第二膳回答【カレーの冷めない距離】
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「あの、これ……おみあげ、です」
テーブルに着くよう促すと、少年は小さな手に握った花をおずおずと差し出してきた。
「人のお庭から採ったんじゃないよ。それはダメって、前に志乃ちゃんに教わったの。だから道とかに咲いてたのを摘んできたの」
少年の瞳が俄かに不安げな色を帯び、声が萎む。
「……おかしかったかな。お使いの帰りに摘んだお花をあげたら、志乃ちゃんは喜んでくれた……」
わたしは我知らず微笑んでいたらしい。「おみあげ」という言い回しや小さな手に握られた素朴な花束が、あまりに可愛らしかったのだ。
「ちっともおかしくなんかないよ。嬉しくて笑ったんだ。先週のお礼なんだね?」
花束を受け取ると、少年は「うん」と頷いてダイニングチェアによじ登って座った。
わたしは少し迷って、タンブラーグラスを手に取った。水を注いで花束を挿し、テーブルの真ん中へ。
うん。野趣溢れる花束には、やはりこのシンプルなグラスが似合う。
「ありがとう。すごく綺麗だ。部屋の中が明るくなるよ」
「……どういたしまして」
少年ははにかんで下を向いてしまったが、喜びが全身から溢れている。もし尻尾でもあったらブンブン振っていそうだが、今日のところはまだ耳も尻尾も出していない。見たところ4〜5歳程度、ふわふわの癖毛で色素の薄い普通の男の子。
先週、お茶漬けをたっぷり食べてよく眠ったおかげで力が戻り、ヒトの形を維持できているのだろう。夜の間に作った特製お稲荷さんも、帰りに無理やり持たせたしな。
「さて、カレーを温め直すのに少し時間がかかる。その間に、お互い自己紹介しよう。先週はご飯食べたら寝ちゃって、起きたと思ったらすぐに帰っちゃっただろう?ほら、サラダでも食べながらさ」
水菜と薄切りのラディッシュ、カリカリに焼いた細切り油揚げをおろしドレッシングで和えたサラダを、テーブルに並べる。
少年はサラダよりカレーの方が気になるようで、しきりにキッチンの方へ視線を向ける。だが、甘やかすわけにはいかない。狐だって成長期、雑食なのだから偏りなく食べた方がいいだろう。
小ぶりのガラスボウルをコツコツと指で弾いてみせる。
「このサラダ、油揚げ入ってるよ」
また、耳がピンと立った。「なら、食べる」と言う顔でフォークを取り、サラダをバリバリ食べ始めた。やっぱり油揚げには目がないんだな。
髪の下でピコピコと耳を揺らしご機嫌に食べる様子を眺めながら、わたしはカウンターにIHコンロをセットし、カレーの大きな鍋を温め直す。
🍻
少年の名は「テン」といった。
兄弟狐とはぐれて行き倒れていたところを、志乃という少女の神様に救われたらしい。彼女が彼を『テン』と名付け、「狐は街では駆除されてしまうから」と人の姿を与えて可愛がってくれたのだという。
となると、狐を人に
「グゥぅ〜、ぐギュルルる」
凄まじい音がして、わたしは思考の中断を余儀なくされた。
空になったサラダボウルを前に、カレースプーンを握りしめて今にもよだれを垂らしそうな少年がこちらを見つめ、椅子の下では足がバッテンの形でソワソワと揺れている。
無理もない。程よく温まったカレーが、えも言われぬ芳香を撒き散らしているのだ。今この部屋は、旨味の王国、スパイスの楽園。
オリーブオイルとバターで飴色に炒めた玉ねぎ、小さめに切ったにんじんとあえて大きさを不揃いにしたじゃがいもが、数種類のスパイスを効かせたスープに程よく煮溶け甘い香りを放つ。
カレー粉で下味をつけてカリッと焼いた大ぶりの牛スネ肉が豪快にフランベされ、赤ワインをたっぷり纏ってゴロゴロと投入。鍋の中で野菜エキスと絡み合い芳醇な味わいを醸し出している。
各種スパイスと二種類のカレールウの黄金比率でそれらをまとめ上げた、究極のカレーシチュー。
