陰に潜む

ふい

 外出先から帰宅した私の体は、自分の部屋にいたソレを前にして硬直することになった。

 悲鳴が漏れそうになったのを、すんでのところで堪える。

 息を呑んで、ガタガタと震える脚がただ崩れ落ちないように保つことに全霊を注ぐ。

 そこにいたのは一人の男だった。

 ボサボサの長い黒髪で顔の上半分が隠れていて、簡素なTシャツにジーンズという至ってシンプルな出で立ちだけど、私の記憶にこの男の外見に該当する人間はいない。

 ましてやこんな――腹部に刃物を刺したまま、まるでそれにも気づいていないかのように一心不乱に人の部屋を漁り回す知り合いなんて。

 刃物は刃の部分が半分以上その腹部に埋まってしまっているせいでいまいち判別がつかないけれど、それは包丁のように見えた。

 そんなものが刺さっているせいで赤黒い粘性のある液体がどろどろと傷口から流れ出ているにも関わらず、男の顔は平然としている。

 ……いや、何か別の目的に躍起になっているように見える。

 そのおかげか、私が帰ってきたことにはまだ気付かれていないようだったけれど、黒いボサボサ頭を振り乱すことで揺れる前髪の隙間から酷く血走った眼球とどろっと濁りきった瞳が垣間見えて、私は思わずたたらを踏みながらも一歩、後ずさる。


 ――出掛け先から帰宅したときに、留守中に忍びこんでいたストーカーとはち合わせちゃったんだって――


 この部屋の秘密を聞いたときの言葉が、脳裏に甦る。

 よりによって今日、どうして……!

 そんな、ほんの些細な感情の変化を察知したかのように。

 男の動きが唐突に、ピタリと制止した。

 ドクンッ、と心臓が高鳴る。

 息を詰める。

 さらに一歩、慎重にゆっくりと後ずさっている最中だった。

 男の顔が、ゆらりと、こちらに向いた。

 不自然にその輪郭を揺らしながら。

 まるで実体を伴っていないかのような、人の顔をかたどった煙か何かが動いたかのような――。

 そして数拍遅れて体全体を私に向けると、男はその口の端をどこか醜悪に歪めて見せた。

 途端、得体の知れなかった恐怖がどこか濁った殺意を感じ取り、私の平常心を完全に崩壊させた。

 殺意の濁流。

 こちらの全身を侵すかのような、蝕むかのような、指先でちょっとずつ摘まんで千切り捨てられていくような錯覚を覚えるほどの、不可解で気色の悪い殺意。

 単純な殺意じゃない。

 ただ殺されるだけでは済まない。

 それでいて拷問だとか輪姦だとか、そんな現実的な地獄でもない。

 おそらくはこの世でどれほどの地獄を経験しても想像できないような、肉体的な苦痛とはかけ離れた非現実的な体験でもってじわじわと殺されていく。

 ――脱兎のごとく。

 私は踵を返した。

 自分の部屋とそこにいる見知らぬ男に背を向けて逃げ出した。

 目指すのは玄関、そして外。

 こんなところには一秒だっていられない。

 ところが、玄関のノブは回るものの、鍵をかけているわけでもないのになぜか押し開くことができなかった。

 ――焦燥。

 それはあの男が私の部屋から出てきたことでさらに増長する。

 玄関は開かず、背後には腹に刃物を突き立てたままの男。

 ……やっぱり、その外傷に痛みを感じている様子はなく、その血走った目と意識ははっきりとこちらに向けられ、私の姿を捉えている。

 不可解な出来事はそれだけでは収まらなかった。

 男の腹部。刃物が突き刺さっているその傷口から、黒い何かが溢れ出してきた。

 それは極めて不明瞭で『何か』としか表現のしようがなく、どう見ても人の体から出る血液には見えなかったし、そもそも液体にすら見えない。

 それは男の腹から止めどなく溢れ出てくると、そこから重力に逆らうかのように四方八方に霧散し、再び男のほうに集まってその体全体にまとわり付く。

 後には輪郭のぼやけた人型の黒い影が、そこに屹立していた。

 人間じゃ……ない!

 玄関にへたり込んだ私の、全身の震えが最高潮に達する。

 この震えだけで体が崩れ落ちてしまうんじゃないかというほど。

 しかしそんなことはお構いなしに影と化した男は殺意と憎悪を引き連れて着実に私に迫ってくる。

 この影と接触したとき、一体私はどうなってしまうのか。

 この世のものとは思えない恐怖でまともに思考も働かなくなっている私に、ふと懇意にさせてもらっているこのアパートの住人の顔が思い浮かんだ。

 幸い、まだよそ行きの格好を解いていなかったおかげでスマホはまだポケットの中にある。

 火事場の馬鹿力ばかぢから……とはちょっと違うかもしれないけれど、この場、この状況で、自分でも驚くほど早く、私はスマホを操作して彼へと通話を飛ばした。

 通話が繋がるとすぐに、私は彼が何かを言う前に捲し立てる。


「助けて! 部屋に……私の部屋に何かいるんです!」


 彼は私の言葉を疑わなかった。

 私が叫び終えるとすぐに応じた。


「わかったすぐ行く!」


 端的な返答の後、通話が切れる。

 それほど広いアパートじゃない。

 あの人の部屋からこの部屋まで数十秒も掛からないだろう。

 けれど、黒い人型との距離はもう三メートルもないように見える。

 こちらに迫る歩みが緩慢なのが唯一の救いだけど、先輩が駆けつけてくれるまでの数十秒ももつかどうか……。

 それでも着実に彼我ひがの距離は縮まり――。

 そしてついに、その影に見下ろされるほど接近されたときだった。


「美沢さん! 大丈夫! 美沢さん!」


 すぐ背後にある玄関が叩かれる音。インターホンが連打される音。

 たった数十秒を無限に感じて待ちわびた、助っ人の声。

 ところが――。


「ここです! ドアの前にいます!」


 私は扉に向き直ってノブを回す。扉を引く。

 それでも扉は微動だにしない。 

 なんで、どうして……。

 ようやく見えたはずの救いを前に、私の体はくずおれる。

 あの黒い影は……と、そちらを確認しようとして。

 目と鼻の先に、その黒い影の顔があった。

 ひっ、と、私の喉から短い悲鳴が漏れる。

 私は取り柄なんて呼べるものなんて一切ない、どこにでもいるようなごくごく平凡な女子高生だ。

 そんな私に、こんな状況でできることなんて何もない。

 影の両手が私の顔を掴む。

 掴まれているという感覚はなかったけれど、私の首から上はピクリと動かなくなった。恐怖で生じていた震えさえ、無理矢理抑えつけられているかのよう。

 顔の形をしていた影はそこで霧散して広がって――。

 私の視界は黒に塗り潰された。

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