ファースト•ラブ
阿部 梅吉
第1話
最後のキスはタバコの香り。なあんてまるで歌にあるようなことが現実に起こっても、なんの感情も湧かない。ただなんとなく、ああ、こういう感覚なんだ、ってわかるだけ。それで終わり。でも言葉が実感となる感覚は悪くない。確かに私は存在していたと思える。たとえどんな形になろうとも。
どんな形になろうとも、私はただあなたを見守るだけの存在。ずっと、ずっと。
私は前までもっと大きかった。大きい一つの塊だったものが、だんだん小さくなって今の私になった。暗くなって閉じ込められて、また光を浴びたとき、私はコンビニにいた。町の外れのどこにでもあるコンビニ。機械的に声を出すやる気のない店員と、頭にこびりつくほど繰り返されるアップテンポな曲と、朝でも夜でも同じような眩しすぎる白い蛍光灯……。
光……。
私たちの多くは光を求めていたのだろう。私が今の形になる前、まだ私が若く大きかったころ、私はどんな人になるのだろうと目を煌めかせて想像していた。それでもなんとなくわかっていた。結局私たちはただ王子様に選ばれることを夢見てじっと待つしかないことを。私自身の努力じゃどうにもならなく、選ばれるのは運でしかないこと。それと、選ばれなければ死が待っていること……。
若い、淡い期待は光を浴びてから一日で崩れ去る。
私は棚の奥の暗いところに押し込まれた。ごくたまに光を浴びることもあったが、それも一瞬。ちょっと前に移動したと思ったらまたすぐ闇に放り込まれる。
闇……。
一寸先は、闇。なんて言葉があるらしい。私の場合、一寸先は四畳一間のオンボロアパートだった。夜は寒いし壁は薄いし、朝にはお隣さんの目覚まし時計の音が聞こえてくる。これが私の、愛しの王子様のお城。
私の王子様(と呼ぼう)との出会いは覚えているもののありきたりな展開だった。
黒いロングシャツに黒いジーンズ。黒い履きつぶしたスニーカー。目が見えないほど長い前髪。背中には「ぎたー」。
あなたは黒い財布を取り出して何やら頭を掻きむしり、出口まで戻ろうとして、でもやっぱり戻って来て勢いそのまま、私を引っ掴んでそものまま連れて帰って来てしまった。「こと」が運ぶときは一瞬。
そんなわけで、あなたの大きな「ぱそこん」の―—この狭い部屋に不釣り合いな大きな「ぱそこん」の―――前に鎮座しているわけなのです。もうかれこれ二日間。そろそろ何か次のステップに繋がってもいい頃合いだと思うけれど。
この二日間でいろんなことがわかった。「あなた」は昼過ぎに起き、外の光も浴びないまま「ぎたー」を弾く。何も食べないままパソコンに向かう。かと思ったら床に置いてある食パンを何もつけずにもそもそ食べる。ミントガムを噛む。一本だけあるタバコの箱が一つだけ、私の横に転がっている。
夕方に誰かから「でんわ」が来る。あなたはひどく動揺している。
「ああ……はい……今の世の中、こんな状況ですしね……ライブなんてできないですよね……」
あなたは妙にペコペコしている。声は意外と普通。高くも低くもない。
「ああ……はい……全額? 八割? いや、それでも有難いですが……。十万ですか。ああ……そうですよね……はい……いえ、ライブが中止なのはこちらも覚悟していたので……はい……いえ、ええ……」あなたの顔はみるみる青ざめる。
「ええ……はい……失礼します……」最後には消え入るような声になってしまった。どうやら相当追い込まれているらしい。もともと猫背気味なのがさらにひどくなる。深いため息。
矢継ぎ早に誰かに「でんわ」。
「ライブ、こっちが八割負担だって。やっぱり中止」さっきとはうってかわって早口であなたは喋る。「『しおどき』だろ」と声が聞こえる。
「今はみんなバラバラだし状況が状況で練習もできねえし。いい頃合いじゃねえの? もう三年前とは違うんだよ」でんわの相手の声は低く、大人びた声だ。
「また落ち着いたら何かやろうぜ」
「それまでは『カイサン』ってことか?」
