〈5〉
翠の声とよく似た低温ボイスが聞こえた。
ふと後ろを振り返ると、何やらきつそうな外見をした、背の高い男子生徒が立っていた。
寝癖のついた黒髪を手で直しながら、ふわ~と、間の抜けた欠伸をしている。
「
保険医が「まだ三十分も経ってないけど」と戸惑っている。
内海と呼ばれた男子生徒は目をこすりながら、
「俺、眠くてサボっていただけだから。この人のほうが具合悪そうだし」とぼやけた声で言った。そして、
「あと俺の勘なんだけど、その人、デイケア組でしょ?」と何の悪気もない調子で暴露した。
「まあ、あなた、そうだったの」
保険医がさらに優しい顔になった。夕莉は気まずくなって、思わず内海をにらんだ。内海のほうも「あ?」と威圧的な視線を向けた。しばらく両者はにらみ合った。
「せっかくベッドが空いたんだし、青花さん、しばらく寝ていましょう」
保険医があわてたように夕莉を促した。ふんと鼻を鳴らして、内海のほうをすり抜け、彼がいたベッドに横になる。保険医がカーテンを閉める際、夕莉はちらりと内海のことを再び見た。
彼はすでに背中を向け、「じゃあさよなら~」と扉を開けて、ひらひらと手を振っていた。
まだ成長途中の夕莉とは対照的に、程よく筋肉もあり、大人びた身体つきだった。その広い背中を一瞬だけ見つめ、ふと、兄の翠も、成長したらこんな感じになるのだろうかと、思った。
カーテンが完全に閉まると、すぐに夕莉は寝る体勢に入った。内海の体温が少しだけシーツに残っていた。
○
横になっているうちに、授業が終わるチャイムが鳴った。結局眠れなかったが、頭痛はだいぶ治まり、夕莉はゆっくりと起きて、制服のスカートを整えた。
外していたリボンタイをつけ、枕元に畳んでいたブレザーを羽織って、カーテンを開ける。
「具合はどうかしら?」保険医の言葉に、
「よくなりました。次の授業は出られそうです」と返して、ソファーに座った。
「兄が迎えに来てくれると思うので、ちょっと待っていていいですか?」
そう言うと保険医は、「お兄さんがいるのね。仲が良いのね」と穏やかに微笑んだ。
夕莉は誇らしい気持ちになるのを抑えられなかった。そう、いつだって兄は迎えに来てくれる。弱くて情けない自分をビシッと叱ってくれる。同じ日に同じ時間帯で生まれて、まるで運命のように持病を患って、それでも自分よりはいくらか丈夫な兄。兄が導いてくれるから、さっきのように、デイケア組だということを暴露されても、かろうじて負けなかった。
あとで兄に言いつけよう。そういえばあの男子、なぜデイケア組だと知っていたのだろうか。
悶々としていると、体育の授業を終えた翠がやって来る気配がした。不思議と、翠の迎えはすぐにわかるのだった。足音や歩き方で判断するのではなく、直感で察することができるのだ。
「夕莉」
扉が開いて、翠が顔を出した。夕莉は立ち上がって、体操着のままの兄のそばに行く。
「次の授業はちゃんと出ろよ」
「うん」
自分と同じくらいの背丈の翠を見て、あの男子は上級生なのだろうかと考えた。保険医に「ありがとうございました」と挨拶をして、教室に戻る。渡り廊下を渡って地下へ降りる時、翠に内海のことを話した。すると翠は「それ、多分ボランティア部だろ」と答えた。
「ボランティア?」
「うちの学校、デイケア組があるくらいだから、そういうことに力入れてるんだよ。ボランティア部は、一年から三年までいて、そいつは多分、二年か三年だな。今年入ったデイケア一年の名簿でも見たんだろ。青花って名字は珍しいから」
「ふうん」
夕莉が納得したように相槌を打つと、翠は続けた。
「ボランティア部は週に一度、俺たちのクラスに来て、親睦会みたいなのするんだってよ。ふれあいトークに、一般クラスが入ってくるような感じ」
「えぇ……?」
夕莉は顔をしかめた。「一般人」という、丈夫で健康で、遠慮がない無粋な人間が、自分たちの世界に入ってくるということに、夕莉はまったくと言っていいほどいい印象を抱けなかった。
「いつから来るの?」
「今週だろ」
「早……」
「お前、何も知らなすぎ」
翠はあきれたように妹を見た。
「入学式の日に全部説明されただろ。ガイダンスにも書いてあったし。ちゃんと見ろよな」と深い溜め息を吐く。
夕莉は「えへへ」と誤魔化すように笑った。
一度も告げたことはないが、翠に叱られるのは好きだった。両親が怒る時はひたすら怖いが、翠の怒り方はどこか可愛げがあって、嫌な気持ちにならなかった。
○
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