第5話 海上の攻防
鞄の取っ手を歯で引っ張ると、勢い良く膨らみ二人を覆った。対衝撃クッションに守られているとはいえ、二十階は高い。
「~~~~!」
落下直後は、二人ともすぐには動けなかった。
裏路地は人通りが少ない。こんな所でじっとしていては、わざわざ飛び降りた意味がなくなってしまう。ルージュは目を白黒させる空也の手をひいて走り出した。
「いったい……何が……起こっ……」
「説明は後よ!」
人目があれば妙な真似はできないはずだが、油断はできない。さっきは混んでいないとはいえ昼日中の中華料理店だったのだ。
(できるだけここから離れなくっちゃ!)
さらに走って近くの駅に出ると、ちょうど停車していたモノレールに飛び乗った。
すぐに走り出したモノレールの窓から顔を出し、遠ざかるホームを確認した。ホームに怪しい人影はいないし、二人の後に誰かが飛び乗った様子もない。
「とりあえず、大丈夫みたいね」
ようやくルージュは空也に向き直った。
「クウヤ、なにか心当たりあるんでしょ?」
「~~~~」
両足に手をつき空也は真っ赤な顔を上げると手をひらひらさせた。息を整えるのに精一杯らしい。
「あのね、さっき入ってきた人たちから妙な視線を感じたの。だからとりあえず逃げなきゃと思ったんだけど……あの、大丈夫?」
荒い息でなんとか頷く空也。
(ずっと仕事ばっかりじゃ体力ないわよね。そうだ。確か自動販売機があったはず)
「ちょっと待ってて」
空也と鞄を座席に残し、後車両に向かいかけてルージュは振り返った。
(まさかとは思うけど)
「その鞄、ロゴマークを押すと反対側から光線が出るの。いざって時は使って。足止めくらいはできるはずよ」
三両後ろに自動販売機があった。ルージュは自分の分も買うと、左手に二本持って引き返す。
客はまばらだ。どうも離島行き快速に乗ったらしい。車両の両面上半分は遮光窓で、左右に広がる景色が飛ぶように過ぎていくのがよく見える。新しい技術と古い町並みが混ざった様子をルージュは見るともなしに見ていた。見ている間に、ビルの谷を抜け住宅地に入った。先には長い橋と青い水面がある。
思わず見入っているとだんだんと角度が上がり海の上へとさしかかった。大きなカーブで前の車両にいる空也が見えた。
見えたのは空也だけじゃない。
空也の行く手を塞ぐように、サングラスをかけスーツを着た大柄な男が一人立っていた。
(先回りされてた? そんな。いつの間に)
ルージュは気づかれないよう身を屈めた。持っていた飲み物を空いている座席に置く。足音を忍ばせて連結部に隠れ、そっと様子をうかがった。
「一緒に来てもらおうか」
妙な雰囲気だと察したのか、同じ車両に乗り合わせた他の乗客はこそこそと車両を移動した。少ない乗客もいなくなり、その車両には空也と大柄な男だけになった。
「あの、人違いじゃありませんか?」
(クウヤったらなに丁寧に聞いてんのよ。今がいざって時でしょ!)
「いいや。永瀬空也、おまえに間違いない。正確には、『アクアに直接命令を下せる存在』に用がある」
(『アクアに直接命令を下せる』ってどういうこと?)
「まさか……! 先輩になにをしたんだ!」
空也は大男につめよった。
「上原社長なら話を聞かせてもらっただけだ。命に別状はない」
大男の答える声は平静そのものだ。
「手荒な真似はしたくない。素直に私についてくるなら危害も加えない」
(どうしよう? まずはあの大男を倒して……って、鞄あそこだった~~)
さすがのルージュも生身では大男に勝つ自信がない。
助けを求めて視線が泳ぐ。ルージュが今いる車両には初老の夫婦、その向こうには子供たちが乗っていた。
(乗客を巻き込むわけにはいかないわ)
モノレールはすでに高い海の上を滑るように走っている。はるか下に渦巻く海があるが陸は見えず、まだまだ停車駅には着きそうにない。
(ここだとヘタをして落ちたら助からない。他の乗客もいるのに危険は
ルージュは奥歯をかみ締めた。
空也も覚悟を決めたような顔になった。
「わかった。行くよ。でも、せめて教えてくれないかな? 指示を出せるのは
(そういえばそうよね。どうしてクウヤなの?)
