オーガスタの旋律
亮令
第1話 幸運の木
曇天の空は今の自分の気分を象徴しているようにずっしりと重苦しかった。
二日酔いの最悪な気分で目覚めた僕は、吐き気を抑えようと窓を開けた。
大型連休の最終日だというのに、あたりは驚くほど静かだった。
頭痛と闘いながら昨夜の記憶を思い出そうと試みる。
部屋のあちこちで缶チューハイの空き缶や宅配ピザのケース、スナック菓子の袋が無造作に転がっている。
昨日も浴びるほど酒を飲んで眠ってしまったのだろう。
携帯を見ると、昨日来ていた友人からメールが来ている事に気づく。
自分がだらしなく腹を出して潰れている写真が送られていたので、僕は顔を顰めて携帯を閉じた。
テーブルに置いてあったチューハイの残りを少し口に入れる。
温い液体は喉元からゆっくりと流れ込んで胃の真ん中あたりに落ちていった。
たったそれだけで、今日もまた憂鬱な1日の始まりを感じた。
思いついたようにベランダに出て煙草に火をつける。
マンションの裏にある公園からは子供たちの元気な声がキャッキャと響いた。世界は平和で、僕は孤独だった。
改めて部屋を見ると、引っ越してもう一週間も経つというのに未開封の段ボールが所狭しと並んでいる。
毎日友達を呼んでは遊びほうけていたから当然なのだが、明日からは連休が明けて、また変わり映えのない日々が始まってしまう。
今日中にやらなければいけない事が山積みである事に気づく。僕は急いで煙草の火を消して部屋の掃除に取り掛かった。
午前中は部屋の片付けと引っ越しの整理であっという間に終わった。
仕事柄、部屋の整理や掃除は苦手ではなかった。大量のゴミ袋をゴミ集積所に持って行った後は、段ボールから荷物を取り出して予定した場所に配置していく。
引っ越しの荷物は思ったほど多くはなかった。前の家よりも部屋が狭くなるので、思い切って必要のない物を処分したのが良かったのかもしれない。部屋にはベッドやテーブルなど最低限必要なものを除いて、あとは楽器類と本棚が二つほどあるばかりだった。朝の地獄のような景色からここまでよく整理したものだと自分を褒めて、またベランダに一服しに行く。
ベランダの外から見た自分の部屋のレイアウトは、シンプルと言えば聞こえがいいが、だいぶ寂しくも見えた。もともと広々とした家に住んでいたので、ひとつの部屋に家具が凝縮されているのはビジネスホテルの一室を思い起こさせる。こういう時にペットでもいたらいいのかもしれないが、ズボラな自分に生き物を買うことは随分とハードルが高いような気がした。そういえば駅前にちょうど良さそうな花屋があったことを思い出す。時間は余すほどあったので、昼食を食べがてら出かける事にした。
駅前の花屋はこじんまりとしていたが、店内は洒落ていて居心地が良かった。花屋に行き慣れていない自分は初め、どこを見ていいか分からずに目のやり場に困った。ちょうど母の日が近いからか、店内には色とりどりのカーネーションが並べられていた。
「なにかお探しですか?」
店の奥から店主と思われる女性が出てきて話しかけてきた。自分よりもひとまわりも歳が離れていそうだったが、落ち着きのある爽やかそうな大人の女性で少し安心した。
「観葉植物を探しているのですが。」
そう答えると、女店主は早口に植物の名前を並べていった。植物の名前など今まで気にしたことのなかった僕は、彼女の言葉が少しも理解できずに狼狽した。彼女もそんな僕を見兼ねてか、実際に見てもらった方が良いと言って店の奥へ消えていった。
それから彼女は大きな鉢植えの植物を3つほど持ってきてくれた。そのどれもが自分のイメージよりも随分大きいものだったのだが、彼女の好意を裏切らないように、僕は断らずにその植物たちを注意深く観察する事にした。
ちょうど最後に店主が持ってきてくれた植物は、緑色の立派な幹が三つ編みのように絡まり合い真っ直ぐ天に向かって伸びていて、その天辺には僕の手のひらより大きな葉っぱが青々と茂ってきた。まるで大木のミニチュアを見ているようなそれに僕は一瞬で目を奪われた。
「パキラは育てやすくて、初めての人にはお勧めですよ。水も毎日あげなくて大丈夫だし、ちゃんと面倒を見てあげれば10年でも20年でも生きます。それにね…」
店主はゆっくり僕の方を見て、さぞかし大切なことを言うかのように一瞬口を止めた。僕もウンウンと植物を見ながら流し聞きをしていたのだが、その様子を見て彼女の方を向いた。
「それに…なんですか?」
少しの間沈黙があったので僕は堪らずに彼女に聞いた。彼女はその間をなんとも思っていないように落ち着いかそぶりで、改めて口を開いた。
「パキラはね、幸福の木って言われているの。」
勿体ぶったわりには、なんだ、そんな事かと僕はがっかりした。てっきり葉っぱには毒があるとか、珍しい果実が出来るとかそういう驚きを期待していたのだが、その予想は大きく外れた。そもそも幸福のために植物を持ち込もうと思うほど僕の気持ちは前向きではなかった。
そうは言っても、こんな初心者に優しく説明をしてくれた女店主のこともあり、僕はこのパキラを買う事にした。
値段を聞いていなかったが、観葉植物なんてせいぜい1,000円前後だろうとたかを括っていた僕は、レジでこの値段が5500円もしたことに改めて驚いた。
それでも今更引き下がるわけにはいかなかった。店主は嬉しそうに巨大なパキラをビニールに包んでいった。そらから僕の自転車のカゴに詰めこんで、改めて「良い事があると良いね」と言った。
会ったばかりではあるが人のいい店主に言われると悪い気はしなかった。僕は苦笑いして、パキラを片手で支えながら自転車をゆっくりと転がした。
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