ただしさのないせかい
紫鳥コウ
ひみつ
「困っているひとがいたら、助けるんだよ」
お母さんも、おばあちゃんも、ふだんは無口なお父さんも、小さいころから、みんながわたしに言いきかせてきたこと。今年から入学した小学校でも、先生が教えてくれたこと。
○ ○ ○
「買い物にいってくるね」と、お母さんは言った。
お父さんは仕事にいっているし、おばあちゃんはさっき、習い事をしに出かけていった。おめかしをして。
「なにをつくってくれるの?」と聞くと、お母さんは「ひみつ」と答えてわらった。
わたしはこれから、留守番をするのだ。はじめての留守番。お母さんは、わたしをしっかりした子だと認めてくれているのだ。留守番なんて、ちょちょいのちょいの子だって、そんな風に思ってくれているのだ。まちがいない。
やってやるぞ。わたしは、いい気になって、わくわくしたり、どきどきしたり、こころがゆすられていた。
「だれが来ても、げんかんのドアを開けちゃいけないからね。知っているひとがきても、いまはいないふりをして」
お母さんは、わたしに注意をした。
「あと、電話がかかってきたら、いまは家にだれもいないですって言って、切ってしまうんだよ。できるね?」
お母さんはわたしの両かたを、がさがさの両手でぽんとたたいた。冬のお母さんの手を見ると、自分が、いけないことをした悪い子のように思えてしまう。だから、冬はきらいだ。
「エアコンのリモコンは、さわっちゃだめだからね。あつくなったら、ちがう部屋にいくんだからね」
○ ○ ○
お母さんが外からカギをかけた音に、ドキリとした。この家に閉じこめられたような感じがした。そして、学校のうら庭のおりに閉じこめられた、一羽のにわとりのことを思いだした。もう一羽いたのに、その子はどこかへ行ってしまった。
「にわとりはしんだんだぞ!」
そう、言いふらしていた同級生のじまん気な声が、耳のおくでよみがえった。
わたしは、本を読んだりテレビを見たりして、お母さんが帰ってくるのを待った。お母さんが言っていた「ひみつ」って、なんだろう。わくわくして、たまらなかった。
でも、家はとても静かだった。いままで、こんな静かな家にいたことはなかった。どこかから、ゆうれいがとびでてくるんじゃないか。そう思ってしまうような静けさだった。
プルルルルッ、プルルルルッ。
ただでさえ、少しびくびくとしていたわたしは、その電話が鳴る音で、雷が頭におちてきたのかと思うほどびっくりしてしまった。
お母さんは、げんかんのドアを開けてはいけないとは言ったけど、電話にでてはいけないとは言わなかった。だからわたしは、受話器の向こうに、もやもやとした黒い影を想像しながら、電話にでた。
「助けてください!」
わたしの耳に、一番に届いたのはそんな言葉で、それは、なにかをしてほしいと、たのみこむような感じの声だった。
「聞こえてますか? 僕のことをおぼえていないですか?」
わたしは、その声に聞きおぼえがなかった。
「僕ですよ、僕……そうか。親族のなかでも目立たないというか、あまりにも、みなさんとは遠い間がらだから、おぼえていないんでしょうね。僕、一度、おじさんの結婚式でごあいさつをさせていただいたのですが、……」
呼吸をしているのかわからないほど、つぎつぎに言葉がでてきて、わたしは、「だれもいないです」と返すタイミングを、見失ってしまった。
「……ということで、ちょっとお金を貸してほしいんです。もちろん、おじさんのおじさんに渡して返しますんで。あ、そういえば、おばさんですよね? それとも、おじさん? ちょっとあせっているから、聞くのを忘れていたんですが」
そこで声はとぎれたので、わたしは「だれもいないです」と言いたかった。けれど、ふと、「困っているひとがいたら、助けるんだよ」という言葉を思いだした。
「だれもいないです」と言おうとすればするほど、お母さんたちのもうひとつの教えがぴたりとうしろについてきて、そう言わせまいと、いまにも足をひっかけようとしてくるのだ。
わたしは、どうすればいいのかわからずに、うわーんと泣きだしてしまった。受話器はぶらぶらとゆれて、電話もぷつんと切れてしまった。
○ ○ ○
泣いているわたしを、その香りで抱きしめてくれたお母さんは、買い物にいくときと同じままの姿で、帰ってきた。「ひみつ」とは、そういうことだったのだ。
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