Ⅲ スノウ・リーパー
「おや、おかしな子がいるねぇ……」
唐突に、後ろからカジガ婆の声がする。セツはビクリと肩を跳ねあがらせ、恐る恐る後ろを振り返る。
「セツ……お前、もしかしてその子を見逃すつもりじゃないのかい?」
カジガ婆の濁った眼が、ギロリとセツを睨む。セツは首を横に振り、「そんなことないよ」と作り笑いを浮かべる。
「こうやって雪に埋めとけば、早く死ぬと思ったんだよ!」
セツはわざと乱暴に、女の子に雪を被せる。カジガ婆はセツの肩越しに、マントの女の子をしげしげと眺めていた。
「早く殺したいなら、向こうの小川にでも放り込みな。今日の雪は融けにくいから、服に着いてもちっとも濡れやしない」
「で、でも、この子を川まで背負ってくのは私には一苦労だよ。仕方ないから、こうやって雪をかけてるんだ……」
カジガ婆が、大きく重い溜め息を漏らす。セツがそちらに目をやると、カジガ婆は呆れたような顔を向けてきた。
「相変わらず、嘘が下手くそな娘だねぇ……」
ドクンとセツの心臓が跳ね上がる。セツが女の子を助けようとしていることは、とっくにお見通しのようだった。
「べ、別にいいじゃん! だって子どもだよ⁉ この子の命くらい見逃したって、春は呼べるじゃん!」
セツは女の子を庇うように手を広げ、カジガ婆の前に立つ。カジガ婆は近付くでもなく、左右を行ったり来たりしながらセツに語りかける。
「情が湧いたのかい? それとも魔が差したか? どっちにせよ、お前がやろうとしていることは、全然無意味な事だよ」
ピシッと、そこに生えていた柊の幹をカジガ婆が杖で打つ。木の皮が弾けて、雪の上に落ちた。
「その子を見逃したら、その子の代わりの命を刈り取らなきゃいけない……元は等しく価値を持つ命を、お前は何に宿っているかで差別するつもりかい?」
「それは……」
反論しようとする口を塞ぐように、灰色の風がセツとカジガ婆の間に吹き抜ける。
「お願い……この子を殺さないで……」
セツは懇願するように、カジガ婆の目を見つめる。風の向こうで、カジガ婆は冷たい眼をセツに向けていた。
「しょうがないねぇ……」
風が去ると、カジガ婆の口から少し柔らかい声が漏れた。
「前にわしのところで働いてた雪の精霊たちの中にも、人間の子どもだとか、子ウサギだとかを見逃してやったやつがいる。もちろん、わしも何度かそうしたことがある。良くないって解ってても、そうせずにはいられない。何でかねぇ……」
自分を戒めるように、カジガ婆は自らの尻を杖で叩く。
「まぁ、お前の気持ちはよく解るさ。人間も他の獣も、そしてわしら精霊や妖魔の類も、不合理な情が湧いちまう時がある。でもね、必ずどこかでその埋め合わせをしないといけないんだよ。死すべき命が死ななかったら、別の命が死ぬのさ……」
ゆっくりと歩み寄り、カジガ婆の骨と皮のような手がセツの肩へ伸びる。逃れようと引くセツの肩を、カジガ婆の手が捕まえる。細い指が肩の肉に食い込み、鈍い痛みを感じた。
灰色に濁った瞳が、セツの顔にぐっと近づく。セツはその威圧感に押しつぶされて、声が喉に詰まった。
黄ばんだ歯をむき出して、カジガ婆は強い語調で言い放つ。
「今日のところは見逃してやってもいいよ。けど、次はないからね……」
肩から手が離れたと思えば、カジガ婆は風に変化してどこかへ消えてしまった。カジガ婆がいなくなったからか、吹雪は収まっている。上を見上げれば、雲の間から青い星が覗いていた。
急に力が抜けて、セツはその場にすとんと座り込む。横に目を向けると、雪の下で女の子がもぞもぞと動いていた。セツは「まだ暗いから、寝てなさい」と囁き、女の子にかかった雪を払ってやる。そして、ヒョウガとギンガに指示を出して、女の子の身体を挟むように寝そべらせた。
丘の向こうからは、シンとレイが交わす会話が聴こえてくる。
「大分集まったね……」
「でもまだまだだよ」
「そうだね。けど、疲れたから今日はもう休もう」
シンとレイの会話はどんどん遠くなっていき、やがて風の中に消えていった。二人は西の山脈に帰ったらしい。
それからセツは、朝まで女の子の側を離れなかった。マントの上から身体をさすり、時々息をしているのを確かめながら、東の空が明るくなるのを待つ。
何時間そうしていただろうか? セツが気付いた時には、星空と地平線の隙間から琥珀色の火が燃え上がっていた。星々は西の方へ追いやられていき、辺りを暖かな朝日が照らす。
「もう大丈夫だよ。おはよう」
セツが女の子に顔を近づけて囁くと、女の子はわずかに呻いてマントを掻き寄せる。まだ眠いらしい。
不意に、雪ノ尾たちが立ち上がり、首を伸ばして道の先を見据える。セツもそちらに目を向けると、毛皮のコートを着た男の人が、しきりに誰かの名前を呼びながら歩いてきた。
「ソレーヌ! 返事をしてくれ!」
その声に気付いたのか、女の子がゆっくりと身体を地面から起こす。かすれたような声で、「父ちゃん?」と言うのがセツにも解った。
セツはもう大丈夫だと思って、雪ノ尾たちと一緒にその場から立ち去る。少し名残惜しい気もしたが、これ以上この女の子に関わらない方が良いだろう。セツは振り返りたいのを堪え、村とは反対の方へ雪ノ尾を駆けさせる。
後ろからは、再会を喜ぶ親子の声が聴こえてきた。
「無事でよかった!」
「あのね父ちゃん、知らないおねえちゃんの声が聴こえたの。『雪に埋まって寝てなさい』って言ってた」
「それはきっと、スノウ・リーパーの声だよ。ソレーヌはまだ子どもだから、見逃してくれたんだ……」
――終――
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