水面に伏す
東雲 水
第一章 海底
第1話
今日もここには自分一人だ。
夜明け前、小舟を漕いで、シーラはいつもの家にたどり着いた。
白い壁は剥がれ落ち、屋根には赤錆が浮いている。家のおよそ半分が海中に沈んだ小さな一軒家。
船を寄せ、ずり落ちそうになりながらもなんとか木製の窓枠に腰を下ろす。
年季が入ってへたってしまったキャンバス生地のスニーカーとソックスを脱ぎ、隣に置く。
年を重ねるごとに家がゆっくりと沈んできているのだろう、数年前まではここに座った時、足が水に濡れてしまうことなんてなかったのに。
朝早くに起きて、ここで朝日を待つのがシーラの日課だった。
もうどのくらい前だったかは思い出せないが、どうしても寝付けずにいた夜があり、そのまま朝を迎えてしまった時、眠りにつくことを諦めて船に乗り込んだことがある。
行き先も目標もなく、ただ舟を漕いだ。まっすぐ、まっすぐ。
シーラはそこで、夜が明ける前の空の色をはじめて知った。
真夜中とは違う、藍の混ざったなんとも形容しがたい色をした空だった。
今は朝なのだろうか、それともまだ夜なのだろうかと考えていると、普段足を向けたことのない場所にたどり着いた。
相も変わらず静かな場所だ、とシーラは思う。
ここには自分以外の人間が誰一人として存在しない。
あるのは広大な海と、大半が水に沈んでしまった街並み。
水面から助けを求めるように頭を出しているオフィスビルの群れを通り過ぎていくと、ここは飲み屋街だったのだろうか、朽ち果てたネオン看板がぷかぷかと漂流する場所に来たところで、シーラは引き返した。
もう誰にも見られることのないであろう看板たちが船にぶつかって音が響くのが不快で、静寂しか知らない彼女でも、早朝くらいは心静かに過ごしたい、と思うのだった。
また目的もなく船を浮かべ、ビルの墓場を戻っていくと景色は一変し、周囲に建物が一切見えなくなってしまった。
ずいぶんと遠くまで来てしまったかもしれない、とやや心配になっていると、視界の端に映り込んだのがあの白壁の家だった。
ぽつんと佇むその家が無性に気になって船を停め、窓の外から家の中を覗き込んだ。
床にはバラバラになった窓ガラスの破片が散らばっているほかは、小さな木製のテーブルと、その上に積まれた三冊の本があるのみ。
きっともうこの家の主が戻ることはない。
あの本だって、開かれることはない。
この家が守るものなんてもう一つもなくて、あとは沈んでいくのを待つだけなのだと思うと、シーラは「自分のことみたいだ」と思った。
窓枠に腰を下ろして水面を見つめていると、突然辺りが明るくなり、朝日が昇ったことを知った。
夜から朝に変わるその景色は、一瞬にしてシーラの心を掴んでしまった。
すっかりいつもの朝の景色が戻ったところで、そっと足を出してぐらつく船に乗り込む。
「また来るね」
あの日から、シーラは毎日朝日を待っている。
水面に伏す 東雲 水 @seaside-again
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