〈9〉

 母が亡くなったのは、五歳の時だった。


 事故か病気か、もう覚えていない。確かめる術もなかった。


 太陽のように光り輝いていた母がいなくなり、皆に平等に注がれていた愛は、大きく歪み始めていった。


 五人の兄は、長兄と次兄がしっかりとした人で、下のほうの五兄は、落ち着きがなく、ドジばかりしていた。


 母はこの三人の兄のことが割と好きで、真ん中の三兄と四兄は、どちらかというと放っておいた。


 そして佳純のことは、目に入れても痛くないほど可愛がっていた。


 そんな風に八人の大家族は成り立っていた。


 そのバランスが、母の死をきっかけに、あっけなく崩壊した。


 まるでトランプカードのタワーが崩れるように、一瞬で何もかもがなくなった。


 しばらくは父と兄たちの膠着状態が続いた。


 大らかでどっしりとした父は、母を失ってから、ピリピリと殺気を放った男に変貌した。


 喧嘩に明け暮れる中、母親の役目は、だんだんと長兄と次兄二人が担うことに決まった。


 佳純の幼い頃の記憶は、男たちの怒鳴り声と、罵声だった。


 部屋の隅で震えるように息をしていた。お母さん、と何度心の中で口にしていたか知れない。


 ランドセルを買ってくれたのは、父だった。小学校入学の時には、父はだいぶ落ち着き、佳純を連れてランドセル売り場へ行った。


 どんなやつがいい? と尋ねる父は、ごく普通の優しいお父さんのように見えた。佳純と接する時だけ、父は親の感性を取り戻していた。


 入学式には長兄と次兄が来てくれた。父は仕事だった。一年生のクラスへ行き、自分と同じ年齢の子どもたちがわらわら集まっている光景を、不思議な気持ちで見つめていた。


 あなたの家、大家族なんだよね? お母さん死んじゃって大変だね。地元の小学校の子どもたちは皆、親から佳純の家の事情を聞きとっていたらしく、それぞれ言葉尻を変えながら、こんな風な台詞を言った。佳純は曖昧に笑った。


 年月が経つうちに友達が何人かできて、家に招待され、驚いたのは、自分一人の部屋が与えられていることだった。


 佳純は父と一緒の部屋で生活していた。兄たちは大部屋で一緒くたにされていたので、一人部屋という世界が想像できなかった。


 カルチャーショックを受けながら、友達の母親が出したお菓子を食べている時、自分だけ、空間が歪んだ場所にいるような疎外感と、漠然とした不安が、押し寄せてきた。


 私だけ違う。私の家だけ違う。


 なぜか泣きたくなって、友達と遊ぶことに集中できないまま、微妙な時間帯に帰宅した。


 家には誰もいなかった。

 

 玄関のドアが開いて、兄のうちの誰かが帰ってくるまで、佳純は居間の座椅子に座り込んで、膝を抱えて待っていた。


 喉がカラカラに乾いて、台所でジュースや麦茶を飲んだりしながら、また玄関が見渡せる位置に座椅子をずらして待った。


 ガチャン、と鍵が勢いよく回る音がして、重い扉が開いた。


 佳純が力いっぱい引っ張って開ける扉を、軽々と開け放って家に上がり込んだ兄を見て、佳純はとうとう、無我夢中ですがりついた。


 お母さんを返せ! お母さんを返せ! 何で私の家だけ違うんだ!

 

 叫ぶうちに涙が出て鼻水と一緒に流れ、佳純の顔はボロボロに崩れた。力任せに叩いてもびくともしない兄の胸板が、こんなにも憎たらしく見えたのは初めてだった。


 ふわり、と身体が浮いた。


 兄に抱きかかえられたのに気づいた。


 佳純がぐずっていると、兄はそのまま二階へ階段を上がり、ベランダに出た。


 自分を慰めてくれているのだろうか、と目いっぱいに広がった夕暮れの迫る空を見た。


 地平線に日が浮かび、そこに雲がかかって、激しいピンク色に染まっていた。真上のほうを見ると、兄の顎の先から、深い群青色の空が見えて、星たちがキラキラ光っていた。綺麗、と思った。


 ふいに身体の重力がなくなった。


 星空がガクンと落ちて、猛スピードで、世界は一点に向けて消えていった。


 頭か身体か、強い衝撃が走って、視界が暗くなった。


 気を失う間際、ベランダが見えた。


 兄がこちらを覗き込み、薄い笑みを浮かべていた。


   ○


 そのあとの記憶は、もう聡子と稔に出会った施設の場所だった。


 長兄が佳純の手を強く握りしめ、この子をよろしくお願いします、と頭を下げた。


 聡子たちは優しそうな大きい掌で、佳純の頭を撫でた。


 絶対に守り抜きます、と稔の声が降ってきた。


 記憶を取り戻しそうになったら連絡をください、と伝えると、長兄は佳純と握っていた手を完全に離した。


 家族がバラバラになることに対しては、そんなに驚かなかった。もうずいぶん前から、自分たちはバラバラだったのだから。


 では私を落としたのは、一体誰なのだろうと、それだけが、気がかりだった。


 聡子たちの家に来てから数日と経たないうちに、今度は悪夢を見始めた。


 ほぼ毎日のように見続けて、夜中に泣き叫んで飛び起きた。眠るのが怖くなった。次第に眠れなくなって、布団の中で身体を丸めて泣き続けた。


 聡子たちが心配して、佳純をいろいろな病院に連れていった。四回目の診察で、現在の精神科医に行き着いた。


「あなたは運がなかっただけです」


 それまで悪玉菌のように繁殖していた負の感情が、すとんと落ちて消化されていくのを感じた。


 運がなかっただけ。


 その言葉は魔法のように佳純の心を洗い流した。


 それからは、毎月そこの病院へ行って診察を受けている。

 

 薬をもらって飲むようになってから、悪夢を見る頻度は少なくなり、やがてごくたまにしかうなされなくなった。悪夢に起きた日は、常備している薬を飲んで窓から空を眺めた。


 真っ暗闇の空に、星や月が浮かんでいるのを見つけた日は、嬉しくなった。佳純にとって空とは、心の安定剤のようなものだった。


 兄たちから連絡が来たのは、聡子たちとの暮らしに慣れてからしばらく経った頃だった。


 最初に手紙をくれたのは長兄で、すぐあとに次兄、しばらくして五兄も連絡をくれた。何気ない近況報告の中に、佳純をいたわる文が綴られていると、ほっとした。五人のうち三人と繋がりがあるのなら、それだけでいいと最近は思えるようになった。


 この中に一人、自分を窓から落とした兄がいる。その真実は針のようにプツリと佳純の肌を刺しては痛んだが、知りたくもないことは知らないままのほうがいいと、佳純は自分自身に言い聞かせていた。


 このままの関係を維持したいと、切に思った。


 時々、ひどく鬱屈とした気持ちになる心を、抱えながら。


   ○


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