みうとうみ

次郎七式

第1話

やることがない時、ベランダに出てボーッとするようになったのは、この田舎町で過ごすようになってからだ。



空を仰ぐと満点の星空。そこに俺の白い息が混じるが、それはすぐに消えてしまう。濃紺の画用紙に眩い砂金を大量に散りばめたような、そんな夜空を初めて見たのは、今から1年とちょっと前のことで、その時の俺は美しいと感じるよりも怖いと感じた。星の数があまりにも多すぎて、空に吸い込まれてしまいそうだと錯覚して、柵を強く握ったものだ。



実家の方もそこそこ田舎だったが、近くにある街の明かりが強かったせいか、星は見えるものの空は僅かに白んでおり、細かな星は見えなかった。だがここは違う。



『秋鳴り』は都会から遠く離れた真の田舎であり、夜になると明かりがほとんどない。だから文字通り満点の星空になるのだ。1粒1粒がはっきりとしており、それぞれがギラギラと輝いている。今日は新月だから月はないが、あったら大変眩しい。地上よりも賑やかに思えてしまう。



「とはいえ、今も充分に眩しい。眩しいというよりうるさい……」



呟くとまた白い息が空に溶けた。4月も中旬になったが、夜はまだまだ寒い。遠くに見える秋鳴り山から降りてくる冷気のせいもあるが、今夜は風が強い。すぐ後ろの窓硝子がガタガタと音を立てている。風は強いが流れてくる雲はない。だから空に動きはなく、次第に退屈になってくる。それでもベランダで空を仰いでいるのは、他にやることがないからだ。



晩飯は食べたし宿題も済ませた。洗濯は週末にまとめて行うので今日は必要ない。風呂はさっき入りに行ったし明日の支度だって完璧だ。後は寝るだけだ。独り暮らしの六畳間にテレビはないが、ラジオはある。だがラジオにかじり付いてそれだけを堪能するのは窮屈だ。



暇潰し用の書籍は全て読んでしまったし、同じものを二度読むつもりはない。漫画やゲームは我が家にはない。やることがない。だからといってこのまま横になるのはなんだか勿体ない。故にこうしてボーッとしているのだ。



川があって山があって、人口は少なくて自然が多い。そんな秋鳴りの在り方は俺の性に合っていた。



ここで過ごした1年とちょっとは退屈だと思うことはあったが、苦痛と感じたことは一度もなかった。だからこのまま今夜も退屈な時間が過ぎていくんだろう。そう思っていた。



そんな俺の考えは、左目が映す非現実的存在によって音を立てて崩れた。我が目を疑うという言葉はこの時のためにあるのだろう。だが、今の俺の左目が嘘を吐くことは決してない。それは自分が一番知っていた。なのに、嘘だと思ってしまった。ありえないとも思った。



時刻は午後11時40分。遠くにそびえる秋鳴り山。その遥か上空を少女が飛んでいたのだ。一対の、青白い大きな翼を輝かせて。星の海を泳ぐように。翼と同色の長髪をなびかせて。



俺は彼女から目を離すことが出来なかった。当然だ。人が空を飛んでいるのだから。足で地面を歩くことが常識のこの世界で。テレビや漫画に出てくるような超能力を、物語だからと区別して、それでも心のどこかであったらいいなと願うこの世の中で。今まさに物語のような光景を目にしている。目を離せと言われても無理な話だ。



これは夢だろうか?彼女は一体何者なのだろう?人間に翼はない。だとしたら彼女は天使なのだろうか?天使。だが彼女の頭上に輪っかはなかった。天使でなければなんなんだ?胸以外は華奢な体。どことなく不機嫌そうな整った顔。腰までありそうな長髪。街を歩けば注目の的になりそうな、とびっきりの美少女。いや、それだけなら人間の範疇に全然おさまる。そう、翼さえなければ。



情報が激しく脳内を駆け巡るのに対して、体の方はピクリとも動かせなかった。それほどまでに左目に映る少女が衝撃的で、美しくて、目が離せなかった。



やがて少女は空を蹴って上昇すると、綺麗な宙返りを決め、そのまま秋鳴り山を超えて飛び去っていた。俺は少女を限界まで目で追い、見えなくなったところでこう思った。



やはり夢だったのだろうか?いや、夢なわけがない。夜空を飛翔する少女。翼の生えた少女。夢でも、まして見間違いでもない、紛れもない現実だ。何故なら俺は夢を見ることが出来ないから。生まれてから一度も夢を見たことがないから。形は違えど、俺も非現実的な存在だから。



その後、俺は寝ずにベランダで過ごした。もしかしたら少女をもう一度見ることが出来るかもしれないと思ったからだ。しかし、そんなことはなくて、夜は強風と共に明けていった。

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