『エージェントは異世界で躍動する!』

琥珀 大和

現代編 Extra Mission 「Lucifer's Hammer」

悪魔の鉄槌ルシファーズハンマー


近年において、世界中の諜報機関を最も震撼させた事件は、やがてそう呼ばれることになった。


この事件は公にはされておらず、その内容を知る者は世界各国の暗部において他はない。


そして、この事件において唯一現場からの帰還を確認されている者こそが、この凄惨な事件を巻き起こした当事者であることに間違いはなかった。


後に、世界中で暗躍するエージェントの頂点に立つ男。


コードネーム"ザ・ワン"その人である。




アジアの一角。


その高原で監視を続けて3時間が経過していた。


周囲は低木で囲まれているが、毒蛇の一大発生地帯であるために、人が足を踏み入れる心配は少ない。


この辺りはクサリヘビ系が数多く生息しているが、それに対応する抗毒血清と忌避剤によって対策をしていた。


チャンスはいつ訪れるかわからない。


雑念を排除し、同じ体勢による苦痛をわずかな身動ぎで緩和させる。


本来なら、ここにいるのは職業的スナイパーであるはずだった。


軍人なのか、フリーの専門職なのか、もしくは組織の一員なのかはわからないが、ちょっとした手違いにより俺の任務内容が変更になってしまったのだ。


「エージェント・ワン。今回は君に最後までやってもらうことになった。」


そのメッセージが届いたことにより、この国での滞在が延長されることになった。


1500メートルの長距離狙撃が可能なら、今回の任務を遂行することは難しくないだろう。


器用貧乏は損をする。


それが唯一の感想だ。


もっと遠距離からの狙撃でしか対応ができないという状況ならば、俺はここにはいないはずだった。


世界的に公表されている長距離狙撃の記録は、某国の軍隊に所属する兵士の3540メートル。


非公表のものなら4000メートルには到達しているかもしれない。


残念ながら、俺にそこまでの技量はない。


そもそも、俺は職業的スナイパーではない。


今回の任務は標的の調査を行い、狙撃地点を決めること。ただ、それだけのはずだった。


狙撃自体にはそれほどの障害はない。だが、問題はその後の脱出に関してである。


ここは東南アジア。


かつては、黄金の三角地帯と呼ばれていた地域だ。


麻薬の原料であるケシの栽培が盛んで紛争も絶えず、現代社会から取り残されたともいえる場所。


20年ほど前から政府が取り組んでいる麻薬撲滅計画の成果で、最近ではケシの生産量も最盛期の25%程度まで減少した。


しかし、武装勢力が統治している地域では未だにケシの栽培は盛んであり、また新たな問題も発生している。


一部の地元勢力が国際的な組織と手を組み、化学原料から産み出される覚醒剤を始めとした合成麻薬が製造され、世界各国に密輸されているのだ。


俺の今回の任務は、その国際的な組織との仲介役である人物と、それを抹消するタイミング及び場所の特定を行うことだった。


その任務についてはそれほど難しいものではなく、対象者を絞りこむ過程が終わった後は、現地で政府が契約した農業コンサルタントに扮して調査を行うだけで済んだのだ。


因みに、ケシが育つ環境はコーヒーのそれと酷似している。


ケシを栽培している農家は、武装勢力や国際的な組織とは直接関係のない者たちばかりだ。


彼らは生きる手段としてケシを栽培しているのだから、それに代わる農作物を提案しなければ、仮に政府がケシ栽培を禁止したところで、生活の糧を失い路頭に迷ってしまうのだ。


そういった状況だからこそ、海外からの入国者でも農業コンサルタントはあまり危険視されることがない存在といえた。


また、コーヒー栽培を担当するだけに日系ブラジル人に扮装しているのだが、麻薬問題に揺れるブラジル本国の籍ではなく、日本国籍を持つ日本人として入国している。


こういった人物像を持つことは、敵勢力からの不要な疑いをそらす効果を十全に発揮する。


政府内で情報漏洩し、武装勢力に農業コンサルタントが偽りの身分ではないかと疑われたとしても、日本人という肩書きはその猜疑心を最小限に抑える効果を持っているのだ。


真面目で礼儀正しく、優柔不断で騙しやすい。


それが、この辺りの地域における日本人への印象だったりするからだ。




バリバリバリというヘリのローター音が遠くから鳴り響いた。


既に日は落ちて辺りは薄暗い。


宵闇が迫る時間帯。


正体を隠している人物が降り立つには最適なタイミングだ。


標的の正体はすでにわかっている。


世界的にも大国と言われる政府の高官。


それが国絡みで動いているのか、個人的なものなのかはわからない。


任務としては、その者の排除のみしか聞かされていない。


こういった背景を無駄に詮索することはしない。


無闇に知ろうとすれば、属している組織が何らかの疑いを持つだろう。


それが俺のいる世界の暗黙のルールである。




スコープで標的を捕捉する。


この国では最新鋭のスナイパーライフルを調達することは難しい。


所持しているのはSteyr SSG69。40年以上前に開発されたオーストリア製だ。


設計は古いが命中精度は高く、世界の軍警察の一部や国際的な射撃大会でも未だ現役のモデルである。


ターン!


