十七

 そこから先のことは、私が十分に理解できたとは言いがたい。

 私に背を向けたままの秋崎先輩が、寂しそうに言葉を連ねていたのを廊下で聞いていただけだ。


「久しぶり、ゆい姉」


 ややあって絞り出された第一声、そこに含まれていた人の名前は、私と同じもののように思えた。


「あー、俺……ってわかるかな。結構変わっちゃってるから、もしかしたらわかんないかな。うん、髪、黒に戻したんだ」


 寂しそうな笑みを漏らす先輩。

 このままここで聞いていていいのか戸惑いながらも、結局私は先輩の声に耳を傾けていた。


「タバコもやめた。……ちょっとだけ、苦労したけどね」


 そこで私が呆気に取られてしまったのもしょうがないと思う。

 だって、あの秋崎先輩にそういう過去があったなんて、全然想像できなかったし。


「グループはわりと簡単に抜けさせてもらえた。寂しそうな顔する奴も、怒る奴もいたけど、引き留められるってことはなかったよ」


 先輩はなおも続ける。

 おそらくはその人がここで亡くなってから疎遠になっていた時間を丁寧に埋めるように。


「今でも時々しゃべることはあるけど、前みたいな付き合いはしてない。授業もちゃんと出るようになって、あの進学校にも合格したんだ。……ちょっと後悔してるけど。だって勉強難しいし」


 最後には先輩の顔には苦笑が浮かび、思わず私も微笑んでしまった。

 そういえば最初に会ったとき、そんなこと言ってたな。

 けれど、先輩が紡ぎ続けるその近況報告には、どこか違和感があった。

 不思議に思ってかたわらのニート男を見上げると、そんな私の疑問を見透かしたように答えてくれた。


「あぁ、会話はしてないよ。成立していない」


 と。


「あいつがに向かって一方的に話しかけてるだけだ。あんたもさっきのストーカー霊見ただろ? ああやって怨霊になると外見じゃ区別なんてつきづらくなるし、理性もなくなるから」


 ニート男は特に呆れた様子もなく極めて平坦にそう言った。

 それに対して人生経験が足りていない私が返せる言葉なんてそうそうあるはずもなく、私に出来ることと言えば、去来する切なさともどかしさに耐えることだけ。

 先輩が続ける独白に耳を傾けながら。


「父さんと母さんにも迷惑掛けた。二人とも大変だったのに、ゆい姉が必死に二人の力になろうとしてたのに、俺は負担かけてばっかりで……」


 そこから先は私には窺い知ることも難しい先輩の個人的な事情で、それは知り合ったばかりの私が生半可に踏み込んでいい領域じゃあなかった。

 それでもきっと、先輩には後悔があって、二度と会うことのできないその人に心配を掛けていたこともあって、満足に前に進むことができなかったのだろうことは、不躾ながらもかろうじて汲み取ることができた。

 その後、いくつかのやり取りを終えて廊下に戻ってきた先輩は、いくらかの寂寥感せきりょうかんを残しながらも晴れやかな顔をしていて、誰にともなく「ありがとう」と口にした。

 そして入れ替わりにニートの男が、先輩とは対照的なひどく事務的な足取りでリビングへと進み出て行った。

 けれど、それが必要なことだとわかっていた私と……そしておそらくは先輩も、ただその最期の行程を無言で見守るだけだった。

 ニートの男は、再びその鎖を振るった。



 後になって先輩から聞かされた話になる。

 私の部屋で先輩が叫んでいた女性の名前、ゆい姉というのは、先輩の実姉にあたる人の名前だと。

 そしてあの部屋で不審死を遂げた四人の女性の内の、三人目だということも。

 先輩はお姉さんの葬儀のとき、参列したこのアパートの住人があの三○二号室にまつわる曰くを話しているのを聞いて、ふと思ったらしい。

 もしかしたらお姉さんの魂は、まだこの部屋に囚われているかもしれない、と。

 少なくとも色々と不審な死が続いているのは事実で、どう考えても常識外の現象が絡んでいるのは間違いない。

 その真相追求のためと、これからも出続けるかもしれない不審死をどうにかするため、先輩はこのアパートに越してきて、この三○二号室に関する噂や情報を集め始めた。

 そんな先輩の行動に暇を持て余した主婦の方々が尾ひれをつけにつけたものが、以前に私が近所のおばさんに聞かされた先輩の風評の実態のようだった。

 先輩はその後も色々と調べ、法草寺でこういった問題への相談を受け付けていることを突き止めて、私と一緒にそこへ赴くことにした、というのが事の次第らしい。

 そしてまぁ、先のやり取りから私が抱いた推測通り、お姉さんがこのアパートで亡くなった当時、先輩は荒れていたという。

 授業にも出ず、学外で素行の悪い同年代の知り合いとつるんで、度々ケンカ沙汰も起こして警察に補導されたり――。

 それは中学三年という受験の年になっても変わらず、両親にはほとんど見放されていたらしいのだが、お姉さんだけはここで独り暮らしを始めることになっても根気強く先輩をさとし続けてくれたらしい。

 そんな折りに、そのお姉さんがこのアパートで説明のつかない不審な死を遂げた。

 あまり仲は良くなかったものの、普段から自分のそばにあり、そしてこれからもあり続けると疑わなかったその身近な存在の消失は、先輩に大きな衝撃を与えたという。

 両親の沈みきった落ち込みようもあった。

 それから先輩は、このままではダメだと自分を律し、心を入れ換えて地元の有名な進学校を狙うことにした。

 名誉挽回、汚名返上。

 これまで迷惑を掛けたお返しをするにはそんじょそこらの普通校への進学では足らないと判断したのだと。

 その受験勉強を、お姉さんの不審死の調査と並行して進めたというのだから、本当は地頭じあたまがいいんじゃないだろうか。

 まぁ、本格的に調査を始めたのは、高校に進学してこのアパートに越してきてから、らしいけれど。

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