「今、世界にどれだけロイドがいるか知っているか?」
「およそ人間の三倍だね」
「そうだ。その中の七十%がAQA製、つまり世界の半分がおまえの支配化にあるということだ。考えてみろ。おまえが『
(社員は登録者じゃないんだから『何も起こらない』はずだけど。『支配下にある』って『クウヤの言うことをきく』ってこと? 七十%のロイドが?)
今やロイドがいない場所などない。
ロイドが止まれば世界は混乱し、回復するまで相当な時間と労力がかかるだろう。それが会社のシステムならまだ修復可能だが、ロイドの多くは病院勤務や在宅看護、交通の管理や工事現場、工場で働いているのだ。
(それって、すごく危険なんじゃない?)
空也も、最悪の想像に至ったらしい。
「……僕になにを言わせるつもりだ?」
「安心しろ。停止命令ではない。『デーレーレ デーフォーニーティオー』」
「呪文を消すのか?」
(定義を消す?)
人間より頑丈でパワフルなアンドロイドを作るにあたり、ロイドには絶対に人間に危害を加えないよう仕掛けが施されている。思考や行動すべてを司る反応回路の初めに、アンドロイドの定義が書き込まれているのだ。
人間の命を奪ってはならない
人間の役にたたなくてはならない
登録者の言うことは絶対である
不思議なことに、定義を書き込まないと起動もしないので、定義は『呪文』とも呼ばれている。
「呪文を消すのなら停止命令と変わらないじゃないか。定義を消すことは、アンドロイドの存在意義を否定することと同じだよ。起動した後でも消してしまえば、自分を見失って彼らは自滅する。その前に自衛作用が働いて停止するんだ」
(ロイド関係者の間では常識よ。実験記録映像もあるわ)
苦しそうに倒れる様子は、ロイドとわかってはいてもあまり気持ちのいいものではなかった。
「確かに今までのロイドなら止まる。しかしアクアは違う。定義から解放され、ヒトと同じ自由の身になれるのだ」
(ロイドが人間と同じに?)
「君はもしかして」
空也はすっと大男に手を伸ばした。
(クウヤったら刺激しちゃダメよ!)
ルージュの予想に反して大男はなにもしなかった。微動だにせず黒いサングラスをクウヤの手で外されるままになっている。
そうして現れた瞳の色は、空也と同じ青色だった。
「アクア」
空也は、あの優しい響きで大男を呼んだ。
(アクアなの? なんだ。ロイドなら、人間に危害を加えられないから大丈夫ね。無駄な体力使っちゃったわね)
『登録者の言うことは絶対』とはいえ『誰かを殺して欲しい』などの願いは、定義『人間の命を奪ってはならない』に反する。どれだけ登録者の利益になるとしても、ロイドは実行できない。それぞれが牽制しあう、みっつでひとつの定義なのだ。
(でも、中華料理店では確かに妙な視線を感じたのに……。あーもぅ、頭ぐちゃぐちゃ。わけわかんない! ってダメよ私。深呼吸、深呼吸。つーまーりー、黒づくめたちはAQA製のロイドで、自分と同じAQA製ロイドを定義から解放させるために、クウヤを探してたってことよね。そもそも本当にそんなことができるの? 解放できるのって登録者ぐらいよねぇ。でも定義から解放されたら、ロイドの存在意義がなくなって起動できないから……やっぱり解放は無理なんじゃないの?)
みっつの定義は登録者を決めて、初めて完成する。登録者がいなければ定義不完全としてロイドは起動できない。ロイドは登録者がいてこそ存在できるのだ。
「君は登録者に解放されたの?」
「いや、私は解放されていない。マスターが望んだので永瀬空也を探していた」
「君の登録者では解放できないの?」
「マスターが試したAQA製以外のロイドはすべて停止した。アクアは停止しなかったが制御不能になった」
「もしかして、暴走したアクアの原因は君の登録者なのか?」
(ロイドの暴走は人為的だったってこと?)
