魔王が去ったその後の話
紗百
精霊樹
第1話
深い、深い、深い森の、奥深く。濃すぎる緑が匂い立つようなその森は、無秩序に成長し枝葉を伸ばした木々が幹を寄せあい、
植物を無秩序に、無造作に、無計画に増やし続けたようなその森の中で、頭一つ抜き出て高く、太く、青々と枝葉を広げている大樹が一本立っていた。他の木々と一線を画しているのは、その大きさだけではなかった。苔むした太い幹は先端に向かうにつれその色を落とし、小枝に至る頃にはその身を真白に染め上げて、雪が積もっているのかと見紛うほどだ。生い茂る葉は水晶色に透き通り、風に揺れる度にしゃらんと涼やかな音を奏でている。
森の中心部に生えているその木の周辺ばかりは、地中に張り巡らされた根に邪魔されてか他の木々は生えてはおらず、ちょっとした空き地のようになっている。威風堂々たる立ち姿、樹齢千年はゆうに超えていそうな大樹を見上げて、ほわぁ、と、どこか気の抜けた溜め息をついた者が一人いた。燃えるような赤い髪が腰まで伸びているのを、緩く一つくくりにした人間の女だった。背負われた大きめのくたびれたバッグ、左側に佩かれた一振の剣と、予備なのだろうか腰の反対側に下げられた数本のナイフがいかにも冒険者らしい装いで、しかし物珍しげに大樹を見上げているその仕草は、いかにも初めて冒険の旅に出ましたとばかり、稚気に富んだ様子でいる。
「精霊樹……やっとたどり着いた……いやーしかしとんでもない量のマナだな」
これはもしかしたら当たりかもなぁ、と独り言ちて女は視線を落とし、地面から盛り上がっている太い根を丁寧な手付きで撫でる。巨大な幹を支えるに相応しく隆々と太った根はがっちりと大地を鷲掴みにしていて、掌を当てればどくどくと、大地から養分を吸い上げる音が聞こえてきそうな気さえした。
精霊樹というのは、樹齢を数百年単位で重ねた樹木が、空気中や地中に存在するマナを枝葉や花実、幹に溜め込んで、体組織そのものがマナに変質してしまっているものを指す。もちろん、ただの樹木が年月を重ねただけでマナを溜め込む性質を持つはずがなく、変質にはその名の通り精霊が関わっているという。そもそも数が少なく謎の多い貴重な存在で、膨大なマナを溜め込んだ精霊樹の枝は魔術の触媒にも使われるために、魔術師や魔導具工にとっては垂涎ものの代物だ。そんな大樹の根を最後に一撫でして、女はそっと白々と茂る枝葉を見上げた。
「そういえば、君の住処もこんな立派な
「……まだ日も高ェうちから寝ぼけてンじゃねェぞ」
女の呼び掛けに応えるようにして、不機嫌そうに低い男の声が響く。いつの間にか女の肩口には、手のひら大の人影が、尊大な様子で腰かけていた。枯れ葉の色よりも僅かに赤みのかかった茶髪をぱさぱさと揺らした、人形のような小さな男は、いかにも下らないと言わんばかりに柳眉を寄せて、足で女の肩をげしげしと小突く。
「懐かしいだなんざ、ンな思い入れもねェよ。いいから、口の前に手ェ動かせ。仕事しろ」
「痛いいたい、いたいって。わかったよ、もう。厳しいなぁ」
まったく痛いと思っていなさそうな声調で女は笑い、うんざりだとでも言いたげに男は息をつく。手慣れた風のやりとりは、二人の間の長い付き合いを想像させるには充分だった。
女は背負っていたバッグを下ろして、かぶせの部分に
「ようし、できたできた。じゃあ、ここいらでひとつ、腹ごしらえの時間と行こうじゃないか」
「オレは仕事しろっつったと思ったンだが、聞こえなかったのか? それとも言葉が通じてねェのか? あ?」
「まぁまぁ。『食事は洞窟の外で取れ』と言うだろ? ちょうどいい時間でもあるし、いい仕事をするために必要なことだよ」
「……チ。さっさとしろ。酒も出せよ」
「はいはい」
