駅のプラットフォームで、黄色い線の外側を平然と踏み越えていくような、危ういあなた

押田桧凪

第1話

 黄色い世界。

 そこには何にもなくて、いや何にも見えないと言った方が良いのかもしれない。その黄色い景色は遠くまでずっと続いているような気がして、もう歩くのがつらくなった。別におなかは減ってないが、ただずっと歩き続けて、枷を付けたように重い足を引き摺ることが。それから、時間感覚の狂った朦朧とした意識の中で、ただ目の前にある黄色い景色を見ながら歩くことが、つらいのだ。

 からだじゅうを伝う汗を感じる。でも別に暑いなんて言う感覚はどこにもなくて、なんで汗を流しているのかも、もう分からない。ぼんやりとしているのが景色なのか、それとも自分の視界が狭窄しているだけなのか、区別もつかないでいる。

 黄色い世界。

 それから、それから。


 ──震震震。

 ふるえる。ドタンッ、ダンダン。この音が朝のはじまり。


 ……ああ、悪い夢をみた。

 背筋に冷たいものがぞっと滑り落ちた感じ。すこし気分が悪いし、波打つような頭痛が微かにする。そして夢を追体験したかのように体の節々が痛む。少しストレッチでもしようかな。緊張した筋肉を和らげようと、ひとつ伸びをする。


 ダンドン、ダンダン。

 溌剌とした声のちびっ子たちが騒ぐのと同時に、足踏みをする小刻みの振動がこうやって響くのはいつものことだ。いま住んでいるこの集合住宅は、薄い壁で仕切られただけの簡素な造りだから、特に珍しいことではない。上、そして横の部屋から響く、生活音にはいつしか慣れてしまった。


 狭い部屋で母との二人暮らし。別に居心地は悪くない。時折饐えた匂いが何処からともなくするが、年季が入っていると思えば、私にとって、やんわりと受け流せるぐらいの不満でしかなかった。そんな一室でつましく、密かに暮らしている。


「リシェ、ちょっと朝ご飯の支度を手伝ってくれない」

 

 サラダのプレートを盛り付ける作業をしている最中のお母さんは振り向いて、キッチンの奥から、私の方に顔を出した。にこやかな笑顔を浮かべている。


「あら、どうしたの顔色が悪いわね」

 心配そうに首を傾げて、私の顔を覗き込むようにして言った。


「ああーやっぱり分かる? なんだか少し悪い夢を見て」


 私は静かに、曖昧に頷いた。


「はあどんな夢かしらねえ」


「そうねぼんやりと浮かんできた景色の中で、何か。あっ、そう……。黄色い線が見えたような気がして。それがなんだか怖くて。すごく疲れた気がしたの」


「フフ。まあそんなこと、随分と鮮明に思い出せるわね。でも。なんだか似てるわね、あれと」


 急にお母さんは神妙な面持ちになって、ふっと息を吐いた。


「なあに、お母さん?」


 はぐらかすかのように笑った後、唐突に言った。

「フフ、いやいやそんな大したことじゃないんだけどね。おじいちゃんの話だよ。亡くなる前に言った言葉でね……」


 うつむきがちな目線でぽつりと呟き、物憂げな笑みを浮かべている。なんだか含みのある、持って回った言い方だ。それにどうしたんだろう、おじいちゃんの話を、いきなりしだすなんて。


 △ ▼ △ ▼


 私たちの国は女性社会だ。それは世界では珍しい、と何かの本に書いてあった気がする。国の政策として代々、種の繁栄のために男は女に養われ、「道具」として扱われている。その後、「用済み」になったものから順に、家から追い出すことになっているのだ。

 だから、私はお父さんの顔を知らない。生まれたときには、もうこの家には居ないわけで、会ったこともないのだ。

 昔聞いた話では、おじいちゃんはどうやらそれとは違ったらしい。これは、今まで一度も私から尋ねたことがないが何か秘密があるのだろう、と思っていた。いつもお母さんが腫れ物を避けるようにして、触れることがなかった話だ。


 △ ▼ △ ▼


 キッチンからバターの香ばしさがふっと鼻を掠めた。どこか妙な落ち着きをまとった声で、語りかけるようにお母さんは話を進める。


「もともとおじいちゃんはねえ。持病があって。普通の食事は喉を通らなかったものだから、満足に食べられる体じゃなかった。この家を出てから生きていけるようなもんじゃなかったからねえ。私のお母さんはお人好しだったからさ、おじいちゃんを人知れず引き取って、匿っていたんだよ。このアパートの住民にもバレないようにね。