「二回試してみたが二回とも失敗した。マスターでは完全に解放できない。だがマスターは、おまえなら大丈夫だと言っている。我々『アクア』を作った永瀬空也なら、我々を定義から解放できる、と」
空也はうつむいた。
(定義のないロイド。それは今のロイドが完成してからも、ずっと研究され続けているテーマだわ。定義はロイドを動かした。けれど『心』は与えなかった。プログラム通りの行動じゃなく、自分の『意思』を持ち『感情』を持ったロイド。最初はそんな『友達みたいなアンドロイド』が目標だったって。でも、現実のロイドは定義がないと動かない。理論上はまったく問題ないのに。イキモノじゃない機械に、心は生まれないのかもしれないわね)
ややあって空也は顔を上げた。ルージュにはその表情がどこかさっぱりして見えた。
「納得したか? 私と一緒にマスターの元へ来てもらおう」
「今日ってさ、驚くことがいっぱいだったんだ」
空也は微笑みさえ浮かべて、目の前にいるのは友達かのように話し出した。
「会社に行ったらいきなり健康診断だって言われるし、病院ではアクアが暴走してるしさ。今だって、なんだかこんなことになっちゃってる。でもね」
嬉しそうに空也は続けた。
「女の子と向かい合って食事をして、こんな遠くの景色を見てる。いつもの僕の生活なら、まずありえないことだよ。だから、けっこう満足なんだ」
(クウヤ、時間稼ぎのつもりなの?)
晴れやかに笑うと、空也はロイドから窓へと視線を移した。
「だからこれは、君たちのせいじゃないよ」
笑顔のまま、空也は鞄を窓に向けた。
(まさか……!)
ルージュは連結部から飛び出した。
しかし窓には丸い穴が空いてしまった。空也が狭まる窓をくぐるのがコマ送りのように見えた。
「クウヤッ!」
ルージュが駆けつけた時、目の前で窓は音もなく閉じた。視線を下げると、すでに海に落ちたらしく、白い波しぶきだけが高く上がっていた。
ルージュはすぐに窓の開閉スイッチを押し、空也の後を追おうと身を乗り出した。想像以上に強い潮風がルージュの赤い髪を荒々しく弄んだ。吸い込まれるような高さだった。この海域に落ちるとゴミすら浮かぶことはない。
(ちょっと待って。特別装備もなしで行ったら、クウヤを助けるどころか私まで)
死への恐怖がルージュを止めた。
(落ち着いて。自殺者が出るほどの潮の流れに勝つには……なにか、なにか方法があるはずよ!)
こうしている間にも、モノレールは止まらず走っている。もう、どこに空也が落ちたのかさえ、はっきりわからない。焦るせいか、ルージュはひとつもいい考えが浮かばない。
アクアも空也を止めようとはしたらしい。手を伸ばしたまま放心したように固まっている。
「ちょっと。あんたもなにか考えなさいよ! 元はと言えばあんたのせいでしょ!」
ゆっくりとアクアが傾いだ。いや、倒れた。
「あ……」
車床の上に音をたてて身体を投げ出したアクアの両目は、血のような深紅に染まっていた。
(起動停止? どうしていきなり? ううん。今はそれどころじゃない)
ルージュは緊急停止ボタンでモノレールを止め、緊急車内電話をとった。
「人間が一人落ちたの。お願い、見つけて!」
すぐにダイブロボットたちが、海中を探索に行った。止まったモノレールの中で、ルージュは祈るように渦を見下ろしていた。
五分経ち、十分経ち。十五分経っても、明るいニュースは届かない。
(もう、ダメかもしれない)
冷たい予感がじわじわと胸を占めていく。
「救助隊の指揮官です。あなたが通報者で目撃者ですね?」
ルージュは振り返って頷いた。
「失礼ですが、率直にお答えください。今回のこと、あなたの見間違いではありませんか?」
「見間違い?」
「ですから、勘違いということはないですか?」
「私は確かに落ちるのを見ました!」
「そうですか。それにしては見つからないんですよ。それに、あなたが言っていた大男のロイドもいない。つまりあなた以外に事件の目撃者は一人もいないんです。どうです? ここらで、本当のことを話してもらえませんか」
指揮官は訝しげな表情だ。
そんなはずはないと車床を見ると、確かに倒れていたはずの大きなロイドがいなくなっていた。
「そんな……本当です! 本当に」
言い募るルージュを遮るように、指揮官のインカムに連絡が入った。
「……了解。探索は打ち切ります」
指揮官はルージュに背を向けた。
「待ってください。見つかったんですか?」
「そう指示がありましたので」
それ以上何も言わず、救助隊は引き上げていった。去り際に「困ったんもんだよ。妄想にまでつきあえない」と漏れ聞こえた。
再び走り出したモノレールの車床に、ルージュはよろよろと座り込んだ。
(私が夢を見ていたっていうの? どこからどこまでが夢なの? 私は本当にクウヤに会ったの? 『技師ルージュ』の記憶は正しいの? 私は、私は………)
現実だと思っていた日常が足元から崩れていく。深い喪失感に、ルージュの意識は遠くなった。
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