3.星竜の目
翌朝は青空が眩しかった。講義室に入ったユールは迷わず最後列の窓側の席についた。
まばらだった室内に続々と学生が入ってくる。その後ろから姿を現した白髪頭の老紳士は教卓から全体を見回しておやと目を丸くした。
「今日はドレーゲルくんが出席してますね。ティエル湖の竜にはやはり興味がありますか」
「まあ……」
曖昧に返事をする。
自然史の魅力はなんといってもレポート提出で単位が貰えることだ。テストがないうえに出席も強制ではない。だからユールはいつも図書館で過ごしているわけで、今どこまで進んでいるのか、内容は何かといちいち把握していない。
今日だって本当なら出席するつもりはなかった。けれど図書館に行くのはなんとなく気が乗らず、かといって他に行くあてもなく。仕方なくここに来たユールだが、その態度は先生にとってさして問題ではなかったらしい。にこにことテキストを開き、それが授業開始の合図となった。
「ティエルストと竜は切っても切り離せない関係であるのは皆さんもよくご存じですね。水竜というのは竜の中でも相当な気分屋と言われ、感情が高ぶると豪雨を降らせ洪水を起こします。……と、利いたふうな口をききましたが私も実際に見たことはありません。伝説の生き物ですから」
しれっと言い切った先生にあちらこちらでくすくす忍び笑いが起こる。竜や精霊は選ばれた者の前にしか姿を現さない。そんなことはこの場の誰もが知っている。
室内が静まるのを待って、先生はコホンと咳払いをした。
「ティエル湖を
頬杖をついて聞いていたユールは窓の外に視線を投げた。夜遅くまで降っていた雨は木々にきらきら輝く雫のヴェールをまとわせていた。中庭の一角には学生が数人固まっていて、ひときわ目を引く緋色の髪がときおり覗く。この距離では顔つきまでわからないが、あの夜空を思わせる瞳は容易に思い浮かべることができた。
『無責任だわ』
突如、少女の声が耳に蘇った。半眼を閉じたユールはおもむろに机に
女の子が怒り出すとき、大体はユールの交友関係に起因する。
知り合った女の子にはいつも誠実な態度で接してきたし、その中で理解があった子とは一歩進んで仲良くなった。そこまでの関係に至らなかった子にだって義理を欠く真似はしていないつもりだ。だから不機嫌になる子は本当に一部なのだけれども。
果たしてマルガもその一部になってしまうのか。それは正直に惜しい。
両腕を枕にしてユールはぼんやり目を開けた。例えばターニャが陰口を叩いていた可能性はあるだろうか。
天真爛漫な少女の顔が脳裏をよぎり、ユールは力なく溜息をついた。多分あの子はそういうタイプじゃないと思う。そして本来の自分もこんなふうに引きずるタイプじゃないはずなのだ。
昨日からずっとこの調子だった。ケニーには哀れまれるし何をする気にもなれないし、いい加減疲れてもくる。
鐘が鳴ると同時に席を立った。こういうときは甘いものに限る。学内のカフェで手軽につまめそうな菓子でも見繕ってこよう。
同じように先を急ぐ小柄な背中と扉の前で鉢合わせた。順番を譲ったユールを気に留めることなく退室していくその人の、ストロベリーブロンドがふわりと舞った。
「あっ」
ユールの声に小さく振り返ったのはついさっきまで思い浮かべていた顔だ。目があった彼女――マルガは逃げるように駆けていく。
「待って!」
建物を出たところで追いついた。肩を掴んで前に回りこみ、もう片方の肩も捕まえる。正面からまっすぐマルガの顔を覗きこんだ。
「なんで逃げるの」
「そっちこそ、追いかけてこないで」
「あんなふうに逃げられたら気になるでしょ」
「に、逃げてなんか……急いでただけです」
ふうん、と両手を離した。マルガはテキストをぎゅっと抱えこみ顔を伏せる。
「そういや昨日の雨は大丈夫だった?」
「傘くらい持ってます。……もういいですか?」
