明日はどこで誰の夢を見てる?

Sanaghi

明日はどこで誰の夢を見てる?

 ポップコーンの袋を開けてプレートに盛り付ける。盛り付けるといってもなにかを意識していることがあるわけではないから、ぶち撒けると呼ぶべきだろうか。でも、それよりはいくらか丁寧だから、そのちょうど中間なのかもしれない。それからスーパーで買ってきたハムも皿の横に並べた。それから半分ほど減った二リットルボトルのコーラ。それが毎週金曜日夜の準備だった。僕はキッチンを出てリビングへ向かう。狭く長細い部屋の壁にびったり張り付くように置かれたソファーの上に足を曲げて、彼女は僕を待っていた。


「ねぇ」と、机にコーラとプレートを並べている僕に彼女は話しかける。

「なに?」

「今日は何を見る?」


 なんだっていいよ、というのが正直な意見だったけれども、そのとおりに答えたとしてもろくな未来しかやってこないのが目に見えていた。本音と建前を駆使しなさいというのが僕ら二人の中で適用される小さな法律のようなもので、それに従えば基本的に僕らの安全性と関係性は保証されるようになっている。もちろん、実際に文書でああだこうだと取り決めを交わしているわけではないし、言葉だって交わしていない。気持ち的に近いのは「暗黙の了解」というやつなのだけれど、もしかしたら僕が勝手にそのように考えているだけかもしれない。彼女は気まぐれや気分屋という言葉では表すことができないほど、不安定だった。


「あれはもう見たっけ。国内のミュージシャンが——」そこまで言いかけたところで彼女は首を横に振った「じゃあ、それにしよう」と言って僕はカウンターに置いてあった錠剤をパッケージから一つ取り出して、それを半分に割った。それは一見すると青いのだけれど、割った断面は淡いピンク色をしている。ちょうど酸性とアルカリ性を見分けるリトマス紙のそれとよく似ていた。


 長辺一センチほどの長細い錠剤。

 これを飲むと、気分がひどく沈む。

 僕らを取り囲むように歪曲したモニターに映されているのは、とあるミュージシャンのサクセスストーリーだった。クソッタレな現実を歌う、乗り越えるには適当な挫折を経る、そんなこんなで周りから認められるようになり、最終的には大きな成功を得る。結末を知りたいのならば最後まで見る必要はない、ただ僕らは一度見始めたら最後まで見ざるをえない、そうしなければ脳が現実と非現実の強すぎる差異に混乱してしまい、大きなダメージを受けてしまう。陸に打ち上げられた深海魚が水圧の差で破裂してしまいそうになるように。ゆっくり、ゆっくりと浮上しなければいけない。


 意識が覚醒すると、僕と彼女は指を絡ませるように手を繋いでいた。その手はちょっと暑いくらいで、じんわりと汗ばんでいる。猫のような目がそっと開く。頬はすこし赤みがかっていて若干、興奮しているようだった。これは、あまりよろしくない。

「ねぇ」と彼女は笑いながら僕に囁くけれど、付き合うつもりはなかった。


「ゆっくり、息を吐いてから、ゆっくり吸って」


 彼女は僕の言うとおりに呼吸をする。彼女の胸が膨らんだりしぼんだりするペースに一定の落ち着きがみられてようやく、僕はすこしだけ安心できる。子供が自転車の乗り方を教える大人の気分は、おそらくこのようなものなのだろう。僕は立ち上がって、キッチンまで歩くと屈んで冷蔵庫を開けて牛乳を取り出し、コップに開けた。

 キッチンから彼女の様子を覗くことができた。彼女が両手でグラスのコーラをちびちびと飲んでいるものだから、僕は呆れずにはいられなかった。


「そんなことをしても、喉が渇くだけだよ」そう言って僕は電子レンジにコップを入れてスイッチを入れる。「それから体も冷えちゃうし」


 彼女は「別に」と小さく呟いた、ような気がした。それについて問い詰めてやりたい気分だったけれど、今の彼女はあまりにも弱々しくて、そういう時にそういうことをするのは自分がとても情けない存在に陥ってしまうことに繋がるような気がして、とても気が進まなかった。一言で言えば、今の関係性が崩れ去ってしまうことを恐れている。


