私たち母娘おやこがこのアパートに引っ越すことになったきっかけは、詰まるところ、両親の離婚にある。

 父が典型的なダメ男で酒癖は悪く、金遣いも荒く、いつも何かにイライラしていて、暴力を振るわれることも少なくはなかった。……正直、娘の私が女としての危険を感じるような下卑げびた視線を向けられたこともある。結果的に実行に踏み切られることはなかったので私の思い違いかもしれないけれど、父の、そういった諸々もろもろの素行の悪さに限界を感じた母が離婚に踏み切ったのは確かだった。

 そしてちょうど夏休みで時間のあるこの時期に、新居に身を移すことになったのだった。

 苗字が母方のものに戻った私は、美沢優衣みさわゆいと名乗ることになった。

 字面は気に入っているけれど、やっぱりまだ少し慣れない。


「ふうん、大変だったね」


 かいつまんでそんな話をすると、荷降ろしを手伝ってくれた男の子は神妙な面持ちで頷いた。

 男の子……といっても、私よりも一つ年上の高校三年生らしい。

 私たちが越してきたアパートの住人で、名前は秋崎優斗……先輩。

 染めていない黒髪を爽やかにセットしていて清潔感があり、雰囲気も柔らかくて人当たりが良い。荷物を運んでいるときにも何度も気を遣ってもらったこともあって、重労働を終えた後には、こんな込み入った話も普通に話すようになっていた。

 私自身、別に転居することになった事情を打ち明けることには何の抵抗もなかったし、そんな気を遣うような内容の話も、先輩も面倒な顔一つ見せずに聞いてくれた。

 今はアパートの階段下の脇に腰を下ろして、重労働で疲労した体を休めているところだった。

 目の前の公園では夏休みということもあってか、二組ふたくみほど親子連れやベンチに腰を下ろして休憩している男の人など、いこいの時間を過ごす人の姿が見られる。


「でもこれから大変でしょ? 生活がガラリと変わっちゃうわけだし」

「そうですね。でもそれもやっぱり、お母さんのほうが大変だと思います。私も出来るだけ力になりたいと思っていますけど。私は通う学校が変わらないので比較的負担は少ないですし」

「え? そうなの?」

「はい。前に住んでいたところからそんなに離れたわけではないので、通学距離もそんなに変わらないんです」


 正直、私は結構な人見知りで、人付き合いがあまり得意じゃない。

 そんな私からすれば、学校が変わらないのはこの上ない救いだった。

 もし転校することになっていたら、またその学校に慣れるのに時間が掛かってしまうし、友達だって出来るかどうか不安だ。

 今の友達と仲良くなるのだって、一体どれだけ掛かったことか。


「へぇ、学校どこなの?」


 何気なく問われたその疑問に私が端的に市内の県立高校の名前を返すと、秋崎先輩は爽やかな笑みを浮かべて言った。


「あー、残念。俺が通ってるトコとは逆方向だから、アパート出た時点で逆に向かうことになるね」


 もしも方向が同じだったら、あるいは同じ学校だったら、まさか一緒に登校するつもりだったのだろうか。確かに接しやすい人だとは思うけれど、さすがにまだそんな気にはなれない。

 ちなみに逆方向というとどこの学校だろうと気になって訊ねてみると、この辺りでは一番の進学校の名前が返ってきて驚いた。


「レベル高い所じゃないですか」

「まぁね。でも正直、ギリギリの学力で試験受かっちゃったりしたから、授業についていくのが大変だよ。今年は受験だし」


 苦笑を浮かべながら答えるその様子からしてどうやら謙遜というわけではなさそうで、その顔の端々はしばしに苦労が滲み出ていた。

 その点、私は自分の頭のデキを自覚して無難な学校に進学したので、勉強に関してはそれほど苦労していない。

 というか受験生なんだったら時間を取らせるのも悪いかと、荷降ろしを手伝ってもらったお礼を口にしようとしたときだった。

 秋崎先輩の顔が、急に感情の色をなくした。

 ずっと物腰が柔らかくて話やすい雰囲気を纏っていた先輩だけど、このときだけはそれが消え失せた。

 ややあって。


「美沢さんさ、あの部屋に入るんだよね」


 ふいに先輩が、れまでとは一段と低い、どこか陰りのある声色で口を開いた。


「はい、そうですけど」


 あの部屋――とは、私たち母娘が新しく入居することになった三○二号室のことだと思う。三階ともあって窓から見える景色も悪くない一室だけど、それがどうしたんだろう。

 そう思って首を傾げていたけれど、先輩はその質問の理由をなかなか教えてくれなかった。何かを思案するように視線を宙に固定していて、まるで私以上に込み入った事情でも抱えているかのようでもあった。

 気まずい沈黙が降りたまま数十秒ほどだっただろうか、蝉の鳴き声がいやに耳に障り始め、先輩が受験生だということにも配慮してさすがにそろそろお暇しようかと思い始めた頃、ようやく先輩は反応を見せた。

 何らかの不安を振り払うように頭を振り、無理に作ったようなぎこちない笑顔をこちらに向ける。


「いや、何でもない。ごめんね、変なこと訊いて」

 

 私としては何だか腑に落ちない気持ちを残したまま、話を締め括られてしまった形になる。

 そのときの私は、きっと水道とか電気の問題だろうと無理矢理自分に納得させて、先輩と別れた。

 

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