少女は頑なに目をそらしたまま。視界にユールを入れたくないのだろう。すっかり拒絶の態度に逆戻りだ。
同じ講義を受けていたらしい他の生徒が次々通り過ぎていった。無遠慮にちらちら窺ってくる視線が鬱陶しい。
「あのさ、場所を変えてちょっと話せないかな」
「昨日のことなら、謝るつもりないですよ。あなたは嫌な気持ちになったかもしれないけど、」
「それ。ちゃんと説明してほしいな。オレの何が無責任なのか」
マルガが顔を上げた。双眸には鋭い光が宿っていた。
「本当に無関心なのね。だからドレーゲルなんて嫌い!」
「は?」
「当事者じゃないから関係ないとでも思ってるんでしょう!? それじゃ関係ないのに星竜の目を受け継いだ方はどうなるんですか? 迷惑だわ。役割を放棄したんだったら、代わりにできることを探すべきよ」
「星竜の目? ……迷惑って誰が」
思わず一歩踏み出した。同時に背後からユールの肩が叩かれた。
「ユールリッドくん、おはよ」
のんびりした朗らかな声だった。それだけで相手が誰か、どんな表情をしているかも容易に浮かんだ。
振り返ったユールは自分の予想が間違ってなかったことに溜息をついた。
「ウィンザール。今取り込み中なんだよ。後にして」
「取り込み中?」
「見ればわかるだろ……あれ?」
ユールが視線を戻すともう少女の姿はなかった。あたりをきょろきょろ見回すがそれらしい背格好はどこにもない。まるで溶けて消えてしまったかのように。
「誰かいたの?」
レンフォルツも隣に並んであたりを窺う。
ひとしきり探したあとで顔を見合わせた。レンフォルツが不思議そうに首を傾げた。その藍の双眸に映りこむユールの姿。
ユールは眉間にしわを刻み、レンフォルツを――正確にはその両目を指差した。
「……関係ないのに受け継いだ方」
「何が?」
「あー。そういうことか……
両膝に手をつく。それからがっくりと
代々ドレーゲル家を支えてきたのは〝星竜の目〟と呼ばれる藍色の瞳を持つ者だ。それは水竜の親愛を勝ち得た初代にあやかるためとも、その水竜が彼の子孫を見誤ることがないようにとも言われている。
長い歴史の中には「瞳の色に縛られ振り回されるのはおかしい」と、星竜の目を持たない者が継いだ記録も残っている。だがそれは折悪しく酷い干ばつに悩まされた時代でもあった。
以来、藍色の瞳は当主の必須条件となった。
先先代である祖父は美しいペールブロンドと藍の瞳の持ち主だった。が、後継の資格は息子ふたりには受け継がれなかった。そのため祖父の甥にあたるウィンザール家の人間がドレーゲルの跡を継いだ。
ちなみに隔世遺伝を期待されたユールに遺伝したのは髪色だけ。だからいずれ後継の座が回ってくるのも、マルガが贔屓したいのも、今ユールの目の前にいる――。
「ユールリッドくん、どうしたの?」
見上げた先でレンフォルツがおろおろしていた。
「……ウィンザールさあ、彼女いる?」
「え?」
藍色の瞳がきょとんと瞬く。ふるふると首を横に振ったのを見てユールは上体を起こした。まあそうだろうな。そんな浮ついた話があったら十人中十人が気づく。
だからきっとあの子の片想いだ。
「それじゃ見られたくないよなぁ、他の男といるとこなんか」
「ユールリッドくん?」
「くそ、なんか悔しくなってきた……結構可愛かったのに。目の色ってそんなに重要? オレだって初代の血は引いてるっての」
「あ、そうだ。あのねユールリッドくん。僕、きみにお願いしたいことが……」
話を遮るようにじとーっと
「待って!」
レンフォルツが追いかけてきた。
「ユールリッドくん、今夜何か用事ある?」
「今夜? 別に予定はないけど。……は、夜?」
「僕と一緒に探しにいってくれないかな。導きの花を」
足を止め怪訝な目を向けたユールにレンフォルツは朗らかな笑みを見せた。
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