小気味良い音が響き渡る。


標的の頭部に着弾するのを確認した。


間をあけず、手もとにあるリモコンのスイッチを押す。


同時に敵拠点の数ヵ所で爆発が起こった。 あらかじめ仕掛けておいたC4爆弾だが、通信障害措置ジャミングをとられる前に起爆させることができたようだ。


狙撃の成功は人工衛星からの監視で目の当たりにしただろう。


これで任務は完了。


あとは派手な混乱を起こし、それに乗じてここを抜け出すだけだった。




成田空港に到着した。


普段から拠点としているアメリカに戻りたいところだったのだが、任地からの直行便がなかったのだ。


偽装通りに帰国したという体裁を保てることもあるので無駄ではないのだが、職務のことを考えるとあまり立ち寄りたい国ではなかった。


日本が嫌いだというわけではない。


顔見知りに出くわすと、いろいろと面倒だったりするからだ。


今の組織に移される前は、この国の国防を担っていた。国際空港というのは、その時の元同僚であったり、かつての敵対勢力と出くわす危険がないともいえない場所だ。


偶然の出会いなら確率は低いものだろう。


しかし、俺のような職務なら邂逅ではなく必然的な出会い···要するに、意図的に仕組まれた偶然というものが発生したりする。 今回は運の悪いことに、それに遭遇することとなった。


「久しぶりだな。」


「···できれば、違う形で再会をしたかったものだ。」


税関で止められて今いる部屋に連行された。


空港警察による取り調べ。


そう思っていたのだが、目の前にいる男とは面識があった。


「そう言うな。今は互いにデリケートな立場にいる。」


彼は大学、そして最初に就職した機関の同期だった。


「要件は?」


この場で友情を確かめあうなんてことにはならない。


彼の今の所属は国の情報機関である。内閣情報調査室と呼ばれ、日本版CIAとも称されている。


「君が今どういう立場にあるのかは知っている。久しく日本には足を踏み入れていなかったようだが、今回の来日は何のためなのかに興味がある。」


俺の今の所属は国外に拠点を置いている。


複数の国が出資し、独自の運営がなされた組織である。普段から敵対しているという訳ではないが、ある意味でライバル企業のようなものに相当するといえた。


「どの国から来たのか知っているのだろう?目的は話さなくても把握していると思うがな。」


渡航記録を手繰ればすぐにわかることだ。


もちろん、偽造パスポートであることも含めてのことだが。


「···そうだな。一応、忠告だけしておこう。すぐにこの国を出ろ。でなければ、くだらない理由で逮捕されることになる。」


「わかっている。荷物に航空券チケットが入っているのを確認していると思うが、午後の便で発つ予定だ。」


彼と交わした会話はそれだけだった。


何のために拘束したのか解せない点が多いが、それ以上に何かを追及されることはなかった。




およそ12時間半のフライトでJFK空港に到着した。


荷物をピックアップし、エアリンクシャトルと呼ばれる乗合バスに乗車した。


拠点として使っているマンハッタンの住居までは1時間半くらいの運行になる。


普段はこんなものには乗らないが今回は事情があった。


空港からの尾行がないかどうかの確認のためである。


任地からは何者かが追跡している様子などはなかったのだが、成田空港での出来事が慎重にさせたといえる。


なぜ、あのタイミングで彼が接触してきたのかがわからない。


用もないのに、わざわざ他の組織の人間を刺激するようなことはしないはずだ。


それなのに、なぜあのような真似をしたのか。


勘に触るものは何もない。


30分ほど経過したところで、ドライバーに停車の意思を伝えて降ろしてもらった。


タクシーのように好きなところで降車できるのがエアリンクシャトルの利点である。


俺はすぐに近づいてくるイエローキャブに手をあげて乗り換えた。


追跡されている様子はないといっても、慎重に行動することは無駄ではない。


特殊なスキルを持つ人間が、こちらが気づかない方法で動きを捕捉している可能性もあるのだ。




アパートメントに着き、荷物の整理をした時にそれに気がついた。


盗聴や追跡のための装置がないことは、成田を発つ前にスマートフォンに入っている解析アプリで確認していたのだが、さすがに想定外の物には反応するわけがない。


マイクロフィッシュと呼ばれるシート状のマイクロフィルムが、俺のバッグの内ポケットに入れられていたのだ。


マイクロフィッシュは、1枚のフィルムを碁盤のように分けて焼き付けられた極小のアナログ記憶媒体である。


しかも、専用の装置が必要になるコムフィッシュに分類されるものであることがわかった。


当然のことだが、このコムフィッシュは光に透かしただけでは記録されている内容などを読み取ることはできない。


これを有効にするためには組織のシステムを利用するか、警備の薄い図書館に忍び込むくらいしか方法が思い当たらなかった。


少し考えた末に、スマートフォンを取り出して記憶している番号を押すことにした。




任務後のルーチンとなっている健康診断を受けた。


体調管理の意味合いもあるが 、同時に違う意味で身体に異変がないかを調べられる。


任地で何らかのウィルスなどに感染した可能性はないか?


気づかないうちに身体に何かを埋め込まれた可能性はどうか?


脳波測定で精神に異常をきたす兆候はないか?