「仕方ないだろ。状況が状況なんだから。今は生きることを優先しろよ。学校だってやってないし、スタジオもあたったけど軒並みダメだ」
「カイサンはしない」あなたは強い口調で言う。
「方法なんてライブだけじゃないだろ」
「金はどうすんだよ」でんわの相手も強い口調だ。
「とにかく金がいる。生きてくことを無視すんなよ。カラオケのバイト、シフトなくなったんだろ? コールセンターも一時閉鎖してるらしいじゃないか」
「俺のバイト先で生きてるのはCDショップだけだな、でもそれも夜はなくなった」
「お互い今は生活最優先だろ。でも、正直今はみんなテンションがライブに向かってねえんだよ。仕事してたり結婚してたり。みんないろいろあるだろ、生活が」
「あるよ。あるけど、音楽がないと何もないのと一緒だ」
「まずは命だよ」でんわの相手は諭すように言う。
「命あっての音楽だ。生活をバカにすんなよ。俺はお前の面倒まで見切れないからな」
「でも、次はいつだ?」
「さあな……」
「……」
静寂が訪れた。一瞬がまるで一年のように感じる沈黙だった。
「とにかく今は活動休止ってことで」
でんわは途切れた。抑揚のない機械音だけが部屋に響いた。
しかしもう一件。でんわが鳴り響く。あなたはすかさず出る。
「メッセ、見た?」今度は女の人の声だ。
「見たよ。結論は変わんないってことでしょ」
「……やけにあっさりしてんね」
「まあ。わかってたことだから」
「……」
またも沈黙。一瞬が一年に感じるような重い空気。
「それじゃ」
「切るんだ」とでんわの中から矢継ぎ早に声。
「切るよ、じゃあ」あなたも素早く言い返す。
訪れたのは、本当の沈黙。
あなたは夜まで曲を弾く。あなたは夜まで曲を作る。あなたは夜を明かすまで曲を聴く。なんだか切ない恋の歌を。ある女性が誰かと恋をし、別れてしまった曲だ。「明日あなたはどこにいるんだろう」、みたいな。
彼のおかげで私はすっかりいろいろな曲と言葉を覚えてしまった。それでも本当の歌詞の意味はわからない。
あなたは「ぱそこん」で動画を見ている。そこには緑の髪の女性が映っている。その人は何かトロフィーのようなものを持っている。
「どんな曲であっても」と彼女は言う。
「自分が気に入ってなくても、誰かが気に入ってくれることもあるから、発表しなきゃだめ」
二日目の朝、もとい昼はまた、あなたのぎたーから始まる。たまに天井からどんどんと足音が聞こえる。きっと上の階の人が何か怒っているのだろう。
あなたは私に手を付けることもせず、またもそもそとパンを頬張っている。私の方はいつでも準備万端なのだが。
そんなにパンがいいのだろうか。正直食べ物の違いはよくわからない。確かにコンビニ時代、パンは定期的によく売れていたような気がするが。同じように私の仲間はどんどん売れていた気がするから、その差はよくわからないのだけれど。
でも私の方が肌ももっちりつるつるしてるし、パンみたいにボソボソ崩れないし、食べやすいし暖かいし……と、いけない。なんだかネガティブになってる。他のものと比較しても意味のないことなのに。
ここに来てから2日目、昼過ぎにあなたは出て行った。夜遅くに帰ってきた。ちょっとだけ疲れているように見えた。髪もぼろぼろで……でもそれは元からかな……。
あなたはまたぎたーを弾いた。ぱそこんから流れる曲に合わせて。それは悲しいラブソングに聴こえた。
その日、あなたは夜通しぱそこんに向かっていた。
私はただ、見守るだけの存在。
生物は不便だ。何かを食べて排泄しないと生きていけない。恋をして誰かと一緒にならないと子孫を残さない。私のようにたくさん体を切られたら別の個体になるわけではない。
泣いた日も笑った日も、同じように食べなければ生きていけない。
私はただ見守るだけの存在。
やがてあなたの血肉になることを待ちながら……。
それでもあなたは何も食べずに、誰にも何も語らずに、一心不乱にぱそこんに向かう。
なぜこの人は頑張っているのだろう。
なぜこの人は生きているのだろう。
なぜ。なぜ。
なぜ私を食べないの……。
