濃霧(11)
老婆は瞳をちらりと動かし、周囲を確認する。
息の荒い口呼吸で、はあ、はあ、と短く呼吸している。
呼吸を整えることもせず、老婆は分厚い本を両手で頭上へ持ち上げた。
「霧の中には悪魔がいる」
老婆は開いた分厚い本を両手で頭上に掲げたまま、叫んでいる。
老婆の視線は分厚い本のページに集中し、瞳が見開いている。
瞳は漆黒のように光を吸収し、くすみ、輝きが無い。
老婆の奇天烈な行動に、客は凍りつく。
私も他の客と同様に驚いて体が凍りついている。
私はその老婆の瞳を見て、恐怖というよりも憐れみを覚えた。
老婆の瞳を見ていると、どこか寂しそうだった。
「何言っているんだ、あの婆さん、帰ろうぜ」
カップルの若い男性は、そう言って席を立ち、レジへ向かう。
その足取りは冷静に見せているが、歩幅が大股だった。
この場から逃れるように浮き足立っているのがわかる。
カップルの女性も足早に男性を追う。
「外に出てはいけません。悪魔に殺される」
老婆は分厚い本を掲げたまま声を荒げて叫ぶ。
老婆の怒号が店内の隅まで響く。
店員は老婆を気にしながら会計を進める。
カップルの男性が手元がもつれて、小銭を地面に散開する。
「あー、くそっ」
カップルの男性は苛立ちを見せながら、小銭を拾う。
カップルの女性も手伝う。
小銭を拾い終えると、再び会計を進める。
店員は強く怯えていた。
マスク越しでも容易にわかる。
瞳が泳ぎ、眉が下がり、額に冷や汗を滲ませている。
会計を済ませたカップルは急ぎ足でレストランの扉へ向かう。
レストランの扉を開ける。
すうっと、外の濃霧が足元から店内に入り込む。
カップルの足元が濃霧に覆われる。
カップルは濃霧に満たされた外へ駆けていった。
レストランの扉は自然と閉まる。
静まり返った店内。
テレビの音が、うるさいくらい大きく聞こえる。
老婆は分厚い本を机に置き、ページを凝視している。
その時だった。
鈍く重い、大きな音が耳に入る。
僅かにレストランが揺れた。
レストランに何かがぶつかったような音だった。
生肉を地面に叩きつけた音。
大きな石を地面に叩きつけて砕く音。
濡らした雑巾を地面に叩きつけた音。
これらの音に似ているが違う。
どの音も混沌していて、聞いたことのない音だった。
「お、おい、嘘だろ」
男性の怯えた声が店内で聞こえる。
私達、客の誰もがその声の発生源へ視線を向ける。
その光景は目を疑った。
いや、目は正しく映していた。
しかし、頭で理解できるような光景ではなかった。
レストランの窓には、べったりと、こびり付いた赤い液体。
それは水風船を外から窓へ当てたように放射線状に広がっている。
その放射線状の中心へ目線を動かす。
そこには先程、外へ出たカップルの男性の姿があった。
カップルの男性は捨てられた人形のように倒れて動かない。
普通では曲がらない方向へ関節が曲がっている。
カップルの男性の顔は店内に向き、口や耳から血が溢れ出ていた。
妻は娘の顔を胸で覆う。
妻の腕が震えているのがわかる。
私の手の指も異様に冷えて強張る。
絶句の無音はテレビの音をより大きくさせる。
店員が悲鳴を上げた。
その悲鳴で、客の誰もが置かれている状況を理解した。
泣き叫ぶ者も居れば、震え上がり動かない者も居る。
レストランの扉へ駆ける者も居れば、腕を組む者も居る。
扉へ駆ける者は他の客を退けて、我先に扉へ向かう。
泣き叫ぶ者や震え上がる者は石のように体を動かさない。
腕を組む男性は白い薄髭をざらざらと手でなぞる。
その男性は、レストランに入る前の列で前に居た老父だった。
「これ、何かの撮影じゃないのか?」
老父はにやりと笑みを作り、声高らかに声で店員へ訊ねる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます