十五(2/3)
途端、得体の知れなかった恐怖がどこか濁った殺意を感じ取り、私の平常心を完全に崩壊させた。
殺意の濁流。
こちらの全身を侵すかのような、蝕むかのような、指先でちょっとずつ摘まんで千切り捨てられていくような錯覚を覚えるほどの、不可解で気色の悪い殺意。
単純な殺意じゃない。
ただ殺されるだけでは済まない。
それでいて拷問だとか輪姦だとか、そんな現実的な地獄でもない。
おそらくはこの世でどれほどの地獄を経験しても想像できないような、肉体的な苦痛とはかけ離れた非現実的な体験でもってじわじわと殺されていく。
――脱兎のごとく。
私は
自分の部屋とそこにいる見知らぬ男に背を向けて逃げ出した。
目指すのは玄関、そして外。
こんなところには一秒だっていられない。
ところが、玄関のノブは回るものの、鍵をかけているわけでもないのになぜか押し開くことができなかった。
――焦燥。
それはあの男が私の部屋から出てきたことでさらに増長する。
玄関は開かず、背後には腹に刃物を突き立てたままの男。
……やっぱり、その外傷に痛みを感じている様子はなく、その血走った目と意識ははっきりとこちらに向けられ、私の姿を捉えている。
不可解な出来事はそれだけでは収まらなかった。
男の腹部。刃物が突き刺さっているその傷口から、黒い何かが溢れ出してきた。
それは極めて不明瞭で『何か』としか表現のしようがなく、どう見ても人の体から出る血液には見えなかったし、そもそも液体にすら見えない。
それは男の腹から止めどなく溢れ出てくると、そこから重力に逆らうかのように四方八方に霧散し、再び男のほうに集まってその体全体にまとわり付く。
後には輪郭のぼやけた人型の黒い影が、そこに
人間じゃ……ない!
玄関口にへたり込んだ私の、全身の震えが最高潮に達する。
この震えだけで体が崩れ落ちてしまうんじゃないかというほど。
しかしそんなことはお構いなしに影と化した男は殺意と憎悪を引き連れて着実に私に迫ってくる。
この影に触れられたとき、一体私はどうなってしまうのか。
この世のものとは思えない恐怖でまともに思考も働かなくなっている私に、ふと秋崎先輩の顔が脳裏に過った。
幸い、まだよそ行きの格好を解いていなかったおかげでスマホはまだポケットの中にある。
火事場の
通話が繋がるとすぐに、私は彼が何かを言う前に捲し立てる。
「助けて! 部屋に……私の部屋に何かいるんです!」
先輩は私の言葉を疑わなかった。
私が叫び終えるとすぐに応じた。
「わかったすぐ行く!」
端的な返答の後、通話が切れる。
それほど広いアパートじゃない。
あの人の部屋からこの部屋まで数十秒も掛からないだろう。
けれど、黒い人型との距離はもう三メートルもないように見える。
こちらに迫る歩みが緩慢なのが唯一の救いだけど、先輩が駆けつけてくれるまでの数十秒ももつかどうか……。
それでも着実に
そしてついに、その影に見下ろされるほど接近されたときだった。
「美沢さん! 大丈夫! 美沢さん!」
すぐ背後にある玄関が叩かれる音。インターホンが連打される音。
たった数十秒を無限に感じて待ちわびた、助っ人の声。
ところが――。
「ここです! ドアの前にいます!」
私は扉に向き直ってノブを回す。扉を押す。
それでも扉は微動だにしない。
なんで、どうして……。
ようやく見えたはずの救いを前に、私の体はくずおれる。
あの黒い影は……と、そちらを確認しようとして。
目と鼻の先に、その黒い影の顔があった。
ひっ、と、私の喉から短い悲鳴が漏れる。
私は取り柄なんて呼べるものなんて一切ない、どこにでもいるようなごくごく平凡な女子高生だ。
そんな私に、こんな状況でできることなんて何もない。
影の両手が私の顔を掴む。
掴まれているという感覚はなかったけれど、私の首から上はピクリと動かなくなった。恐怖で生じていた震えさえ、無理矢理抑えつけられているかのよう。
何で……お寺で貰ったお守りがあるのに……。
鞄の中に、確かに今も。
しかしどうやらそんなものに効果はなかったのか、顔の形をしていた影はそこで霧散して広がって――。
私の視界は黒に塗り潰された。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます