〈10〉

 話が終わると、佳純は、ギュッと夕莉の手を握った。


「いい天気だね」


 そう言って、空を見上げた。

 夕莉もつられて顔を上げると、筋状の白い雲が薄く伸びた、真っ青な空が、きらきらと日の光を落としながら、一面に広がっていた。


「今が一番いい時期だね」


 佳純の手は温もりがあった。

 夕莉の目に、また涙がにじみ出た。もう何度泣いたのかわからない。どんなに泣いたところで、現状がよくなることもないのに。それでも泣かずにはいられなかった。


「助けてほしいわけじゃない」


 夕莉はしゃくり上げながら、精いっぱいの抵抗を言った。


「たとえ助けられても、私は何もできないポンコツな人間だって、わかるだけだから」


 佳純の手を強く握り返す。彼女もそれに応えるように、手の力を強める。


「同情なんか、いらない。かわいそうって言葉が、一番嫌いだ」

「うん。私も」


 佳純は落ち着いていた。夕莉の泣き声が大きくなった。


「こ、これから、生きなきゃいけない。私一人じゃ死ねない」

「うん」

「でも、どうしよう。どうやって生き残ればいいの」

「私もわからない」


 佳純がボソッと言った。夕莉は小さな子どものように泣きじゃくる。


「お、お兄ちゃん、いつか話してくれるかな。どこで変わったのか、教えてくれるかな。もう会えないかもしれないけど」


 佳純は何も言わなかった。


「わ、私、もう行かなくちゃ。お兄ちゃんに追いつかなくちゃ。今さら遅いけど」


 佳純の掌が汗ばんでいた。それともこれは自分の手汗かもしれない。


「が、がんばらなくちゃ。そう思わないと、勝てないよ」


 自分は、何に勝てるのか。自分に勝つ手段が残されているのか。


 空を見上げた。佳純の言う通り、本当にいい天気だった。

 進まなければいけない。夏央や冬華たちを、もっと知っていかなければいけない。知ることは、繋がることだ。

 自分が何の役に立てるのかはわからない。ただ、掌に佳純の体温があった。柔らかくて湿った、小さな手だった。この手を握ることに、意味があるのだろう。


 呼吸を整える。空に浮かぶひこうき雲を見上げる。夕莉は立ち上がって、佳純と一緒に、もっと日の当たる場所に出た。

 大きく伸びをした。なぜだか急に身体を動かしてみたくなった。佳純も気持ちよさそうに、太陽の光を浴びている。

 一般クラスの授業が見えた。窓際の生徒たちがこちらに気づいて、怪訝そうな顔をする。

 夕莉は、あそこに兄が行くのか、と教室を見つめた。

 一人と目が合った。すぐに視線をそらされた。思わず佳純と笑い合った。


「案外ビビリだね」

「皆そんなもんだよ」


 夕莉は歩き出した。デイケア組の教室へ。


「もうふれあいトーク始まっちゃったな。今から行くの気まずい」

「じゃあサボっちゃおうよ」佳純が楽しそうに言うので、夕莉も、

「どこにしようか?」と笑った。


 ホールへと続く中扉を開けて、夕莉は一歩を踏み出した。まだ若干震えている身体を佳純に悟られないように、足を踏みしめた。

 隣では、佳純が微笑んでいた。



  →第二章「伊織佳純」へ。

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