そういったことを調べられる。


これらはすべて、個人に対する福利厚生などではない。


簡単に言えば、俺たちが敵対組織の生物兵器として使われたり、裏切りや失踪の気配がないかを調べるためのものといえた。


俺の職務は公には存在しないものだ。


いや、俺という一個人がこの世には存在していないと言っても良かった。


戸籍はあるが当然実名ではないものが複数も存在し、国籍を持つ国も1つや2つではない。


たまに自分が何者だったのか、本当にわからなくなる時すらあるくらいだ。


それがこの職務に従事する上での常識というものだった。




医師の問診も終えた俺は検査施設のある部屋から出ようとしていた。


ここは病院ではない。


俺のような立場の者が、検査を受けるためだけに設けられた出向機関のようなものだった。


マンハッタンの一般的なオフィスビルの高層階。


そこは、所属している組織が貸し切っているとも聞いている。


検査施設は広大な面積の一角に過ぎない。他の空間が何に使われているかは知らないし、興味も持たなかった。


出口に向かうと、セキュリティのために二重になった自動ドアの間に2人の男女がいた。


1人は知っている顔だが、女性の方は初見のはずだ。


なぜここにいるのかという疑問がないわけではないが、突発的な任務や聴取が入ることは度々ある。


「やあ、こうして顔を合わせるのは久しぶりだな。」


任務の窓口となるフロントマン。


男の方は俺を担当しているジムという男だった。本名かどうかは知らない。


「直接会うというのは珍しいな。何か用か?」


素早く女性に目線を走らせて観察する。


戦闘力は皆無ともいえる所作。おそらくは、ジムの同僚といったところだろう。


「君がここに来ていると聞いたから、直接出向いてきた。紹介しておこう。今日から君の専属フロントとなるシャーリーだ。」


年齢はジムとあまり変わらないが、彼より切れ者といった感じだ。


「わざわざ出向いてくるということは、顔合わせだけというわけではなさそうだな。」


俺たちはフリーで動いている訳ではないが、正式な組織構成員という扱いではなかった。何かあれば、トカゲの尻尾と同じ扱いを受ける。


フロントは組織と俺たち···特別捜査官、スパイ、エージェントなどと呼ばれる立場の人間との橋渡し役といえた。


「そうね。早速だけど、少し時間をもらうわよ。」


シャーリーは挨拶すら省略して俺を他の部屋へと誘導した。


ジムはそのまま無言でそこに残り、すぐにエレベーターホールへと踵を返すのだった。




「用件が何かわかるかしら?」


無機質な個室に連れて行かれたと思ったら、いきなりそれだった。


まあ、無駄話をしたいわけではないし、コミュニケーションを深めるような相手ではないので特に問題はない。


同じ組織に属しているからといって仲間意識などはない。むしろ、情や信頼を持とうとする奴は早死にをするだろう。


ここはそういう職場だった。


「あのコムフィッシュのことだろう。」


それ以外に考えられなかった。


任務の事後確認なら通信で事が足りる。それに、このタイミングでフロントマンが変わる理由が他になかった。


「ええ。あれの出所については報告にある通りで間違いない?」


「それ以外の可能性はない。成田以外で、誰かに触られて気づかないほど鈍感ではないしな。」


「まあ、そうでしょうね。あなたの持つスキルなら、目を離した時以外には考えられない。」


俺は特殊なスキルを持っている。


他人の感情···特に悪意には敏感に反応する第六感のようなものを先天的に授かったといえる。


「そういうことだ。」


「仕組んだのは元同僚ね。それについては何か思うところはないの?」


コムフィッシュについては、遅滞なく組織に報告を入れて引き取ってもらっていた。


下手な騒動に巻き込まれるのはごめんだったからだ。


「何かの罠というわけでもないだろうし、あれをどうするかは俺の考えることではないと判断した。」


「友情とかそういったものはないのかしら。」


「ないな。任務なら動くが、それ以外のことに首を突っ込む気はない。」


「そう···ドライなのね。」


「感傷的ならエージェントとしては短い人生しか送れないだろうな。」


シャーリーが肩をすくめた。


ドライなのはお互い様だと言いたかったが、それこそ感傷的な振る舞いになる。


「死んだわ。」


「···それを打ち明けるということは、新しい任務ということか?」


「ええ。そのポーカーフェイスが少しでも崩れるなら他に回すつもりだったのだけれど、その必要はなさそう。」


シャーリーはそう言って、おれに新たな任務内容を告げるのだった。




タイガが去ってから1人で部屋に残ったシャーリーは、上席の者に通信を入れた。


「面談を行いましたが表面上は無関心でした。」


「表面上というのは何か気がかりでもあるのかね?」


「脳波測定で少し気になる結果が出ています。」


「君に任せよう。エージェント・ワンは優秀だ。強力なスキルを持っている訳ではないが、それを最大限に生かすことで失敗しない。それだけに使いやすいとも言える。」


「ええ、お任せください。」


通信を切ったシャーリーは、先程のタイガの様子を頭の中で反芻した。


「···声質の変化までは抑えきれていなかった。」


一見、無関心を装ってはいたが、声質の微妙な変化は微かだが感じられた。


脳波測定の結果とも矛盾しない揺らぎのようなものが、そこには確かに存在する。


「要···経過観察ね。」


フッと息を吐き、新しく担当することになった男のデータを頭の中に浮かべてみる。


今の職務についてわずか数年。


その短い期間で数々の任務をこなしている。


極めて難しいものもあれば、そうではないものもあるのだが、特筆すべきは単独任務において彼自身による失敗がないこと。


これは異例中の異例といえた。


プロフェッショナルとはいえ、彼らは人間である。


精神面の疲弊や体調の異変により、どれだけ優れた者でも任務の成功率は9割に届かない。


平均すれば70%半ばといったところのはずだ。


それを97.4%。本部やフロントのミスがあった事案をはぶけば、そのすべてを成功させている。


理由は、おそらく彼の持つ力のせいだろう。


スキルや超能力、ESPなどとも呼ばれているが、それを持つ人間は総称してホルダーと呼ばれている。


世界的に見ても稀有な力。


組織内では数える程しか存在しない。


一般的には透視や物への干渉、人間の精神へと影響を与えるものがメジャーとされているが、彼の持つ力は地味な部類に入る。


限られた距離でしか機能せず、どちらかといえば本人の防衛のためにしか役立たない。


能力やその強弱によってランク付けをされているが、彼の持つ能力である"ソート・ジャッジメント"は戦術クラスのBでしかなかった。


予知能力に近いものともいえるが、その真価は近接戦でしか発揮できない。


要するに、直接戦闘でしか役に立たないものといえるのだった。


ただ、その力のおかげで彼は何度も死地を乗り越えてきた。


これは任務の成功率を高水準で維持するためのスキルといえる。だが、組織が求めているのは相手の考えていることを読み取ったり、意のままに操れるような戦略級の能力だった。もちろん、そのような力を持つホルダーは相当にレアな存在ではある。


そういった意味合いでは実践的な彼の能力は秀逸ともいえるのだが、評価はそれほど高いものではなかった。


因みに、彼のコードネームである"ザ・ワン"は、これまでの実績から組織内の実質的エースとなったことと、世界的にも稀有な能力により名付けられたものであった。


「敵に回ったら、もっとも厄介なタイプ。」


シャーリーは今度は大きく息を吐き出し、こめかみに指をあてて目をつむった。




成田空港の男は斎藤という名前だった。


直接顔を会わせたのは卒業式以来かもしれない。


共に同じ機関に属する同僚という立場ではあったが、組織が複雑でそれ以降の接点はなかったはずだ。


友人と言えるほど親交を深めたことはないが、互いに実技の成績で競いあった仲である。


大学ではその性質上、訓練課程が設けられていた。戦闘訓練については俺が、小銃訓練については斎藤が共にトップの成績を維持していたのを憶えている。


その斎藤が命を落とした。


直前にコムフィッシュが俺のバッグに入れられたことは、それに関連したことだろう。


シャーリーと会ったその足で、俺は市内にある遺体安置所に赴いた。


斎藤は渡米した後に殺害されたらしく、その遺体はまだそこに収容されているそうだ。


なぜ、こちらに来たのか?


入国してすぐに殺害されたのはなぜか?


