閑話・スイレンの恋
AQAとしての物語が始まる前の話です。
スイレン視点。
………………………………
書類整理OK。
メールの返信も完了。
今日のお仕事、無事終了。
「お先に失礼します」
「お疲れさん。これから式の打ち合わせかい?」
「最終打ち合わせです。もう、一ヶ月前ですから」
「大変だろうけど、誰もが通る道だからね」
「はい。頑張ります」
「先輩、また明日」
「また明日ね」
残業をしたとはいえ仕事のきりは良かった。心地よい充実感が、私の足取りを軽くさせる。
今日で打ち合わせも最後だ。あの人は先に着いているだろう。数週間後には私の旦那様になっている、あの人。
最終打ち合わせとはいっても、もうほとんど決まっているようなものだ。式場も、料理も、招待客も、ケーキも、ベース色も、進行も。
後は、あの人の意見を聞くだけだ。
「こんばんは」
式場に入ると、顔見知りになった受付嬢が微笑んだ。
「こんばんは。龍様はもう来られています。白鷺の間へどうぞ」
私は、小さな応接室へと急いだ。
「龍。遅くなってごめんなさい」
書類が散らばる机の前に、愛する龍が座っていた。向かいに、私たちの式を担当している花梨がかしこまっている。
「わたくし、何か飲み物を持って参りますので」
花梨はなぜか慌てた様子で去って行った。
「龍? あなた何か無理難題を言ったんじゃないの?」
私は、少し咎めるように言った。
「……式はしないって言ったんだ」
「は?」
「式はやめる。僕は、君と、結婚しない」
「え……?」
いきなりのことに私の頭は真っ白になった。
結婚式をやめる?
ここまできて?
「それって……あんまり笑えない冗談ね」
「冗談じゃないさ。よく考えたんだ。そして決めた。君とは結婚しない」
龍は座ったまま、きっぱりと言葉をつないだ。彼は本気だ。
「私たち付き合い始めてから、もう6年、7年目よね? 結婚の話が出たとき、あなた、なんの反対もしなかった。どうして急にそんな結論になったのか、理由を教えてもらえるかしら?」
「理由? それを君が聞くのなら、僕も聞きたいことがある」
「なあに? なんでも聞いてちょうだい」
「結婚が決まってからの君の行動さ。今まで残業は一度もなかったのに、いきなり増えた。式の内容は僕の知らない間にどんどん決まっていく。最後に僕と会ったのはいつだったか覚えているかい? いや、ちゃんと話したのはいつだったか、君は覚えているかな?」
「残業は、寿退社するからそれまでに出来る限り引き継ぎたいからよ。あんな仕事でも、引き継ぐことってけっこうあるの。最後だと思うときっちりしたいし。式の内容は、あなたが好きにしていいって言ったからよ。あなたは忙しそうだったからできる限り私が決めて、最終的にあなたが変更すればいいと思って。あなたと話したのは--」
いつだったかしら?
最近、すごく忙しくって。一緒に暮らしてるんだから、会ってないことはないんだけど、話したのは……。
「思い出せないだろう? もう3ヶ月も前だからね。僕が話しかけたら、君は『忙しいからまた後で』『その話は明日ゆっくりしましょう』。いつまで待っても、それはこなかった」
そうだったかもしれない。
「でも、ほんとに忙しかったのよ。残業するようになってから家にいる時間が減ってしまって。家事の合間に式のこと考えて」
「誰と結婚するための式を?」
「もちろん、あなたとよ」
「僕は、話をする暇もないような相手と結婚はできない。だから、この結婚はなかったことにしよう。あの部屋も、僕が出て行く」
「出て行く?」
「もう僕は君と付き合えない。別れよう」
それはまさに晴天の霹靂で。
私は馬鹿みたいに突っ立ったまま、泣きもせず、叫びもせず。龍が応接室を出て行って、お茶を入れた花梨が帰ってきても、しばらく動けなかった。
「マリッジブルーかもしれませんね。女性だけでなく男性もなるんですよ。すぐには結論を出さずに、日を空けて改めてお話しされてみてはどうでしょう。ただ、もう式も近いですから、そんなに空けてはいられませんけれど」
花梨の説明はもっともだ。
とにかく家に戻って龍ともう一度話そう。私はようやく動くようになった身体を引きずって、家に戻った。
そんな考えもむなしく部屋はカラッポだった。龍はもちろん、龍の荷物もなくなっていた。相当量になる荷物を一度に持って出ることなどできない。
「いつから用意してたんだろう?」
おそらく徐々に持ち出されていた荷物にさえ、私は気づかなかった。
がらんとした部屋。
埃があちこちにたまっているのが、やけに目立つ。そう言えば、この前、掃除したのはいつだっけ?