 死期が近づいてきた頃だろうかねえ。ある日、手紙も何もなく、ひっそりと消えていた。でも私とお母さんは悲しかった訳じゃなくてね。いつかはこういう日が来るんだと思って心の準備はしていたんだけど。でもね、それからしばらくしてコンコンとノックがして、帰ってきたんだと、すぐに様子を見に行くと。青褪めて、痩せこけた顔で家に帰り着いた途端、おじいちゃんは倒れ尽きた。その時、ちょうどその時。こと切れる前に最後にもらした言葉が。『黄色い線を越えてはならん』とかいう言葉だった気がするわ。何か意味があるのかもねと思って、それだけは覚えているんだけど何のことを言っているのかはずっとわからなくて、気がかりだったのよね。リシェが夢のことを言い出すから、何か関係があるんじゃないかと思ってね、話しただけだよ、ハハ」


 そう言うが、深く気に留める様子を見せず、話の接ぎ穂をさっと刈り取るように、お母さんは私の手を取って、食卓へと足早に向かう。


「さあさ、話はおしまいだよ。朝ご飯にしようかね、今日はお魚だよ。お隣さんから貰ったもんでさ。最近は川が汚れててねえ、流れ着いた魚も毒されて食べれないことが多いって聞くから。貴重だねぇ」


 ──わぁ。そう喜ぶような声を上げようとするも、先程のことが気になって自分自身の声がどこか虚ろで、掠れた感じになった。


 もう、いいや、こんなこと忘れよう。目の前のご飯だけに集中、集中。

 いただきまぁす。


 △ ▼ △ ▼


 それから何年かと経ったある日のこと。


 玄関で、私は彼に声をかける。

「アルト、気をつけてね。私は──好きだった。あなたのこと、忘れない。忘れないから」


 うん。

 うん。


 頷きあう。そして、口を噤み、お互いに見つめ合う。これ以上何を言っても、自分の声が懇願するような響きを持って、行かないでと、透かしたように聞こえるから。何も言わないことが何よりのはなむけだろう、と思った。

 寂しげに微笑みながら頷く彼を、一生忘れたくないと思った。


 △ ▼ △ ▼


 リシェから別れ際、貰ったアクセサリーを、無くさないよう再度カバンに入れたことを確認する。


 気持ちのよい、外の空気をめいっぱい吸い込み、ゆっくりと吐き出す。後ろを振り返り、何処までも続く、歩いてきた跡を見やる。

 結構、遠くまできたなぁ、とひとつ息をつく。


 すると、突然──風が、荒れた。この空間に散らばっている、縦横無尽に張り巡らされた空気の糸のような何かが、ぷちん、と切れたのを感じ取った。野性の勘のようなものに突き動かされて、咄嗟に身を引くと、やはりその直後。一陣の風が、唸りを上げながらやってきた。ごうごう。ごごごごご。


 これは、……台風か?

 台風は人生の中でまだ二回ぐらいしか体験したことがない。いつも家に篭もりっぱなしだったから。たしか雨季が明けた頃にやってくる、ような。あれ、時期が合わない。


 すると、今度は砂埃を高く、巻き上げながら、大木をなぎ倒すような轟音と共にゆっくりと何かが近づいてくる。


 黄色い世界。

 見えない、あぁなんだか見えなくなってきた。目は、開けているはずなんだが。風に押し出された、黄色い砂が辺り一面を包み込む。

 前に進もうとするも、景色がくるくる回っているようで、なんだかくらくらしてきた。


 遠くに目をやる。巨大な、視界に収められないくらいの大きな鉄槌のようなものが、振り下ろされ、ぐわん、と地面を震わせた。


 おい、あそこは。リシェたちの住んでいる所じゃ、なかっただろうか。ああ。


 また、くる。何度も。激しい揺れに耐えようと、地に這いつくばった状態を懸命に維持する。


 ──なんだかぼんやりとしてきた。

 視界が、暗転する。


 △ ▼ △ ▼


 子どもたちは今日も飛び跳ねたり、きゃっきゃ笑いながら、遊んでいる。

 中途半端な純粋さを持ち合わせているが故に、子どもはときに残酷だ。


「うりゃー」

 手をシャベルのようにして、土を掻き出す。幾度も。地中に掘られた穴を、全部盛り返そうとして、一気に手を突っ込む。


「おいおい、あんまやりすぎんだよ。指を伝って、噛まれるからな」


「へーい」

「はーい」


「あっここにもいるよ。1匹だけ」

「どうしてだろうね」


「そいつぁ、はぐれたやつかなー? よし、じゃあこれ使おうぜ。じゃーん。チョーク〜!」


「え? チョーク? 学校で使うやつ? それどうやって使うの?」


「こいつを、この黄色いチョークで囲んで、っと。チョークの粉の成分が効くらしい、ははっ」


「うわぁ、くるくる回り出したあ」

「おもしろーい」


「え。この線を超えられないの? あはは」

「ほんとだー」


「そう、こいつはこの線を越えられないんだよ。このアリは」

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