これまでの調査によると、彼はプライベートで入国したと記録されているらしい。


あのコムフィッシュの存在を知っている身としては、それが本当かどうなのかは判断がつかなかった。


斎藤が任務で渡米したのだとすると、あのコムフィッシュについては組織絡みの行動ということになる。


だが、俺を巻き込んでどうするつもりだったのか。


コムフィッシュに記録されていた内容には暗号がかかっていた。俺個人では、見ることはできても解読は難しいレベルのものだ。


それに同じような組織に属する者なら、協力依頼を個人にするのはタブーであると理解しているはずだ。


下手に関わると、自らの属している組織から粛清を受ける危険が孕んでいる。


彼は、なぜ···。


そこまで考えた時に事態は急進した。


案内された遺体安置所には先客がいたのだ。




「この度は、うちの斎藤が世話をかけたようだ。」


雰囲気からすると元自衛官だろう。


初老に差し掛かった年齢だが、身のこなしを見る限りまだまだ現役のようだ。


「単刀直入に聞きますが、敵対する意思はありますか?」


相手は日本の内閣情報調査室だ。 経緯はどうであれ、今の時点で協力体制にあるわけではない。


「誤解はしないで欲しい。我々は君と事を構える気はない。」


「私個人に対して、ということですか?」


普通なら、『君の組織』とでも言うはずだった。


「斎藤の行動はすべて独断によるものだ。彼が君に手渡した物も回収する意思はこちらにない。」


「··························。」


意図が読めなかった。


コムフィッシュの中身は、そちらの国にとってどうでも良い内容ではなかったはずだ。


「あれの中身は聞いているのかね?」


「ええ。」


「そうか。これは私の独り言だと思って聞いて欲しい。」


「··························。」


「斎藤には娘がいた。彼の娘は君と同じような能力を持っていた。そして、あれに記録されていた犠牲者の1人だ。」


コムフィッシュには、ある組織が行ったホルダーに対する人体実験についての記録が残っていた。 人道的にも容認されるべきではない実験だ。


「彼女はまだ2歳だった···。残念ながら、我が国には対処手段がない。斎藤は復讐のためにあのデータを持ち出して君に渡したのだと思う。」


「なぜ私に?」


聞くべきではないと思った。


しかし、無意識に口に出してしまっていた。


「君がそういう人間だと彼は思っていたのだろう。」


「···························。」


それ以上、会話を続けるのは危険だった。


俺はそのまま話を打ち切り、斎藤に会うことなく遺体安置所を出ることにした。




斎藤を直接死に至らしめたのは、彼のいた組織だと思った。


そして、それが彼の意図したものの可能性は高かった。


何らかの手段で成田空港に俺が立ち寄ることを知った斎藤は、コムフィッシュを持ち出して俺のバッグに入れた。


おそらく、最初から俺を巻き込むつもりだったのだろう。


彼のいた組織は、基本方針として国外での非合法活動を自粛していた。


あくまで、国防の一環としての性格が強い位置付けだからだ。それに反した場合、友好的だった国から圧力がかかってしまう。


仮に斎藤が独自で復讐に動いたとしても、海外でのバックアップは望めない。むしろ、敵を増やしてしまう可能性が考えられた。


だからこそ謀ったのだろう。


国の脅威を排除するという考えは組織的にもあったはずだ。結果的に斎藤と彼のいた組織が、互いに利用しあうことで同意したのではないかと思えた。


この国や俺の所属する組織に対しては、斎藤の命を絶つことでケジメをつけたという体裁が取れる。


あとは、情に絆された俺が何らかの行動に移り、コムフィッシュに記録されていることに結末を与えると考えたか···。


馬鹿なことを考えたものだ。


エージェントやスパイを相手に、情の押しつけなど何の意味もない。


斎藤の命を賭した謀。 他人にも、自分に関係のない組織にも利用されるつもりはない。


それなのに、彼はなぜ俺を選んだ···。


その理由が知りたかった。


駐車場の車に向かう途中で若い夫婦とすれ違う。


男性が抱きかかえた子供と目が合った。恥ずかしそうにチラチラとこちらを見ている。


2歳というとこれくらいだろうか?


子供のいない俺には正確にはわからない。


車のドアを開け、シートに体を沈める。


不意に何か堪えきれないものに襲われた。


悲しみ?


怒り?


それとも、別の感情か···。


そう思った瞬間、俺の頭の中でカチッという音がしたように感じた。




「裏が取れたわ。その組織は、ある国の諜報部が囲っている外郭組織よ。」


シャーリーと連絡をとり、遺体安置所の調査からわかった経緯と推測を伝えた。


「拠点はどこにある?」


「市内にあるわ。」


「そこが奴らの実験場という確証は?」


シャーリーはしばらく無言だった。


「···どうするつもりなの?」


「任務を続行する。」


「····························。」


「放っておくと、後の脅威になる。実地調査を行って、その結果によっては対応策を講じないといけないのではないのか?」


「あなた、誰?」


「誰とは?」


「さっき話した人間とは···別人のようよ。」


「声紋でも調べたらどうだ?」


「···························。」


「バックアップは要らない。不測の事態が生じたら連絡する。」


そう言って、俺は通信を終了させた。




「声紋解析に問題はありません。エージェント・ワン本人です。」


通信を切ったシャーリーは、部下に命じていた解析の結果を聞いた。


「音声感情解析はどうだった?」


「不思議なくらい何の反応もありませんでした。まるで機械が話しているような結果です。」


「何かの異常が起きた可能性は?」


「それはないでしょう。周波数分析も行いましたが、彼の肉声に違いありません。それに、脅されて話しているという反応も出ていません。」


「そう···。」


シャーリーは先ほどの通信に違和感を覚えた。


あまりにも感情の無さすぎる声質が、昼間に会ったエージェント・ワンと結びつかなかったのだ。


通信による弊害だろうか···。


過敏になりすぎるのは悪い癖だと、自分を戒めることにした。


エージェント・ワンのこれまでの行動を考えると、無謀なことはしないはずだ。


そう思いはするが、なぜか胸騒ぎがした。






タタタッ!


ベレッタM93Rが小気味良い音を奏でた。


マシンピストルというジャンルのオートマチック。世界には似たような銃が複数存在するが、個人的にはこのモデルが最も実用的だと考えている。


拳銃に連射機能を備えるとなると、その軽い銃身では反動を抑えることは難しく、どうしても前部取手ファグリップ銃床ストックを付ける必要に迫られる。


そんなものを付けてしまうぐらいなら、始めからサブマシンガンを所持すれば良いだけなのである。


ベレッタM93Rに関してはフルオートではなく拳銃の大きさで3連射を可能としているため、他のマシンピストルに比べて制御がしやすく、その火力も大きいものとなっていた。