私は、冷たい床に、ぺたんと座り込んだ。
あと少し、あと少しで全部終わるって思ってた。そうすれば、龍と前のように暮らせるって思ってた。これさえ乗り切れば、後はゆっくりできるって……。
「どこで違っちゃったの?」
私の問いかけは暗い部屋に吸い込まれて消えた。
※
翌朝、いつも通り、私は会社に行った。
なにも知らない社員から「この幸せもの」とからかわれる。私はええ幸せですと微笑む。
残業を断って、龍を会社の前で待った。
事前にメールで、会って話したい、と送っていたので、ほどなく龍は出てきた。
話し合ったものの事態は好転しなかった。私にとってはいきなりだった別れ話も、龍にとっては考えた末の結論だったから。
式場はキャンセルした。
会社にはなにも言わず予定通り退社して、後から手紙で結婚しなくなったことだけ知らせた。しばらく働かなくても式の積立金で過ごせる。
正直、何もする気が起きなかった。
ぽっかりと空いた平日、なにをするともなく部屋にいる。それも芸がないので、遊具のないただ広いだけの公園に行って、見るともなしにベンチに座る。
平日の昼間なんて私には未知の時間帯で。誰もいないんじゃないかと勝手に思っていた。
公園をとりまく遊歩道には、ジョギングやウォーキングをする人がいる。幼い子供連れの母親もいる。中央の広場では太極拳を、木陰では将棋をさす人たちがいる。
あんなに焦っていたのに、時間はこんなにいっぱいあったんだ。
「馬鹿みたい」
いつの間にか人影がなくなっていた。
空が暗い。
そう思った瞬間、雨が降ってきた。雨に打たれて初めて、自分が泣いていたことを知った。
なにを間違えたんだろう。
どこで間違ったんだろう。
雨の中、目立たないことをいいことに、私は泣き続けた。
ふと。
雨がかからないことに気づいた。
雨音は途切れなく止んだわけではないのに。
見上げると傘があった。
鮮やかな赤い傘が、目に眩しかった。
振り返ると、傘の持ち主らしい人影が去っていくところだった。人影は激しい雨ではっきりとは見えず、赤いイメージだけが残った。
それから私は栄養失調と雨に当たったことで肺炎になり、しばらく入院した。
久しぶりに帰宅して自分の部屋を見て驚いた。
「なあに~、この汚さは~」
病院があまりにもきれいだったからか、なにもかも放り出した部屋は強烈だった。
「これじゃあ病気にもなるわよね~」
掃除するごとに自分の中のなにかも整理されていくみたいに思えて、いらないものをどんどん捨てた。
「もう式のこと考えなくていいんだし~、あれ買っちゃお~」
今まで我慢していた欲しかったものを片っ端から買った。
うきうきする。
こんな気持ち、長いこと忘れていた。
今なら、なにを間違えたかわかる気がする。
彼がなにを求めていたのかも。
もう戻れないけれど。
「ど~しよ~。欲しいものまだまだいっぱいあるのに~、お金がもうない~」
さすがに資金が底をついたので、求人情報を集めに集めた。
「どうせなら~、ラクなのがいいわよね~。それでいて~、高給なやつ~」
私はもう、つらい思いなんて絶対しない。
しんどいことなんて、たくさんだ。
やりたいことができるように、生きるって決めた。
龍、あなたは幸せになったのかしら?
気づかせてくれたあなたの幸せを祈ってる。
でも、私より幸せじゃないといいな。
いつかどこかですれ違っても、私だって気づかれないといい。
私だけが、あなただってわかるの。
もしもあなたが大変な状況だったら笑い飛ばしてあげるわ。
………………
というわけで、今のスイレンになったのでした。
もともとのスイレンはバリキャリ女子。
技師としても能力が高いため、ホワイトストーン病院と契約できています。
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