 彼女は生きるのが致命的に下手だった。もっと言ってしまえば、この娯楽と、あまりにも相性が良すぎるのだ。とあるミュージシャンのサクセスストーリーは本当に現実であったことだが、ノンフィクションではない。ドキュメンタリーとも言い難い。それは記憶をいくらか大衆向けに味付けされたもので、映画館で上映されるそれや、インターネット経由にダウンロードして鑑賞されるあれなんかとは、非常に主観的で、感情的で、それから(あるいはそれゆえ)没入性の強いものだった。それらの映像は制作過程と波長にカラクリがあるらしい——そんな機械的な理由でなくても、僕にはそれが人間にとって一種の毒だということがよくわかった。


 昨日の喧嘩のせいで腫れたままの扁桃腺。彼は蒸し暑いステージの上にたって、眩しいだけのライトに照らされている。客の入りはまばらで彼らは今にも帰ってしまいそうだった。「次はうまくいくさ」と話し合っていた楽屋で、いままでよく見かけていたバンドマンが田舎に帰ったことを話す。幸運の順番待ちをしていて、耐えきれなくなった奴が荷物をまとめて。って、クソくだらないじゃないか。努力しても報われるとは限らないなんてさ。


 不幸なことは三つある。一つはそんな物語を男の視点を借りて鑑賞している僕のこと、もうひとつはこの目の前に広がる光景が限りなく現実だということ。そして最後に主題の男は既に亡くなってしまっていること。


 大なり小なり、人は他者を見ると、そこに自分を重ね合わせてしまう。なぜならば、他者は大なり小なり自分が持っていないものを持っていて、そこに惹かれてしまうからだ。そして彼女は「自分が何も持っていない」と思い込んでいる。僕の目から見れば、そうでもないと思うけれど、彼女が言いきってしまっている以上、彼女にとってはすくなくともそうなのだ。僕がわーわーって叫ぼうと、彼女にとって彼女は何も持っていない。それは悲劇的なことだけれど、彼女以外にはどうしようもないことだ。外から無理やり力を加えれば、人は壊れてしまう。そして誰も正しい力の加え方を知らない。


 その限りなく現実に近い映像は<ドリーム>と呼ばれている。

「最高だったね」と彼女は言う。

 最悪だったよ。誰か、彼女のために、このクソみたいなブームを止めてくれ。


 彼女は<ドリーム>を見終わると、きまって憔悴して様子でベッドに潜り込む。そうして午後になるまで眠っている。僕はその様子を見届けると、買い物に出かける。これから来るであろう新しい一週間に備えて。区切られたフェンス沿いの通りを一キロメートルほど歩いたところにある、寂れたスーパーマーケットまで足を運ぶ。フェンスの向こうにはフェンスが見える。さらにその先にはゾンビがいる、と言われている。言われている、というのも、その表現がいささか正確性に欠けるのだ。しかしその表現以上に簡潔な表現を僕はまだ知らない。医学的には脳と肉体の繋がりが完全に途切れてしまって、それぞれがそれぞれの思惑を持って動いてしまうとのことだった。植物状態と似て非なるものだ。僕はそれについて完璧に知っているわけではないけれど。


「私の内側に、また同じ私がいるの。同じ空間に重なり合って存在していて——」


 彼女を含め、そのようなことを言う症例はめずらしくない。証言は支離滅裂だが、口を揃えてそのようなことを言うものだから、疑われる可能性は大きく分けて二つだ。僕らの精神は大いなる何かによって統一されうるか、この病気のような何かは決まって同じ幻覚を見せるか、どちらかだ。ひと昔前の映画で使い古されたゾンビのイメージは後者に近いだろう。噛まれれば同じ幻覚を見せられ、発狂し、運がよければ回復するが、そのほとんどは狂人になるか、死んでしまう——そんな奴らがフェンスの向こうで群れを成している。あるいは、そんな奴らがいるフェンスの向こう側で、僕らはかろうじて生活をしている。


