しんでいるとはかぎらない

雲をみる

しんでいるとはかぎらない

「いやぁ、見てぇ、ほら、このお嬢さんみたいな手ぇ」

通夜の夜、手を組んで眠るママの枕もとでババアが歌うようにそう言った。島のあちこちから湧いて出たジジババが、この度はこの度は、と大声で挨拶を交わし合う。灰緑色のズボンがどすどすと上がってきて香典返しの指図を始める。昨日から何度か見た顔かもしれないが無遠慮な顔や体型はどれもこれもよく似て、その日の服の色柄でしか見分けがつかない。台所で湯をわかし、線香をたきビールを抜き、奥の部屋で勝手に布団を敷いて横になり始めるものまでいて永遠に引き上げそうにない。


 ママは、離婚した後、私を連れて郷里のこの島へ帰り、中学校の英語教師をしていた。庭にパラソルを立て、気が向けばアレサを聴きながらドライブをした。島には用事もないのに車で走り回る人間などいなかった。

私は高校の3年間をこの島の古家でママと2人で過ごした。同級生はみんなブラックチョコレートみたいに日焼けしていた。


1週間ほど経った頃。まだ、朝、目を覚ますと、見知らぬオバハンが台所で米を研いでいたりはしたが、ようやく思った。1人になったのかな。血の繋がった家族や親戚は誰もいない。心の糸がすうっとひっぱられた。か細く透きとおって見えなくなりそうだった。

庭先で洗濯機の中の洗濯物が出たり引っこんだり回るのを見ていて、ああ、と思い出した。そうか。1人いるかもしれない。




 家に帰ったら、じいさんがいた。

蛍光オレンジのラインが入った紫色のミズノのジャージ上下を着てリビングの真ん中にあお向けになっていた。両腕をゆるく曲げて頭の上にあげ、頭と足をわずかに床から浮かして、尻を支点にV字らしき体制で揺れている。上着はあごまできっちりファスナーを上げ、足もとはラクダ色の靴下。ヒップなファッションに見えなくもない。紙粘土だろうか。樹脂のようなものかもしれない。どこかで見たことのあるじいさんだった。

 そっと息をころしてリビングのドアを閉めた。

茶色い液体の残りがひからびて底にこびりついたカップを洗うか、パソコンのメールをチェックするか、ベッドに腰かけて少し迷い、結局どちらもやめにしてリビングへ戻った。

 やだなー。父親が化けて出た。




「うんこさん?」

 電話の向こうで心配そうな声がした。

「イナリ! ちょっと、なにあれ、人形!」

 私は挨拶も忘れて、素っ頓狂な声をあげた。勝手に家に入ってこれるのは、イナリか泥棒しかいない。

彼が私を「うんこさん」と呼ぶのは、私の名前が、雲の子供と書いて、くもこだから。私に、なんとなくキツネっぽいからイナリ、などと、心外な呼び方をされる仕返しなのかもしれない。


「すいませんすいません。ほら、あれ、あの、覚えてるかな」

「ん、まあ、なんとなく」

「ウエちゃんに、預かってくれって頼まれちゃって」

そうか、やっぱりね。あれは、あの時のじいさんなのだ。

「最初離れに置いてたんだけど、狭いし、庭は雨とかあれだし。勝手にリビング借りてたんです。あの、すぐ引き取りますから」

「べつにいいんだけどさ」

「いつ帰ってきたんですか?」

 窓から覗けば、いるかいないかすぐにわかるだろう。

「じゃ、おれ、3時頃そっち行きますから、じゃ」

 じゃっ、て、あの、と声に出す前に切られた。


イナリは離れの間借り人である。最初は近所のワンルームに住んで、うちの離れを作業場にしていた。何を作業しているのかよくは知らない。そのうち、ローンで大型バイクを買って毎月きつくなったからと、家賃の高いワンルームの方を引き払ってこっちに住み始めた。離れにはバス・トイレとキッチンはないから勝手に母屋の鍵を開けて使っていいことにしてある。

夜、帰宅すると家の灯りがついていることもあって、トイレの前を通りかかると中から「入ってます」と声がした。


 春頃だったと思う。イナリに誘われてウエちゃんの展覧会を観に行った。改装途中の古いマンションの一室を会場にしていた。

風呂場に置いたビニールテープぐるぐる巻きの太った金髪の女と、ベランダに並んだ檻の写真を鑑賞した。

奥の和室の襖を開けてぎょっとした。6畳間のまん中にあお向けのじいさんがいたのだった。

じいさんはV字の格好でノロリノロリと体操していた。バッテリーは畳の下にでも仕込んであるのだろう。腹のあたりから低いしわがれた声がしていた。ジャージの生地をくぐった、こもった声。聞き取りにくい方言。どうやら話の内容は春話らしい。老人の腹から漏れるエロ話は、不明すぎて呪いとか祈りにも聴こえてくる。話はいったん終わると、しばらくのポーズのあとまた最初からはじまった。