ニューヨークは特に銃器に関しての規制が厳しい都市である。


街中で重火器や小銃を持ち歩くことは余計なリスクを背負うため、この銃を組織の武器庫から拝借して来ていた。


とは言え、過剰な火力は狙いの不安定さにつながるのは変わらない。


これまでの経験から、照準を下方に合わせながら目算で射ち放つ。


対象が倒れたのを確認すると、すぐに弾倉マガジンを交換して再装填リロードを行う。


すでにベレッタの餌食となった相手は30を超えており、周囲は鮮血で染まっていた。


侵入した施設内で実態についての補足調査を行った。


証拠となるデータだけを奪い、すぐに離脱するつもりだったのだが、発見した資料の内容を見て考えを改めることにした。


建物の地下にある施設に向かい、その状況を目の当たりにすると、その考えはさらに加速して俺の中で何かのタガが外れてしまったようだ。


記憶メディアや端末がある部屋については火を放つ。


実験用の器具や医療用の什器類には、揮発性のガスを用いて爆破を行った。


ここで見たデータは残してはならないものだと思った。


そのための行為だ。


残虐な行いではあるが、軍や組織にとっては有用性のあるデータ。それだけにたちが悪すぎた。


これが暗部といわれる組織に流れれば、同じ実験を繰り返される可能性は高い。それは、今後もホルダーと認定された者に地獄を与えることと等しい。


同じホルダーとして怒りに燃えたわけじゃない。


エージェントとしての責務を全うしているだけだ。


それが自分の任務を逸脱した行為に対する言い訳だと気づいていた。




壁の向こうに気配を感じた。


不思議なことに、その気配の次に至る行動が手に取るようにわかる。


これまでなら、俺のスキルであるソート・ジャッジメントが敵意を感知するだけだった。


しかし、今は相手の動きが予測できる。


タタタッ!


ドアに向けて発砲する。


気配が消えた。


新しい能力が芽生えたのだろうか。


そんなことをふと思ったが、今はどうでも良いことだった。


鈍い痛みが頭に走っている。


ホルダーの能力は、人の脳の限界点を突破するものだと聞いたことがある。


今の状態はソート・ジャッジメントが能力の限界を超えたものなのかもしれない。


そうであれば、脳が過負荷に悲鳴をあげているのだろう。


しかし、そんなことを気にしてはいられない。


斎藤の娘は薬剤を投与されて、脳に過剰な負荷を与えられて亡くなった。


わずか2歳の子供がだ。


脳の働きを活性化させるために射たれた薬剤は化学合成物。その効果は覚醒剤と何ら変わらない。


他にも犠牲になった人々は、わかる範囲だけでも数十人に達していた。


いずれも、脳に支障をきたして死亡している。


地下に囚われていた者は全員が脳死状態に陥っていた。


悪魔の所業としか思えなかった。


相手が悪魔なら俺も同じ悪魔になってやろう。悪魔が悪魔に鉄槌を下すのだ。


誰にも邪魔をさせる気はなかった。




「確認されました。敵勢力は、合計で52名···生存者はいません。」


「データや資料は?」


「すべて焼失。解析の余地はないようです。」


シャーリーは額に手をやり、ため息を吐いた。


「エージェント・ワンは?」


「行方不明です。」


「···誰が、殲滅者エクスターミネーターになれと言ったのよ。」


「エージェント・ワンから通信が入りました。」


「つなげて。」


シャーリーは慌ててインカムを装着した。


「状況は?」


「極めて良くない。」


エージェント・ワンの声を聞いた瞬間、シャーリーは戦慄した。


数時間ぶりに聞いた彼の声は、さらに感情が見えなくなっていたのだ。


これが生きた人間の声だろうか?


そう感じた時に、次の言葉が耳朶に響いた。


「どうした?様子がおかしいが、何かあったのか?」


「それはこちらのセリフよ。」


「声が震えているぞ。大丈夫か?」


「···ええ。それより、どういうつもりなの?」


「任務を全うした。力及ばず、データ類は焼失。それと、激しい抵抗を受けて応戦したら全滅させてしまったようだ。」


「そのようね···あなたにしては珍しい失態だわ。」


「そうだな。単独任務では初めての失敗かもしれない。」


今も、耳に響いてくる声には感情の一欠片も感じることはなかった。


同じように彼の声をそれぞれのインカムで聞いている者たちは、皆揃って蒼白な顔をしている。


「この計画を主導した者の正体がわかった。」


「それは誰?」


シャーリーはエージェント・ワンの次の言葉を聞いて、まずい相手だと悟った。


「···引き際かもしれないわね。」


「逆じゃないのか?」


「相手が誰だか、わかっていて言っているの?」


「わかっている。だが、この案件は闇に葬るべきだろう。表沙汰になれば国家の信用は転覆する。いくら他国が関わったことだとしても、その行為を自国で見過ごしてしまったことは糾弾されるだろう。」