セロリ、にんじん、ハーブソーセージを甘めにマリネした、福神漬けがわりの小皿を添えて、固めに炊き上げた押麦ご飯とカレーをよそう。
野の花を活けたグラスを挟んで向かい合わせに座り手を合わせると、テンも「あっ」という顔をして急いで手を合わせた。
声を揃えて、「いただきます」。
ちゃんと自分でスプーンを握り、ふーふーして、ぱくり。
その瞬間、ふわふわの明るい髪の下からもふもふの耳がピョコンと立ち、ダブダブハーフパンツの裾から太い尻尾がボムっと現れた。
「なにこれ美味しーい!」
大きく掬って、もう一口。
「あっふ! あれ、あっ、からぁい!」
旨味の後から辛さが来たらしい。普段より辛さをだいぶ抑えて作ったけれど、やはり初めてのカレーは刺激が強かったみたいだ。尻尾がブワッと膨らんでいる。
花のグラスに手を伸ばすのでその手を止め、急いで麦茶を持ってきてやる。ごくごくと麦茶を飲んで、また一口。目を潤ませながらも美味しそうに、ふーふーもりもり食べている。
うんうん。スパイスは効いてるけど、辛味はマイルド。舌の上でとろける野菜の甘み。よく煮込まれた牛スネ肉の筋肉繊維が口の中でほろりと崩れ、スジの部分はプリプリとろりと蕩け、力強い味わいだ。固形ルウを極力減らし、足りないとろみは溶けたじゃがいもで程よく補われている。旨味とコクは濃厚だが油分が少ないため、いくらでも食べられそうだ。
カレーは飲み物、なんて言葉が一時期流行ったけれど、ほんとにそんな感じ。口直しのマリネに手をつけるまでもなく、あっという間に一皿平らげてしまった。
テンは自分でもびっくりしたみたいに、不思議そうに空の器を眺めている。
なんで「あれ? なくなっちゃったよ?」みたいな顔してるんだよ。君が食べたんだよ、それ。
空になったカレー皿をそーっとこっちへ押して寄越す姿が微笑ましい。
「テン、美味かったか」
「うん!」
「おかわり、いる?」
「うんっ!」
🍻
今日も風呂に入って泊まっていけと誘ったが、テンは
この間はうっかり寝落ちしてしまったけれど、自分はもう大丈夫。今日だって本当は、お礼を言いにきただけなんだ。
テンは辿々しい口振りでそう言って、帰り支度を始めた。
たしかに先週は、3杯目のお茶漬けを食べ終える頃にうつらうつらとし始めたので、仕方なく抱きかかえて風呂場へ運び、シャワーで全身洗ってやったのだった。温かいお湯を初めて浴びたテンはすっかり夢見心地になり、狐の姿に戻っていた。寝ぼけてぐらぐらする体を支えてシャンプーし、ドライヤーで乾かしているうちに熟睡。
早朝に目覚めたテンは体力気力ともに充分回復し、無事人間の姿になって帰っていったのだ。
だがテンは、わたしの一言でピタリと足を止めた。
「あのカレー、明日になったらもっと美味しくなるんだけどな…」
足を踏み出した格好のまま、動けなくなっている。よく見るとぷるぷる震えているみたいだ。さらに美味しい明日のカレーと、志乃の帰りを待つ気持ちの間で揺れ動いている。
「……じゃあ今日は、お風呂だけ入って帰りなよ。明日の朝、あっためたカレーを持っていってあげる。それで、どう?」
「いいのっ?!」
固まった姿勢からピョーンとひとっ飛び、わたしの足元にしゃがみ込んでパンツの裾を掴み金色の瞳をキラキラさせてみあげてくる。耳と尻尾はかろうじてしまっているけれど、行動はすっかり狐のそれだった。
「もっと美味しいカレー、あした食べる!」
「よし。テンのおうちは、先週声をかけたあの場所のそばなんだよね。あの距離なら、冷めないうちに食べられる。一緒に食べよう」
「うん!」
「じゃあ、お風呂入っておいで」
「うん!」
なんだかんだ言って、お風呂も気に入ったらしい。
テンのために買っておいた着替えを用意し、わたしも風呂へ向かった。裸の付き合いというやつで、テンとの距離ももっと縮まるかもしれない。
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