春直―1 懐かしい夢
都会から離れた森の奥、獣人を中心とした集落があった。オオバというその村は、大きな問題もなく平和な時間が過ぎていく。
大昔、とある目的を持ってやって来た人々によって作られた村だが、その事情を知る者は既にない。それが明らかとなるのは、もっと後のことだ。
春直は大人しい少年だ。大人数で遊ぶよりも書庫で本と戯れていることを心の拠り所とするような子で、両親を困らせることも少ない。
今日もいつもと同じように、春直は木陰で本を読んでいた。
「春直、遊ばないの?」
「うん、これ読んでから」
「えーっ」
「ほっとけよ。お前はこっちに来て一緒に遊ぼうぜ」
「はーい。……またね?」
「うん」
同年代の子どもたちが森で宝探しに興じる中、春直は目の前の本に目を落とす。それは少しだけ難しい言葉で書かれた小説だ。
「……」
物語の中で、主人公の少年はある日故郷を失う。それは思いも寄らない大国同士の小競り合いの中で発生した、飛び火的な事件だった。公式記録にも残らない事柄だったが、自分の身以外の全てを喪った少年は決意する。
必ず、故郷を消した者たちへ復讐を果す。それだけを胸に旅立ち、同様に王国や戦争に恨みを持つ者たちと出逢って行く。
紆余曲折の末、少年は何を手にするのか。春直が読んでいるのはまだ旅の中盤付近で、その先はまだわからない。
自分とは縁もない恨みや喪う痛みを描き出すファンタジー戦記もので、春直は昼夜を忘れるほどはまっていた。縁がないからこそ、夢中になることが出来るのだが。
「……ふう、今日はここまでかな」
主人公たちが、ようやく敵の一つである大国に足を踏み入れた所で本を閉じた。今後彼らがどう行動して結末へと至るのか、早く知りたいがその気持ちを抑える。
春直は周囲の人よりも本を読む速度が速く、朝から読み始めたその物語は後半に差し掛かっている。
気付けば、日が西に傾いている。少し寒さを増してきた空気に身を震わせ、春直は帰路につく。
夕食のにおいが鼻をかすめ、春直は猫耳をぴょこんと立てた。この匂いは、きっと春直の好きなものに違いない。
「ただいま!」
「お帰り、春直。たくさん読めたかしら?」
手を洗いうがいをしてからキッチンを覗くと、母が鍋をかき混ぜている。湯気立ち昇るにおいを嗅いで、春直はぱっと笑顔を浮かべる。
「今日のご飯、シチュー?」
「正解。美味しいパンも買って来たし、お父さんももうすぐ帰って来ると思うわ。一緒に食べましょうね」
「はーい」
春直は両手を挙げて万歳すると、いそいそと母がかき混ぜる鍋を覗き込む。鍋の中では赤や黄色、緑色の野菜が煮込まれ、ぐつぐつと音をたてていた。
飽きもせずに鍋を見詰める春直に、母はくすりと微笑むと一つ頼みごとをした。
「春直。食卓にお皿とスプーンを並べてくれる? それから、飲み物も」
「わかった」
ぱたぱたと食器棚へ走る息子を見送り、母は鼻歌を歌いながら最後の仕上げに取り掛かっていた。
その後父も帰り、三人で温かな食卓を囲む。ホワイトシチューはもうもうと湯気を上げ、視界を白く染めた。それにカリカリに焼いたパンを浸し、頬張る。
口の中をパンとシチューで満杯にして、春直は幸せそうに目を細めた。それに気付き、母も父も優しい表情を浮かべる。
「――ほら、歯を磨いてしまいなさい。寝るのはそれからよ」
「うん」
母の言いつけを守り、春直は父と並んで歯を磨く。それが終わる頃には、睡魔に襲われ船を漕いでいた。
どうにかして目を覚ましたいが、体が言うことを聞かない。耳もしっぽも垂らし、力なく目を閉じる春直を抱き上げたのは父だった。
眠気眼をこすり、春直は顔を上げた。ぼんやりとする視界に、父の顔が見える。
「お父さ……」
「ベッドに運ぶ。さっさと寝なさい」
「はぁい……」
やがて布団に押し込まれ、春直は眠りについた。
「……お母さん、お父さん」
目が覚めた時、春直は自分が泣いているのに気が付いた。両腕で顔を覆うようにして、春直は深呼吸する。