「それは政治力で何とかできるわ。」


「忘れたのか?この情報をもたらしたのが誰なのかを。」


「それは···。」


エージェント・ワンには伝えていなかったが、亡くなった斎藤の妻は現内閣情報調査室の長である内閣情報官の長女だった。


その長女も、娘が誘拐された時に命を落としている。


これは、公私に渡る報復なのだと結論づけられた。このまま今案件を闇に葬ったとしても、あちら側に爆弾を突きつけられる可能性は大いにあるといえるのだ。


「知っていたの?」


「何をだ?俺はあくまで最適な処置を施すだけだ。」


「···わかった。ただし、あなたが失敗しても、骨は拾わない。」


「それはいつものことだろう。」


「···そうね。」


そこでエージェント・ワンからの通信は切られた。


「·····························。」


様々な者たちを見てきた。


職業柄、いずれも人並外れたタフな者たちばかりだ。


しかし、シャーリーは初めてエージェントという存在に畏怖の念を抱くことになった。


「聞いていたのとは違いすぎる。どこが従順な駒なのよ···。」


「ほう···遂に我が組織でも、トランセンデンスに到達する者が現れたか。」


傍らでそうつぶやいたのは、組織でも異端の科学者だった。


クリストファー・コーヴェル。


前回のエージェント・ワンとの会話に違和感を持ったシャーリーが、彼の異常を解析するために本部から呼び寄せた男だ。


クリストファー・コーヴェルは若くして物理工学、脳科学、医用工学の博士号を持つ天才である。


「トランセンデンス?」


「エージェント・ワンの声を脳波測定器にかけた。これを見た方が理解しやすいだろう。」


クリストファー・コーヴェルが端末を操作して、部屋のディスプレイに縦のカラー棒グラフの図を映し出す。


「これが一般的な数値。そして右側が普段のエージェント・ワンの数値だ。」


「右側の方が、圧倒的に数値が高い。」


「そうだ。この状態でもエージェント・ワンの脳が規格外れなのがわかるだろう。そして、これが先ほどの通信での声を解析したものだ。」


「これは···。」


「通常なら計測されないガンマ波も含めて、ベータ、アルファ、シータ、デルタのすべてが異常なほど高い数値を示している。」


「これが、トランセンデンスということ?」


「そうだ。サイキック能力を持つ者は、先ほどのエージェント・ワンの脳波と類似している。しかしこの解析を見る限り、今のエージェント・ワンの脳はそれを超越トランセンデンスした領域にいる。」


「それは···どういう影響をもたらすの?」


「さあ、どうだろうな。」


「ちゃんと答えなさい。」


クリストファー・コーヴェルは、肩をすくめながらため息を吐いた。


「予測できないとしか言えない。」


「·························。」


「睨まれても困る。このレベルの数値は未知のものだ。」


「可能性を言って。」


「そうだな···最悪の場合、悪魔が世に放たれることになるかもしれない。」


「···最良の場合は?」


「エージェント・ワンは脳が限界を迎えて死ぬだろうな。」


この場にいた者のすべてが驚愕に表情を歪めていた。


いや···唯一、クリストファー・コーヴェルだけが興味深げに笑みを浮かべていた。




ドゥルルルルゥ···キュイーン!


