第9話 鬼蜘蛛猿(前編)
⑨
空を見上げれば月は地平線近くまで落ち、星ばかりが目に映るような、もう間もなく夜明けを迎えるという時間帯。見張りについているのは翔と朱里だ。二人は天幕の前に腰を下ろし、周囲の気配に気を配りながら眠気防止の世間話に花を咲かせていた。
「――って感じで、寧音も黄……煉二も、口を開けばお互いの話ばっかり。胸やけがするかと思った」
「ははは。まあ、あの二人は本当に仲がいいからね。煉二はデレデレしてるの隠したいみたいだけど、バレバレだし」
そう言って翔は、煉二が寝ているはずの天幕の方へと視線を向ける。そんな彼を見る朱里の目は、呆れたように細められていた。
「……話を振った私が言うのもなんだけど、あんたが言う?」
三角座りの為に組んだ腕の上からそんな視線をぶつけられ、翔は首を捻る。祐介からもそんな事を度々言われている翔だが、本人からすれば煉二達ほどではないらしい。未だ頬へのキスが精一杯の二人なのだからあながち間違っていないのかもしれないが、それは朱里のあずかり知らぬ事だ。
翔は疑問を口にしようとして、すぐにハッとする。胡坐をかいていた片膝を立て、剣に手をかけていつでも動ける状態にしてから、同じく目つきを鋭くしていた朱里と視線を交わす。
彼らはじっと息を潜めて気配を抑え、スキルが捉えた気配に集中した。
――強い……。Cランク? いや、たぶん、もっと強い。
翔の剣を握る手に力が入る。
明らかな格上の気配に息が荒くなりかけるのを必至で堪えながら、その気配の動きを追う。
――これは……こっちへ向かってる? 気付いてるのか?
「間き、朱里さん、二人を起こして」
「わかった」
翔は剣を抜きながら、朱里に指示を出す。魔法を使えない朱里より自分が残った方が時間稼ぎをしやすいという判断だ。彼はもう、その気配の主が自分たちを狙ってきていると確信していた。
その時は翔が思っていた以上に早くやってくる。
朱里の動きに気が付いたのか、翔の雰囲気が変わったのを察したのか、ソレは一気に距離を詰め、木陰から飛び出してくる。
――猿? いや、違う!
それは濃紫の毛を持った猿の上半身から四本の黒い蜘蛛脚が生えたような姿をしていた。長く筋肉質の腕で頭上の枝を掴み、方向を修正して翔に飛び掛かる。
上半身だけで翔の背丈程ある巨躯が鋭い四本爪を振り上げ、かつ重力を利用した一撃だ。彼はすぐさま剣での迎撃を諦める。
「[
スキルのレベルで言えば最下級だが、彼が魔法名だけに詠唱短縮できる〈土魔法〉の精一杯だ。地面から浮き上がった土の塊が猿目掛けて飛翔する。
威力より速度と弾き飛ばすための質量を優先した選択は、最適解と言って良い結果を齎した。
魔法自体は振り上げられた爪の一撃で簡単に防がれてしまったが、土の弾丸の質量と速度は敵の慣性を殺すには充分だった。猿は翔からやや離れた位置に落下していく。今のうちにと翔は〈鑑定〉を使って蜘蛛脚の猿の情報をあばいた。
――名前は
Aランクではないが、その一歩手前を示すプラスの記号。スキルから受ける感覚で格上だとは理解していた翔だが、想定より一段上を行く現実に彼の視線はついつい仲間のいる天幕の方へ向いてしまう。
種族の説明文に
四本の脚で音もなく着地する
魔力の乗った甲高い咆哮が森の空気を振るわせ、翔の足が竦む。
――怖がっちゃ駄目だ! 強気で行かないと!
自らのユニークギフトを思い、心を奮わせようとするも手の震えが治まらない。それでも魔法の準備に移れたのは、今天幕で準備を進めているはずの無防備に近い状態にある仲間たちを守るためだった。
「土よ、槍と成りて敵を貫け! [
選んだのは土の槍の魔法。理由は先と同じだが、自由に動ける地上では簡単に当たらない。高低差のある地面を縦横無尽に動き回り、続けて放つあらゆる魔法を躱す。
下がりながら撃つも、彼我の距離は見る見る詰まっていく。
――駄目だ、魔法だけじゃもたない……!