(昔の夢なんて、久し振りに見たな……)
ここは、銀の華の本拠地・リドアスの一室。春直は涙を拭くと、伸びをしてからベッドを下りる。顔を洗って涙の痕を消すと、着替えて食堂へ直行した。
まだ朝日が昇り切らないが、誰かはいるかもしれない。春直は今すぐに、誰かと話がしたかった。
「おはようございます」
「おはよう、春直。早いな」
「克臣さん」
掛け時計の時間は、朝五時半。誰もいない食堂で、克臣が一人熱い緑茶を飲んでいた。
春直が冷蔵庫のミルクを温めていると、克臣は後ろから「ほら」と何かを投げてよこした。オレンジよりも赤く熟れた手のひらサイズの木の実を受け取る。
「わっ。……これ、サロ?」
「の、でかいやつ。昨日、文月堂のおっさんが通りがかりにくれた。大量にあるから、一つぐらい構わないだろ」
「うわぁ、おいしそう……」
春直の耳がぴょこんと立つ。温めたミルクと大きなサロを手にテーブルへ戻ると、克臣が隣に座れと促した。
「――おいしいですね、このサロ。流石、唯文兄のおじいちゃんです」
「ああ。……それで、夢見でも悪かったか?」
「え……?」
ぴたり、と春直の動きが止まる。目に見えて挙動不審になった少年を見て、克臣は苦笑した。
「わかりやすいんだよ、お前も。それに、目が充血したままだ。――ほら、隠さなくて良いから話してみろ」
「……」
散々迷った春直だが、克臣に促され続けて首を縦に振った。
「……オオバにいた頃の夢を、見たんです。本当に久し振りに」
「……」
「お父さんもお母さんも、元気でいて。ぼくの好きなシチューを作ってくれて、眠たそうにしているぼくを部屋まで運んでくれて。……昼間のことも見ました。あまり仲良くはなかったけど、同い年くらいの子たちも元気でいて。……目が覚めて、もういないんだって思ったら」
「そっか」
ぽすん。夢の内容を思い出して震える春直の頭に、克臣の手が置かれる。驚き目を瞬かせた春直が彼を見上げると、克臣は困ったような嬉しいような、複雑な笑みを浮かべていた。
「よく話してくれたな、春直」
「克臣さん……」
「けど、ごめん。俺たちには、もう過去に春直を戻してやることは出来ない。やることが出来るのは……ここで、俺たちと一緒に生きていくという新たな人生だけだ」
ぐりぐりぐり、と克臣は乱暴に春直の頭を撫で繰り回す。大人しく撫でられていた春直は、その行為が克臣の精一杯のエールなのだと気付いている。
虚勢を張ることも偽りを言うこともなく、克臣はただ、真っ直ぐに春直に向き合ってくれる。それは彼だけではなく、銀の華のメンバー全員に言えることだ。
だからこそ、春直はここに居たいと思う。
「……充分です。ぼくは、ここに居られるだけでとっても嬉しいので」
「泣きたい時は泣いたらいい。笑いたきゃ笑え。どんなお前でも、ここにいる奴らは手放さない。春直が春直を好きになれるように、幾らでも伝えてやるよ」
「知ってますよ、充分過ぎるくらい」
苦笑し、春直は自身の右目を覆うように触れる。そこにある瞳は赤紫色に変化し、左目の紫色と違う。これはある出来事と経てそうなってしまったのだが、春直が「充分過ぎるくらい」だと言った背景にはこのことがある。
これからも、おそらくオオバのことを何度も思い出す。その度に涙が流れ、春直の心を搔き乱すだろう。
それでも、そんな春直でもいいと受け入れてくれる仲間に出逢うことが出来た。それが何よりの財産だ、と春直は思うのだ。
だから。春直はお返しだとばかりに、克臣の頭に手を伸ばす。驚いた彼の頭を撫でてやり、悪戯っ子の顔で笑った。
「克臣さんも、たまには泣いて良いんですよ?」
「くくっ、泣くかよ」
ありがとな。そう言った克臣の目は、少しだけ潤んでいるような気がした。
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