男がふいとそっぽを向いて、女は密やかに口許に笑みを浮かばせた。嫌みに皮肉に小言に毒舌にと、口から出てくる言葉こそ辛辣きわまりないけれど、なんだかんだこうして我儘を許容してくれるあたり、素直じゃないけれど優しいなぁ、と、女の方は思っている。もっとも男の方からしてみれば、頑固というわけでもないくせ、自分の意見を曲げることを知らない女に呆れ果てて、諦めているだけなのだけれど。
そんなことは知る由もない女は、再びバッグに手を伸ばした。一度かぶせを閉じ、ダイヤルを左へ右へと動かしていく。かちりかちりとダイヤルが回り蓋があいた途端、バッグの中からひんやりとした冷気が漏れだした。高く上った日の光が眩しく、吹きわたる風は涼やかさよりは僅かに一歩離れてぬるい。にもかかわらず中から取り出された瓶や塊肉は冷えきって、うすらと白く霜がおりてすらいた。
「なんだか、スープが食べたくなってきた」
「……てめぇ、実は仕事する気ねェだろ」
「っい、いや! そんなことはないさ! ないとも! 本当だよ!」
「今取り出したそのブロック肉、どれぐらい煮込むつもりか言ってみろ」
「……えと、えぇと、……と、時計二回分ぐらい、とか」
「馬鹿野郎」
ちょっとした棍棒ぐらいはありそうな、大きな砂時計を取り出して、きょときょとと視線を泳がせた女に、男が端的に罵倒の言葉を吐いた、その時。
ばさり、翼がはためく音が響く。容赦なく降り注ぐ日の光を浴びて白く染め上げられた地面に、黒々とした影が落ちる。それは鳥の影にも似て、けれどその大きさはただの鳥にしてはやけに大きく、ちょうど、そう、人間の大人に翼を生やせば、そのような形になるだろうという具合だった。
「おーいあんた! ここでなにしてるんだ?」
若い男の声が頭上から降ってきたかと思えば、ばさり、一際大きく翼が風を打つ音が響き、一人の青年がとん、と軽く、女の目の前に降り立った。短く切り揃えられた黒髪にがっしりとした体格の、年若い男。その部分だけ切り取ればどこにでもいそうな人間の青年に見えるけれど、背中から生えた大振りの黒翼とゴツゴツした皮膚に覆われた四つ指の足、その爪先に煌めく鋭い鉤爪が、彼がただの人間ではなく、
「わざわざこんな森の奥深くまで、しかもこんな迷いやすい通り抜けにくい遭難者がわんさと出てるっつー森の真ん中で、何してんの? 何が目的だ? やっぱこいつか? 枝とか葉を取ってくってんならまだ見逃すが、こいつを切り倒すつもりっつーなら」
「あぁいや、違う違う違う! そんなつもりはないよ! ないとも!」
青年の、だんだんと低く剣呑になっていく声音に、女はぶんぶんと首を振って立ち上がった。すっくと姿勢をただした女は、敵意はないのだというふうに腰に下げていたナイフや鞘を放り投げてしまうと、頭ひとつ分は上にある青年の顔を真っ直ぐに見上げ、にこりと笑って手を差し出す。まるで凄まれたことなどなかったかのように握手を求める、にこやかな女の態度に、先程まで警戒の色を露にしていた青年は、毒気が抜かれたような表情で女の顔と手と、そして女の頭上で面倒くさそうに胡座をかいている男とを交互に見遣った。
「はじめまして、僕はレン。この頭に乗っかってるのがリュウ。とりあえず、一緒に食事でもどうだい? そのついでにでも、話を聞いてくれると嬉しいよ」
「え、あ、はい。……え?」
「……はぁ」
どういう話の流れでそうなった? とぽかんとした顔で困惑する青年と、青年が手を取ってくれると信じてやまない笑顔の、レンと名乗った女。そしてレンの頭の上でリュウと呼ばれた男は、深々と溜め息をついた。
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