十五(3/3)

 そこにあったのは黒い背中だった。

 一人の男が立っている。

 簡素な黒いTシャツにジーンズ。そしてどこか陰湿なあのニートの男が、私に背中を向けて視界を塞いでいた。

 ……いや、よく見るとその身体はうっすらと透けて向こう側が見えて、眼を凝らしてみるとなぜかリビングまで後退したストーカー霊の黒い影があった。


「ったく、何でこんなことになってんだ。あんた、俺がやったアレどうしたんだ」


 私を庇うように立つ彼は、呆れたようにそう言った。

 一体いつ、どうやって入ってきたのか。

 玄関は未だ堅く閉ざされている。

 ……どこから入ってきた?

 彼はストーカー霊ではなかった。

 けれど、やっぱり、これはそういうことなんだろう。

 やっぱりこの人も、既にこの世の存在では……ない。

 そんな男に『アレ』と曖昧に言われたものにすぐに思い当たった私は、弱々しくも抗議の声を返した。


「だってアレ、あのお守り……中に髪の毛が……」

「霊力の高い人間の身体の一部でも入れておけば、それ相応に怨霊を遠ざける効果を得られるんだよ。それを、まったくあんたは……」


 リビングに油断なく視線を向けたまま、そう批難がましく。

 そしてバチンッ、と、背後で静電気でも弾けるような音がして振り返ると、すぐさま玄関が開いて先輩が飛び込んできた。


「美沢さん大丈夫!?」


 玄関口にへたり込んだままの私のそばに屈んで覗き込んできたその相貌と視線が合う。

 その声、その姿。

 心が一気に安心感に包まれていくのがわかる。嬉しいのにそれが言葉にならなくて、私はただコクコクと首を動かして頷く。

 けれど、目の前の危機はまだ去ってはいなかった。


『憎い、にくい、ニクイ!』


 動画をスロー再生したときに聞こえるようなくぐもった低い声が、人型の影から発せられた。

 瞬間的に広がった殺意と憎悪に、私の体は容易くすくむ。


「さて、仕事するか」


 直後、まともに足場も蹴らずこちらへ突進しかけた黒い影の全身を、いくつもの鎖が絡め取っていた。

 その腕に、足に、首に、胴に絡み付き、全身を中空に張り付けにして自由を奪い去っている。

 突如現れた鎖の出所でどころを視線で追うと、黒い影に向けて延ばしたニート男の腕へと繋がっていた。

 所々廊下の壁に溶け込むように消えたり別の壁面から現れたりしながら、まるで実体を持っていないかのような鎖。

 そして黒い影同様、ニート男の全身に絡み付いているものの、彼の場合は自由を阻害されている様子はなく、至って平然とした顔をしていた。

 まるでアクセサリーかそういう装いであるかのように。

次の瞬間。

 その鎖に、まるで電気でも流したかのように稲妻が生じる。それは鎖を伝って人型の影――ストーカーの霊へと達し、その全身を大きく痙攣させた。


『ぐおおオおぉぉぉぉぉぉぉォぉぉっ!』


 地鳴りのような雄叫び。

 室内の調度品を揺るがすほどの咆哮。

 それは地震でも起きたのかというほどの錯覚を私に与え、肌を打つような痛みをもたらした。

 それがどれだけ続いたのかはわからない。数秒だったかもしれないし、数十分だったかもしれない。

 早く終わって欲しいと願いながら堅く目を閉じ耳を塞いで耐えていると、やがてその大音声だいおんじょうの振動は徐々に小さくなっていき――

 ふと気付いたときには、静寂がこの三○二号室へ戻ってきていた。


「終わった……の?」


 私が顔を伏せている間に何があったのか。

 わけもわからないまま流された状況の果てに、人の形をした黒い影の姿は、跡形もなく消えていた。

 それでも私の腰は抜けたままで、たぶん、おそらく、ストーカー霊を消し去った張本人と思われるニート男を見上げると、その顔にいつもあの公園で見たような陰気で気の抜けた様子はなく、未だ険しいまま。

 険しいまま、リビングを注視している。

 その視線を追うも、そこには日常に戻った我が家のリビングがあるようにしか見えなかった。

 人の家に土足のまま上がり込み、我が物顔でそこまで進んだ彼はぼやくようにこぼした。


「……何となく、予想しちゃいたけど」


 どこか呆れたようなその声からは、不穏な予感しかしない。


「な……に、これは……?」


 同じ方向を向いている傍らの先輩が汗を滲ませながら声を震わせた。

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