スーパーチャージャーが甲高い音を上げた。太いトルクにフロントが持ち上がる。


私用のために購入し、足代わりに使っている車だ。


ダッジチャージャー・SRT・ヘルキャット。


日本でならトラックが積むような6200CCの大排気量エンジンに、コンプレッサーを駆動させて空気を圧縮供給するスーパーチャージャーを搭載したマッチョカーだ。


メーカーのチューンアップチームが弄くり回して世に出した市販モデルをそのまま乗っている。


過剰なほどにパワーがあるが、どちらかと言うと名前が気に入って購入した。


ヘルキャットとは直訳したら地獄の猫となるが、用法上では性悪女を意味している。


職務上、関わる女性にその類が多いので皮肉でそれを乗りこなしてみようと思っただけだ。


車体ナンバーは削り、ナンバープレートも別の物に取り換えている。


万一警察に所有者を調べられても、追跡不能となるように登録データは改竄されていた。


私用車とはいっても、緊急時に乗用する目的で購入しているのだから当然の処置をしている。


高いパフォーマンスを持つ車だが、今は交通法規を守って運転を行い、目的地へと向かっていた。


映画のようにド派手な演出などするわけがない。


任務遂行後の逃走に向けてこの車を駆っているのだ。


銃撃戦が起これば、当然のことだが緊急配備が敷かれる。その際に追跡してくる車を撒くためには、このような車が必要になったりする。


組織が根回しをするにしても、捕まれば面が割れてしまう。


今後の任務に支障をきたし、下手をすると所属している組織にまで狙われる羽目に陥りかねない。


それはエージェントとして、烙印を押されるのと同義と言えるのだ。


目的地である埠頭が見えてきた。


敵はそこの倉庫群を借り受けている。銃器や実験に使う薬剤を密輸し、過剰分はこの国にばらまいているような奴らだ。


尋問やデータの裏付けでその行為は事実だと確証も得ている。


普通なら一個小隊規模で作戦にあたるような相手ではあるが、相手が相手だけにゴーサインは出ないであろうことはわかっていた。


倉庫群に拐われたホルダーや一般人はいない。


それはすでに確認をしていた。


手段を選ばず、殲滅を行う。


ただ、それだけだった。




何度も移動しながら熱感知暗視サーマルナイトスコープで状況を偵察した。


情報通り、この場には殲滅対象しか存在していない。


あらかじめ荷物を置いていた場所へと戻り、作戦のための準備を行った。


意識を集中すると敵勢力の個々の動きが予測できる。


やはり、これまでとは違う新しいスキルが使えるようになったようだが、範囲を広げて捉えようとすると頭痛が酷くなった。


脳への負担が大きすぎる力。


加減を怠ると取り返しのつかないことになりそうだった。


しかし、これは常時発動できる力ではないと感覚が教えてくれていた。感情への刺激。おそらく、それが発端だろう。


ゆっくりと息を吸い、行動を迅速に開始した。


H&K社のMP7A2に消音器サプレッサーを取り付け、ストックを展開。しっかりと肩で固定し、予め装備させていたスコープを覗く。


この銃は静粛性に優れ、小口径のマシンピストルというジャンルにも関らず、200メートル離れた場所への集弾性が高かった。


敵が詰めている大型倉庫で視認できる敵を素早く単発セミオートで狙撃していく。


倉庫内の者たちが気づく頃には6名の無力化を行い、ストックを収納しながらモードを連射フルオートに切り替えていた。


死角になる方角から移動を行い、拠点である倉庫へと近づき発煙手榴弾スモークグレネードを投擲する。


本来なら煙幕により自身の視界も閉ざされるが、気配を読み、新たな能力による察知と予測で1体ごとに確実に排除を行う。


それらを淡々とこなし、全体を殲滅するまでにはそれほどの時間を要することはなかった。


頭部の鈍痛は続いているが、その見返りとして発動した能力は凄まじい効果を発揮したと言えるだろう。


単独行動による殲滅アナイアレーション


今回の行動は、業界内でも悪目立ちしてしまう可能性はあった。しかし、そうなる前に次の行動に移らなければならない。


俺は十分に周囲警戒を行いながら車の所へと戻り、本部に報告を入れながらアクセルを踏み込んだ。




翌朝、俺は高層ビルの上層にいた。


誰もいないフロアの窓から、天体観測用の超望遠レンズを用いて1人の男の行動を観察する。


その男の家には到着早々に荷物を届けてある。