三人はまだかと再び天幕を見るが、その気配はない。敵との距離はあと十メートル弱。翔は深く息を吸って吐き、覚悟を決めた。
「はぁっ!」
全身の緊張を解し、ギフト〈
法王国より支給された剣は大量生産品の、神の定める等級で言えば九段階の内下から二番目、
更に怒気を強めた鬼蜘蛛猿は左腕を大きく振るう。翔の未成熟な体はそれだけで容易く吹き飛んで地を滑り、土煙を巻きあげる。
「ぐっ……っ⁉」
背中の痛みに呼吸を浅くしながらもなんとか立ち上がろうとする翔だったが、その突いた左腕に激しい痛みが走った。骨折していたのだ。咄嗟に盾とした結果だった。
訓練である程度慣れていたとはいえ、死が目前に迫るという状況での骨折は初めてだ。その心はドンドン焦燥と恐怖に支配されていく。無事な右腕を使って立ち上がろうにも、慣れない森の地面に足が滑り上手く立ち上がれない。
鬼蜘蛛猿は散歩するような足取りで翔へ近づいていく。その眼には明らかな愉悦が浮かんでおり、彼のせめてもの抵抗、一番得意な光の矢の魔法も意に介さない。無詠唱でいくら数を撃とうとも、
とうとう鬼蜘蛛猿が翔のすぐ前まで来た。ソレは大きな四本指の手で彼の足首を掴み、宙吊りにする。
翔は剣を突き刺そうと翔は腕を引く。
「ガハッ! けほこほっ……」
しかしその前に腹へ拳が叩き込まれ、口から血を吐き出した。
どこから食べようかとソレが角度を変えるたびに翔の脳が揺さぶられ視界が定まらない。やがて腹から喰らうことにしたのか、顔の高さまで少年の体を持ち上げてその両腕をもう片方の腕で掴んだ。
鋭い獣の牙が涎の糸を引いて開けられ、翔へと近づけられていく。
――嫌だ、死にたくない。俺が死んだら、陽菜がっ……!
そして翔の腹の肉へと鬼蜘蛛猿が喰らいつこうとした瞬間だった。
「キッ⁉」
猿の体を支える蜘蛛の脚の一本が半ばで削られ弾け飛ぶ。続けていくつもの風の刃が飛来しその顔面を殴りつけた。頭頂部から細く伸びる毛が切り飛ばされ、先の方で毛を纏める蒼玉が宙に踊る。
「翔!」
拍子に投げ飛ばされた翔を朱里が空中で受け止め、寧音の所に連れていく。
「寧音、治療をお願い!」
「はいー!」
寧音はすぐに翔の背へと腕を回し、〈
「うっ……、羽衣さん、ありがとう」
翔の声に寧音が抱擁を止めると、空中に解けるように光が消え、何事もなかったような彼の姿が見えた。急いで立ち上がり指を曲げ伸ばしして調子を確かめる翔に、寧音は胸をなでおろす。
――凄い。あれだけの傷が、こんなにすぐ……。
「翔君、遅くなってごめんなさいー。それと、寧音、ですよー!」
「あ、うん。寧音さん」
こんな時まで同じ調子の寧音に多少力が抜けながら、翔は剣を探す。見つけたのは少し離れた位置だが取りに行くのに何の支障もない場所だった。
翔が剣へ向けて走り出したのと同時に寧音も朱里と煉二の援護に急ぐ。翔の視界の端では朱里がアラニアスエイプの攻撃を引きつけ、煉二が魔法で動きを妨害するという時間稼ぎを行っていた。
彼はバスケの動きを思い出しつつ極力時間を無駄にしないよう剣を回収すると、ちょうど背を向けていたアラニアスエイプを後ろから切りつけた。
「翔! いけるのよね⁉」
「うん!」
突然の痛みにアラニアスエイプが耳をつんざくような悲鳴をあげ、大きく腕で払ったのを躱しながら翔は返事をする。
「じゃあ前、任せた!」
肯定の意志を示すように翔は数歩前へ出た。その動きは柔らかく機敏で、先ほどまでの硬さは見られない。仲間の存在が、彼に自信を与えていた。
――まずは死なない! 多少の傷なら治してもらえる。だから、死なないために、あいつを倒す!
脚を一つ欠いている状態でなお機敏に動いていたアラニアスエイプ。その身体能力を除けば、脅威はない。その旨を早口で三人に伝え、斜め前方へ向けて翔は駆けだした。
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