第3話
どのくらい時間がたったのか・・とりとめもない奇妙な夢を見ていたら、すぐ近くで女のかん高い声がした。夢か現実かわからない。目を開けると真っ暗で何も見えない。美奈子は束の間、自分がどこにいるのかわからなかった。
「いやよ、バケツになんて私できない」感情的に叫んでいるのはエミさんだった。
「そんなこと言ってられないでしょう、あなたの彼氏も私もしたんだから大丈夫。がまんしないで早くしなさい」おだやかな口調で説得しているのは、掃除のおばさんだ。いったい、なんの話をしているのだろう。
「いやよ、私、俊クンのいる所でトイレなんて絶対いや」
「僕は別に気にしないよ」
「あなたがしなくても私がするの、いいからほっといて」美奈子はようやく話の内容がのみこめた。掃除用のバケツを便器がわりにしているのだ。他人事ではない、彼女自身も尿意をかなりもよおしていた。
「そんなに言うんなら俊郎クンが寝てからだったらするわ。早く、早く寝てちょうだい」エミも相当がまんしているにちがいない。殆ど命令口調だった。
「わかったよ、じゃあ僕はすぐ寝るからね」
「体に毒だから勇気をだしてやんなさい、バケツあって良かったでしょう」俊郎とおばさんはそれきり沈黙した。
美奈子は尿意が気持ち悪く、もうこうなったらバケツでもなんでもしてやろうと上体を起こした。掃除のおばさんに向かって小声で話し掛ける。
「あのう、すみません。バケツはどこにあるんですか」すぐに返事が返ってくる。
「真ん中辺りに置いてあるよ、あんたも我慢しないですぐやんなさい」美奈子は手探りでバケツを確認した。そして俊郎の存在も忘れて、すばやく器用に用を足す。
「私ももう限界」美奈子の機敏な行為につられたのか、エミもついに生理的欲求を解消した。この場面では暗闇のほうが都合がよかったにちがいない。
が、尿のたまったバケツは当然のごとく悪臭を放つ。エレベーターの密室は生ゴミと香水と尿が混じった、吐き気がしそうな臭気に充ちていた。しかし救出されるまで為す術はないのだ。四人は辛抱して床に横たわっているしかなかった。
美奈子は眠り、また夢を見ていた。カツ丼、カツカレー、トンカツ定食がテーブルにずらりと並んでいた。
「いただきま~す」と箸をつまんだところで、ヒステリックな女の声が聞こえた。聞き覚えのある声だった。
「こんな恥ずかしいマネしたんだから、お嫁にもらってよ」この状況下で俊郎にせまっているのか?
「だ、だって・・そんな話こんな所でやめようよ」
「私オシッコするの見られたのよ」
「見てないよ」
「見たのと一緒でしょ、もう他の人の所には行けないわ」そんなこと言ったら、美奈子だって同様だ。掃除のおばさんもだ。そんな理屈が通るなら、このさい三人全員もらってもらおうか。
「私はもう二十五よ、受け付けだって若い子と交替させられちゃうわ。その前に寿退職したいの、今晩その話したかったから今ここで聞いて」エミは真剣だ。
でも二十五であせるんなら、三十を過ぎた自分はどうなのかと美奈子は不愉快な気分だった。
「結婚は勘弁してよ・・だって俺もうすぐ婚約するし」
「なんですってえ」
「取引先の社長の娘に見初められちゃってさ、婿に入ってくれって親子で頭下げられちゃ断れないだろ、いい話だしさ」俊郎の爆弾発言に美奈子は頭をガーンと殴られた気がした。
こんな軽薄な男にずっと恋をしていたのか。
エミは興奮して叫んだ。「じゃあ、なんで私とつきあっているのよ」
「結婚は結婚、恋愛は恋愛でいいんじゃない?社長の娘あんまりタイプじゃないんだよなあ、エミちゃんの方がずっと可愛いよ」
「いやっ、さわらないで」次の瞬間、ガタンとつまずいたような音がした。
俊郎から逃げようとして、エミはバケツを引っ繰り返したのだった。
「あらま、大変」掃除のおばさんが大慌てでバケツをおこした。だが、もう手遅れだ。中身は床に全部流れてしまった。たちまち足元がびしょびしょして座ることもできない状態になる。おばさんは懸命にモップをかけるが、あまり効果はなく、他の三人はうろたえるだけで呆然と立ち尽くしていた。
「あんたたち、いいかげんになさいよ」堪忍袋の尾が切れたのか、おばさんが怒鳴った。
「あたしゃ、ほんとにツイてないよ。亭主は仕事もせずギャンブル三昧で借金だらけ、苦労して育てた子供らは家出して行方知れず、私は毎日毎日掃除にあけくれている。どうしてこんな人生なんだろうと、もうつくづく嫌になって昨日は家にも帰りたくなくて会社に居残ってた。いっそ飛び降りて死んでやろうかと思ったよ、でも思い止まってエレベーターに乗ったらこれだ」おばさんの声は怒りにあふれていた。
俊郎とエミにというより自分の理不尽な人生に対してなのかもしれない。
「さっきは珍しくいい夢見て寝ていたのに、あんたらのせいで起こされてしまった。もうこんな小便だらけのとこに横になれやしないわ」美奈子も被害者である。
加害者の、俊郎とエミは黙りこくっていた。
「あ~もう腹がたつ、何もかもに嫌気がさすわ、あんたらのせいだ思い知れ」
「うわっ、いてえ」
「きゃあ」
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