昨夜は行動後すぐに空港に向かい、近くのホテルでシャワーと着替えを行った後、この国に向けて飛び立った。


慌ただしい旅路だったが、何とか出勤前の時間に間に合わせたのだ。


ニューヨークでの出来事は、すぐに耳に伝わらないように拠点の殲滅という形で終わらせていた。


組織の隠蔽工作もそれに寄与したはずだ。


視界の中で男が荷物の封を開けるのが見える。中身は単なるUSBメモリだ。


すぐに目の前にあるノートパソコンに差し込んでいるのがわかった。


暗部と言われる組織に属する者は、普通の端末など使用しない。


仮にウィルスなどの危険がある記録メディアであったとしても、それに対抗する手段が講じられた端末であるはずだ。


わざわざ出勤してから確認することもないと考えているのが常だった。


超望遠レンズを介していても、男の顔色が青白く変わるのが確認できた。すぐに携帯電話を取り出して、どこかに連絡を入れている。


あとは、この男がまともな思考をすることを祈るだけだ。


もし想定外の動きに出るようなら、殲滅対象が増えることになるだろうがそれは考えにくい。


彼はこの国の諜報機関のトップだ。


部下の誰かが外郭組織を使い、世界で一番敵に回したくない大国のお膝元で非道な行いをさせている。しかも、対象はホルダーという特異な存在。


それだけの理由でどういった処置を行うべきかは理解するはずだった。


背後にいる人間の牽制も同時に行われるはずだ。


俺は踵を返し、帰路につくことにした。




空港で手続きを行った後にカフェでコーヒーブレイクをする。


前回のJFK空港とは違い、ニューアーク・リバティー国際空港を利用した。


世界最大規模のJFK空港に比べると、混雑が少なく手続きの時間も短く済む。


ここからJFK空港近くに預けている車をピックアップしに戻らなければならないが、ワンクッション置くことで不測の事態に備えることにはなる。


そう思いながらカップを持ち上げた時に見知った顔が目に入った。


遺体安置所で話しかけてきた初老の男だった。


「少し、かまわないかね?」


「どうぞ。」


動きを捕捉されていた事に関してはあまり良い気分ではなかったが、この男が何を言いに来たのかに興味があった。


「ありがとう。それだけを言いたかった。」


「···斎藤の身内の方でしたか。」


「父親だ。」


男は席に座ることなく、それだけを言い残して去って行く。


「·································。」


俺はコーヒーをゆっくりと飲み干してから、立ち上がった。




「見事な采配だった。これが君の昇格の後押しになるのは間違いないだろう。」


「ありがとうございます。」


シャーリーは上席に対して事案完結の報告を入れていた。


今回の異動は情報分析官であった彼女に、現場指揮の適性があるかを見るための人事考課の色合いが強かった。


組織内で上層まで昇りつめるためには、現場を指揮できる能力が備わっていなければ話にならない。


「それで、エージェント・ワンの様子はどうかね?」


「クリストファー・コーヴェルの見解では元の状態に戻ったようです。一時的な覚醒ではないかと。」


「時限的なものならば、今後の動きには注意が必要となるな。君の責任で監視を続けるように。」


「了解しました。」


通信を終えたシャーリーは今回の事案を振り返った。


なぜ斎藤がエージェント・ワンにコムフィッシュをあのような手段で渡したのかは様々な憶測ができる。


しかし、どれも確証には至らない。


大学卒業後にあの2人に接点があったということも、拾い上げることはできなかった。


彼自身も、なぜ自分に白羽の矢が立ったのかはわからないと発言している。


情報分析官としてエージェント・ワンの活動記録は何度も確認していたが、それほど攻撃的な性格という印象は持っていない。どちらかというと、スマートに物事を終息に導く手腕に長けていたと思う。そう考えると、今回の手法は彼の普段とは毛色が違いすぎた。


幸いにも、今回は彼の判断が最適な解決へと誘う結果となっている。


自身の采配として報告を上げたことで、それなりの評価を得ることができたのも事実だ。


「様子を見るしかないわね···。」


利用できる間はそうさせてもらおう。


シャーリーはそう考えて、次の事案に意識を切り替えた。


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