曲を新しく作ってさ、今DTMやってるし……ドラマの代わりにカホンか何か使ってできないかな……それでも音うるさいかな……家で練習するのはきついよな……なんか考えるよ……とりあえず今の期間のうちにたくさん曲をストックしといてさ……量産する。そんでまた……会えるようになったら合わせよう……いつになってもいい……一年後でも三年後でも十年後でも……俺は音楽やってるから……俺はずっとやってるから、やらないと生きてけないから、だから、また戻ってきたいときに……戻って来れるときに……いつでも戻ってきて欲しい……本当は。傲慢だけど……事情がそれぞれあるのはわかってるけど……来なくてもいいけど、俺は待ってる。ただ音楽のために生活を優先させる時期も必要だと思う。それまでは人間活動優先で……いいから……それも音楽のためになるから……きっと……
「できた」と男が呟いたのは、もうすっかり日が昇り切ったころだった。それまではずっとパソコンに向かっていた。夜通し。
「できた、できたぞ」
男は赤い目をしてボロボロの髪のままスマホを取り出して電話をかける。
「……朝っぱらから何」七回目のコールで相手が出る。低い声の男だ。
「曲ができた」
「朝の七時に言うことか?」電話の相手は呆れ声だ。
「言うことだね。聞けばわかる。その前にうどん食べてい?」
男はコンビニで売ってるカップうどんを手に取り、蓋を取ってお湯を注いだ。
「うどん? 好きだね。お前、いっつもカップうどんな」
「いいだろ。これがどんな調子でもいつでも食べれるものなんだよ。手軽だし安いし美味しいし。昔からハレの日にはうどんって言うだろ? でもその前に、」
男はタバコを手に取る。何回かライターをカチカチ鳴らす。
「……っはあ」私は彼の吐いた煙を全身に浴びる。
「禁煙は?」
「曲ができたときにだけ吸ってる」
「要するにしてないんだな」
「そういうわけなじゃない。ちゃんとこれしか買ってない」
声は聞こえなくなってしまった。微かに唇の優しい感触がして、そのあとは一気に真っ暗闇になった。タバコの香りがした。苦い。胸が苦しいような気もする。きっと副流煙のせいだ。
私の全身が細かく砕かれているのがわかる。貴方の歯の音が響き渡る。あとはもう、海の砂のように……。
どこかに落ちた。どろどろに溶かされる。
私はあなたの中にいる。
あなたと一つになるのだ。
あなたと溶け、あなたの血になり、細胞になり、骨になる。
私はあなたで、あなたは私になる。
私があなたを作る命になる。
そのために私は生まれてきたのだ。
溶かされる刹那、私はあなたが弾いてきたあの切ないラブソングを思い出した。
明日の今、あなたは何を思っているんだろう、そんな曲。
その歌詞の意味、今ならちょっとわかる。だって私は思ってしまった。あなたの笑顔は、本当に最後にしか見られなかったから。私を食べる、そのほんのちょっと前だけ、ほんの一瞬、笑顔を見せてくれた。私の服を取り、お湯を注ぎ、体が柔らかくなるまでの三分間、たった三分間だけ、あなたは私の前で笑顔を見せてくれた。
それだけでもよかったと思うのに、ああ、なんて皮肉、もっとあなたを見ていたいと思った矢先、ずっと念願だったことが起きた。
私はあなたに食べられた。
今はもう、あなたの一部……。
地面の底から地響きのような声が聞こえた。
「じゃあ、今から弾きます!」
「弾くのかよ」
「じゃあこのうどんのように長ーーく途切れない音楽生活を目指して」
「投稿すんの?」
「するよ。誰かに届かないとただの音だ。俺がしたいのは音楽だ」
どこからか、悲しくて切なくて、それでいてちょっと元気になるような、そんなメロディが聴こえてきた。私が人間だったら泣いているだろう。明日のあなたが笑顔でいるよう願いながら。
私はこの曲、好きだと思った。
ファースト•ラブ 阿部 梅吉 @abeumekichi
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