濃霧(4)

 娘は、私の背に乗りながら、両足を交互にぱたぱたする。


「あまり動くと危ないよ」


お父さんは、ずり下がってきた娘を背負い直す。


川は大河と言う程ではないが、豊かな水量が流れている。


川の上は木々は無く、ぽっかりとあいている。


綿雲が幾つかある青空が見える。


ふと、そよ風に乗って、弦楽器の弾く音が聞こえてきた。


「何か聞こえない?」


妻が私に言う。


「確かに聞こえるな」


私は答える。


その音は、川瀬の方向から聞こえる。


私は川瀬の方向へ目線を集中する。


目線は、木々の幹をすり抜け、枝葉の隙間をすり抜け、更に奥へ進む。


枝葉の隙間に何やら動くものを感じるも、勘違いだった。


木々の中に周囲と違う色を見つけるも、山肌に咲く花だった。


ひとつ、ぴぴっと鳴いて小鳥が飛んだ。


小鳥は川瀬の方向へ飛んでいく。


小鳥の飛ぶ姿を目線が追っていく。


その目線の先に、一人の男性が見えた。


白い上着にジーンズを装っている。


陽が射して、その男性の背を白く輝かせる。


「あそこに人がいるな」


私は、背に乗る娘を片手で支えて、もう片方の手で指す。


娘は身を顔をその方向へ出す。


妻もその方向へ顔を向ける。


「あ、本当だ、あそこにいるね、何しているんだろう」


妻は、その男性を見ながら言った。


「ねえ、どこ?」


娘は私の背から身を乗り出す。


「あんまり、体を傾けると落ちちゃうよ」


私は娘に言う。


「だって、わからないんだもん」


娘は言いながら、無我夢中で左右に顔を動かして探している。


男性は、車のタイヤくらいの大きさの石に腰を掛けている。


その手には、アコースティックギター。


男性は、さらさらと流れる川瀬でゆったりと演奏をしている。


その旋律は、指で一つ一つ弾き、まるでハープのような音色だった。


ギターの弦が弾かれる度に、ふわんと周囲の木々へ広がる。


そのふわりとした音は優しくて、雲の上でうたた寝するような心地になる。


「なんていう曲なんだろうね」


妻が言う。


「私も聞いたことが無いな」


私は答える。


少しの間、私達はその旋律に耳を乗せて楽しむ。


ほんのり花の甘い匂いも感じる。


鳥達の囀りや木々の音、川の音がひとつに混ざり合う。


混ざり合った音は、まるで合奏曲のように耳を感動させる。


「何年か前に家族でオーケストラを観に行ったことあったね」


妻が言う。


「そうだね。なんだか、その時を思い出すな」


私は柔らかな旋律に聞き惚れながら言う。


「うん、また、行きたいね」


妻はそう言うと、旋律に耳を乗せる。


妻の目はほのぼのとして、頬がそっと上がっている。


「わたしも川に行きたい!」


娘が私の耳元で言う。


心地良い気持ちで旋律に乗っていた私の耳は、娘の声に驚いた。


「うう、耳元で叫ぶのは駄目だよ」


私は、目をぎゅっと閉じて、その衝撃に堪える。


まるでオーケストラの舞台の照明機器が天井から落下したようだった。


耳の奥をつんざいた。


「川に行きたいの」


娘は、小さな声で言う。


「ここからじゃ、無理だよ。だいぶ山を登ってきたからね」


旋律が止まる。


私達は、男性へ視線を向けると、立ち上がっていた。


ギターを背負い、川瀬を歩き始めた。


男性の歩く姿をそれぞれの木々の隙間が断片的に映す。


段々と見えづらくなる。


木々の中へ入り、男性の姿は見えなくなった。


「行っちゃったね」


娘が言う。


耳は、突然無くなった、心地良さを埋めようと、甘くて優しい音を探す。


しかし、物寂しげな雰囲気だけが残っているだけで、元の涼やかな山に戻っていた。

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