瀬戸内寂聴さーん(>_<)

先週火曜日(11月9日)に、僧侶で女流作家の瀬戸内寂聴(せとうちじゃくちょう)さんが天に召された。


享年、99歳…


ご健在であれば、来年(2022年)100歳を迎えるところであった。


瀬戸内さんは、1922年5月15日に徳島市で生まれた。


本名は、三谷晴美さんである。


しかし、父親が従祖母の家と養子縁組したことに伴って『瀬戸内』姓になった。


ご実家は、仏壇店である。


(現在、仏壇店は瀬戸内さんの親類の人が経営している。)


瀬戸内さんは、1942年に夫になる人とお見合いして、その翌年(1943年)に結婚、そのまた翌年(1944年)に女の子のママになった。


つまり、20歳でお見合い~21歳で結婚~22歳で女の子ママになった…と言うこと…


現代で言うと『ギャルで結婚して、ギャルでママになったモデルさん…』みたいな感覚である。


そのように話すと、20代の読者さまのみなさまは『1940年代はギャルママが多かったんだ~』と反応するけど、あの当時の結婚は家のコシュやふたおやが決めた相手と結婚するようになっていた…そして、結婚する年齢も早かった…と言うことである。


来年(2022年)春あたりに、法律改正などに伴って結婚できる年齢が女男ともに一律18歳以上に変更される予定であるけど、あの当時(終戦直後あたりまでは)の結婚できる年齢は女性は15歳以上・男性は17歳以上と定められていた。


それ以上話すと長々となるので、瀬戸内さんの話しに戻る…


1945年、太平洋戦争が終結した。


瀬戸内さん一家3人は、中国大陸で終戦を迎えた。


1946年に、一家3人は本土へ引き揚げた。


それから2年後の1948年に、瀬戸内さんは夫と娘さんをすてて京都へ移り住んだ。


この時から、作家活動を始めた。


最初に執筆した作品は、『ピグマリオンの恋』である。


この作品は、同じ作家の福田ツネアリ(1912年~1994年・ツネアリの漢字はわからんけんカタカナ表記にしました)に送った作品であった。


そして、1950年に瀬戸内さんは夫と離婚して一家3人がかつて暮らしていた東京へ移ったあと本格的に作家活動に取り組んだ。


最初は、本名の『三谷晴美』~『三谷佐知子』…と移り変わった。


今の『瀬戸内寂聴』さんになったのは、1973年に出家した時であった。


2008年に『野いちご』(『ベリーズカフェ』と『ノベマ』と同じスターツが運営しているサイト・ぼくも登録している)では『ぱーぷる』と言う名前で登録されていた。


1988年に上梓出版(じょうししゅっぱん)した『寂聴般若心経(じゃくちょうはんにゃしんきょう)』で売り上げ部数・年間43万部でベストセラーとなった。


1992年に谷崎潤一郎賞を筆頭に、より多くの文学賞を受賞するなど…多くの功績をあげた。


2008年に、『野いちご』に投稿した『あしたの虹』でウェブ作家になるなど、活動のフィールドを広げた。


しかし、病には勝てなかった。


2007年夏ごろ、徳島県立文学書道館で公演した際に目の病気で右目の視力が大きく低下したことを明かした。


2010年頃に、セキツイ圧迫骨折で寝たきりになった…


2014年頃に、胆のうガンにリカンした…


瀬戸内さんは、手術を受けたあとみごとに全快した。


その翌年(2015年)の11月4日に愛媛朝日テレビで放送された平日昼の番組『徹子の部屋』にご出演した。


瀬戸内さんは、闘病中に身体の激痛に耐えかねて『もう、神も仏もない…』と言うてから黒柳徹子さんに闘病中の出来事を全て打ち明けた。


しかし、それから6年後の先週火曜日(2021年11月9日)に瀬戸内さんは帰らぬ人になった。


瀬戸内さんが天に召される4年前(2017年)に『いのち』が刊行されたが、『心身ともに、これが最後の長編小説になる…』と瀬戸内さんは述べられていた。


…と言うことは、『いのち』が完結したあとに筆を惜いた(おいた)…のか?


『いのち』は、瀬戸内さんの作家生活と闘病の体験を題材にして描いた人生の集大成の作品である。


また、瀬戸内さんが執筆した『夏の終り』は、1963年に映画化された作品である。


1963年当時、主演を務めたのは池内淳子さんであるが、2013年にリメイクされたヴァージンは満島ひかりちゃんが主演を務めた。


映画が上映された1963年に、瀬戸内さんは女流文学賞を受賞した。


テレビドラマは、2005年にテレビ愛媛で放送された『女の一代記シリーズ』で瀬戸内さんの話しが取り上げられた。


その時主演を務めたのは、宮沢りえちゃんであった。


また、2006年のNHK学校音楽コンクール(Nコン)の高等学校の部の課題曲『ある真夜中に』の作詩を手がけるなど、作家活動の幅を広げた。


天に召される2年前(2019年)に、桂信子賞を受賞した。


ご健在であれば、来年100歳だったのに…


ホンマに悲しい…


話しは変わって、先週金曜日(11月12日)の愛媛新聞の社会面で10年前(2011年)に瀬戸内さんと雑誌の企画で対談した四国中央市出身の作家作詞家の高橋久美子さんの話しが掲載されていたので、一部バッスイして話しをする。


高橋さんは、その当時ガールズバンド『チャットモンチー』(徳島を拠点に活動していたバンド)に所属していた。


『チャットモンチー』の地元が瀬戸内さんの生誕地と同じだったことがご縁で雑誌の対談が実現した。


対談の時、瀬戸内さんは高橋さんに『危険な道と普通の道があったら、あなたたちは危険な道を選びなさい。』と言う言葉を贈った。


高橋さんは、新聞社の取材に対して『人の行かない方へ行きなさい…自分を信じて自由に生きなさい…と言うエールは、たいまつとなって今も私の中に燃えている…』と答えた。


最後に、高橋さんは『寂聴先生は、優しさとしなやかさで、多くの女性に勇気を与えてくださった…ご冥福をお祈りします…』と述べられてしめくくった。


瀬戸内さんの人生と功績に思いをはせながら、ご冥福をお祈りいたします(合掌)

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