恐る恐る近づいてみる。禿げ頭から額が続き、眉毛が頼りなげに貼りついている。細い両目がうっすらと開き、唇もちょっと開いている。頭上にのせた手の平だけが不釣り合いにがっしりと大きかった。

ウエちゃんは、帰りがけに不安そうな眼をして、ありがとうありがとうありがとう、と、早口で3回くり返した。


なんでここにいるのだ。死んでいるとは限らないのだから、化けたわけでもないかもしれないが、父親が化けて出たという気分がいちばんぴったりきた。


玄関のチャイムが鳴っていた。

シャワーを浴びたあと眠ってしまったらしい。ドアの鍵をまわす音が聞こえた。

「うんこさーん! うんこさーん!」

うるさい! 勝手に入ってくれば? 起き抜けで声が出ない。

「飯でも食いますかぁ! 生きてますよねー?」

 時計を見上げた。7時を過ぎていた。


「知ってた? ヘルニアって、軟骨なんだってねー」

 はあ、なんですかヘルニアってと、相槌を打ちながら、イナリはかなりあきれている。母親が死んだばかりの人間がゴリラの絵のTシャツを着てビール片手にトリの軟骨をばくばく食っているから。だけど他にどうすればいいというのだ。棺は閉じられてしまった。私の目の前で。エレベーターのドアが閉まるよりも冷酷に。

「ウエちゃん、あの作品、ベルリンでグループ展に出すらしいんですよー」

「ベルリン? 持ってくの? じいさんを?」

「出発まで預かったんです。旅費かさんでアトリエいったん閉めたらしくって」

 生きてるか死んでるかもわからない父親がじいさん人形に化けて出た気がするって話は、しそびれた。

「いいわよ、べつに。そっち狭いでしょ」

なぜ、そんなことを言ってしまったのか。

「うわ、すいません。さっすが、うんこさんち豪邸っす〜」

「雨漏りしてるけどね」

「あ。でも、明日から、おれ、ちょっといないですけど」

「え? あ、そ。どこいくの?」

「写真撮りに」

「はあん。いつまで?」

「1週間くらい」

「ふうん」

本当のことを言えば、しばらく近くにいてくれればいいなと思っていた。なんか、まあ、ちょっと心細い。大人になると、いろんなことを言いそびれる。

「冷たい。ひゅ~、さむ」

「・・・そんなふうに言わないでくださいよ」

 エサをあげたらうろうろするんだろうか。近所の猫みたいに。煮干しとか。イナリのことを好きなのかどうか、自分でもよくわからない。私は、いつからこんなに、いろんなことがわからなくなったのか。

「犬山さん返す日までには帰ってきますから」

「イヌヤマさん?」

「ウエちゃんがそう呼んでたから、あのおじいさんのこと」

「ふうん」


「一緒に行こうかな。写真とか撮りに」

「え、だめですよ」

「なんで」

なんで、だめなのよ。

「なんでも」

「ちぇ」

「ちぇって。仕事いいんですか」

「さあ。よくもないけど」

 結局その夜は、すいませんねー、すぐ帰ってきますから、冷た~、そんなこと言わないでくださいよぉ、と酔っぱらって同じこと繰り返しながら妙にご機嫌な感じで2人とも母屋のそこら辺で寝たけどよく覚えていない。


翌日の朝、イナリが帰っていったあと、はじめて、じいさんに触った。

両手を掴んで体を起こしてみる。あっけないほど軽い。かすかに湿った手の平。向かい合わせに立つと身長は私の首のあたりまでしかない。頭の芯でフォークダンスのマイムマイムが低くうなった。頭痛がした。棚をひっかきまわしてセデスの箱を探す。

電話だ。

「はああい」

「元気そうで安心したわよ」

 懐かしいマネージャーの声。


午後、3週間ぶりに事務所に顔を出した。島のオバハンに持たされた香典返しを配り終えると仕事は終わってしまった。のろのろと請求書の整理を始める。製薬企業の会社案内、白衣を着てキリッとした笑顔、モデル出演料。家電製品のちらし、生成色のエプロンで優しく微笑む、モデル出演料。先月はこの2件だけ。このあと2週間、仕事は入っていなかった。

モードな古代魚のような唇でもアジアの香りの切れ長の目でもない。だけど、世の中が無味無臭の笑顔を必要とする限り需要はあるだろう。中年になれば中年の、老人になれば老人の。有名かどうかなんて、私にはどうでもいいことだ。

 休暇をとった。




地下鉄の階段をのぼりきる。人混みに押されながら、しばらく石膏のように白くじっとしていた。全身が、透けたミルク色のバリアに包まれ、街の喧騒は入ってこない。大切だったものはすべてママが持ち去り、他人事の世界に取り残されていた。

 ショーケースには魚の死体に貼りつけられた値段がある。どろんとした見知らぬ女の視線が、私の掴んだ、たらこのトレイの赤を追いかけてくる。

 血管の透ける薄い膜から、無数の卵をスプーンで掬いとる。ガラスボウルの中で、密集する赤い卵の塊を、金色の酢と白いマヨネーズでゆるめる。茹でたパスタにからめる。卵はびっしりとパスタを覆いつくし微塵も動かない。卵がいっせいに孵化してパスタを食いつくしていく場面が浮かんで食欲が失せた。




