことを、友達でも親友としてでもなく、思春期の女の子が、本来であれば好きな異性に向ける感情と同じものということで、いいんだよね。

 黙り込む私に、蓮花が困惑気味の表情を浮かべる。

 私は胸に手をおいて、蓮花への思いを再確認する。


 私は、蓮花と手を繋いだり、ハグをしたり、そ、その、き、キス…は、まだ、分からないけれど、してみたいと、思う……。

 でもそれ以上に、蓮花が何に喜んで、何に哀しんで、何に涙して、何に怒り、何に楽しみを感じるのか、その感情の発露をどんな表情で見せてくれるのか、見詰めていたい。

 できることなら、一番近い距離で……。


 知りたい、蓮花のことを。

 もっと…もっと……。


 この想いの先に、何があるのかはまだ分からない。けれど、今の私にとってそれが一番の幸いであると、信じている。


 そうして、意を決して口を開く。

「その、蓮花……実は、私も蓮花のことが……」


『まもなく終点~~◯◯駅ぃ~~◯◯駅ぃ~~っ!! 本日は◯◯線をご利用頂き誠にありがとうございました~。お忘れ物のないようお気を付けください~~っ!!』

 とんでもないタイミングで車内アナウンスが割り込んできた!!

 ……って、ええ? 終点? 降り忘れた!

 今更ながら降車し忘れたことに気付く。

「うわー、こりゃあ私たち二人とも、遅刻だね」

 照れ臭さを誤魔化して笑いかける。

 しかし彼女はむすっとして、ふいっと顔を背けてしまう。

 えぇ、今の私が悪いの? まあ、優柔不断な所は認めるけど。

 私は苦笑しながら、頬をかいて、彼女の頭に手のひらを乗せた。

「あはは、ごめんごめん。」

 そのまま、髪をすくように撫で続けると、強張った肩が静かに降りて、不安そうにこちらへ顔を向ける。

「大丈夫、ちゃんと応えるよ。蓮花が勇気を持って私に伝えてくれたように、ね」

 彼女がこくんと、小さく頷いた。


 駅がホームに到着する。

 軽快なチャイムと共にドアが開いた。

 私は彼女の手を取り、ホームに向かう。

 彼女が戸惑いつつも、きゅっと手を握ってくれる。

 その小さな指先から伝わる熱を感じながら、私は彼女に笑いかける。

 彼女が頬を赤らめながら、ふいっとそっぽを向いてしまう。

 その耳元に、秘密の話をするように手を添えて告白する。


「蓮花、私もあなたのこと、好きよ」

「…うん……」

「これから一緒にいる時間の中で、少しずつその想いを伝えていくね」

「…うん、うん…聞きたい、聞きたい……」

 

 彼女がうれしそうに何度も頷いた――――好きなものを見付けた時の、あの小学生の頃と変わらない、可憐な瞳で、私に微笑んでいた。











―――――――――続く―――――――――

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