「よぅ」と声をかけられる。マーケットの路傍でダンボールの山の上に座って、自分の庭で育てた果物を売っている青年と目があった。いくつか年齢が離れているものの、それでもやはりこの地区では数少ない若者の友人だった。


「今日はオレンジが安いのかい?」

「おぅ。雨が降ったからな」


 雨がオレンジとどう関係するのか、よくわからないが「そうなのか」と笑みを作る。きっと栄養が豊富になるとか、腐り始めてしまうとか、そういう理由なのだろう。せっかくだから、買ってけよという誘いのままに僕はオレンジをふたつ、トートバッグの中に入れた。彼女の鬱屈した気持ちが、これでいくらか晴れてくれれば幸いだ。彼女は僕に依存している、そして僕はその依存関係に依存している。そんな泥沼をクエン酸が綺麗ぴっかぴかにしてくれるっていうのだろうか、なんて考えれば考えるほどに僕の気持ちは微睡んでゆく。


 突然、ずぅ——ん、と鈍い音が辺りに響く。僕らが目を丸くしていると、何台もの八輪トラックが、マーケットを通りすぎていった。腰の高さほどある大きなタイヤが僕の近くを通っていく。すれすれ、というのは少し大袈裟かもしれないが、もし突然気をおかしくて二、三歩、歩み寄れば、その巨大な運動に巻き込まれて粉々に砕かれるだろう。そういう悪いイメージが浮き出る程度には近かった。僕らはそれが過ぎ去るのを待った。なにか、言葉を発しても轟音にかき消されてしまうからだ。


「あらあら、だな」と果物売りの青年は八輪トラックを見送って、奇妙な言葉をつぶやいた。

「最近は随分多いようだね。僕が見た限りではここ一週間、毎日通っているような気がする」

「多い日には二、三往復するよ、あれは。うるさくてかなわない。俺は思うんだけれどね、やっぱり死体の回収作業は民間ではなく国でやるべきだったように思うぜ」


 男はゾンビのことを死体と呼んだ。それが彼なりの敬意のようだった。正式な呼び方は決まっていて、僕らはそれを使うべきなのだけれど、それは非常に機械的で、冷たい言葉だったから、現実としてそのような呼称を使用するのは文書だけだった。彼が彼なり敬意を表して死体と呼ぶように、僕は嫉妬と憎しみを込めてゾンビと呼んだ。多分、医者は患者と呼ぶだろうし、我が子がそうなった母ならば息子や娘、と呼ぶのだろう。


 あの八輪トラックが行先を僕らは知っている。まず、何某精神科学研究所なんてゾンビの研究が進められる。どうして脳と肉体に致命的な乖離を起こしているのか(あるいは起こしているように見えるのか)について神経やら筋肉を弄り回された後、民間の脳医学研究所に運び込まれて、また同じような検証が繰り返される。それが気の遠くなるほど繰り返された後に、ボロボロになった肉体は廃棄されて、脳だけが残る。

 解明された脳信号から映像を作り出す技術は、既に確立されている。それが僕らの娯楽となる。嫌悪することに彼女をはじめとした多くの人々が、そのように作られたムービーを見ることをとても楽しみにしている。


「ねぇ」と僕は青年に話しかけた。「オレンジの食べごろはいつだい?」

「おぅ。素晴らしい方法があるよ——それを部屋に置いて、香りが満ちるまで待つんだ」


 僕は家に帰ると、青年の言う通りに、部屋にある机の上にオレンジをふたつ置いた。彼女の精神と肉体は随分と参っているようで、だらりと体を投げ出すような体勢でソファーに座っていた。掠れるような声が聞こえてそれは「おかえり」と言っているような気がする。

 僕はその隣に座って、手を握る。それは恐ろしいほどに冷たかったが、握り続けていると、その奥の奥の方に、ぬくもりがあるようだった。


「僕が死んだらさ、その記憶はうまいように映像化してほしいと思ってるんだよ。刺激的なドラマも、特別な悲劇もないんだけれど」


 僕は虚空に向かってそう言った。どうせ彼女は内側にいて、聞いちゃいないのだから。

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