島から乗って帰ってきたライトバンに犬山さんを積み込んだ。

 バックシートに押し込んでいる時に通りがかった老婦人の表情が一瞬ひきつったと思う。いつだったか夜道で横たわる男を見つけて死んでいるんじゃないかと思ったが、そのまま通り過ぎて数分後には忘れた。エンジンをかけながら、さっきの老婦人が警察にかけこまないことを祈った。


気晴らしに高速を走る。犬山さんは後ろの座席にころがって天井を向いている。いつのまにかバックミラーに赤紫色の夕日が映り始めていた。

見知らぬインターチェンジをぬけ、必要な着替えや化粧品、水と簡単な食料を買う。レストランで食事をするのは面倒だった。夕方になると、できるだけ大きなホテルを選んで予約を入れた。なぜか犬山さんを梱包することや、車に残しておくことを思いつけなかった。

 私1人なら、たとえ耳にピアスを7つ突き刺していても、ちゃんと見える自信があった。しかし脇の下には、紫のジャージの老人が、体をやや「くの字」に曲げて巻きついている。フロント係は笑顔をひきつらせた。

宿泊カードの職業欄に「キュレーター」と書く。イナリから聞いたことのある単語だった。きりりと唇を結んだパターンの笑顔をつくる。「作品を、急きょ、展覧会場に運んでいるんです」。キュレーターが作品を急きょ展覧会場に運んだりするものなのかは知らないが、フロント係だって知らないと思う。


何日かたった頃、一度だけ、犬山さんと同じベッドで眠った。ひんやりした皮膚の感触は夏の夜には悪くもなかったが、だからといっていつまでも触っている気になれず、あお向けに2人並んだ。闇に目が慣れてくると開いた薄目が気になってきて、うつ伏せにひっくり返した。今度は窒息させているような気がしてきて、しかたなくあお向けに戻す。

野道の脇に車を置いて歩き出したのは、このままだと永遠に走り続けなければならない気がしたからだ。犬山さんは、壊れたり薄汚れたりしながら、妙な生々しさを放ち始めていた。




 そこはバス停ではなかったが、バスは、あたりまえにやってきて道端に止まった。

「ずいぶん待ったでしょう」

初老の運転手がにこやかに声をかけた。日焼けした顔に紺色の帽子を深くまっすぐにかぶっている。私と犬山さんは引きずりこまれるように入口のステップを昇った。

バスは窓を全開にして走り続ける。真夏の原生林に花は咲かない。濃淡の緑が、ただただ広がる。生きています、と言わんばかりの夏草の匂い。犬山さんは隣の席を一人分陣取って座っている。時間をぐにゃりと押しひろげるようにバスは遅い。


 気がつくと、島の実家の食卓で、ママと犬山さんとで黙って納豆を混ぜていた。納豆は灰色のナマコに変わった。それから、どこだか東南アジアの国の小学校の中庭で犬山さんと話をした。ママは消えていた。

「ねえ。何歳?」

(ふぁふぁふぁ。もう恥ずかしぃて年いわれへんな)

「・・・」

(ないしょや、ないしょ)

(しょうもな)

「エロ話するのやめてくれる?」

(はぁ、おんなのひとはなぁ、すごいなぁ、いうはなしや)

「だから、もういいって」

(ふぁふぁ)

「体操は黙ってするもんじゃないの?」

(はぁ生きていくには、まず体操やな)


 バスがブルブルとひときわ大きな音をたてて止まった。犬山さんは、前のシートの背にあごをぶつけて、つっかえ棒のような格好で止まった。

「終点だけど。ふくださん?」

「え?」

 眠りこけてしまっていたのだ。

「宿はふくださんじゃないの?」

 いえ、と小さく首を振る。

「そう。次のバスは3時間後なんだよね。なんにもないよ、このあたりには。車があればカンガルー公園まで行けるんだけどねぇ」

 彼は心から残念そうだったが、カンガルーはべつに見たくなかった。運転手は立ち上がり、ひとつ前のシートまでやってきてスマホの地図を引き伸ばす。私は斜めになった犬山さんをシートに戻した。

「まぁカンガルーがいるだけなんだけどね」

 それからしばらく黙って地図をのぞき込んだあと、運転席に戻ると、バスをゆらりと発車させたのだった。

 え。

ふしぎな瞬間だった。バスは終点から先、路線をはずれてどこか別の次元へ移動してしまうような気がした。一瞬、運転手はとても人間ではないような気がした。

 けれど、バスは、ほんの10メートルほど移動しただけで道路わきの空き地で土を踏んでみしみしと止まった。隅にぽつんと建物がある。塗料のはげかかった看板には「レストハウス」と書いてあった。ここはレストハウスの駐車場らしかった。バスはいつもここで折り返すのだろう。

「じゃあ、この沼へは行けますか?」

 私は、あてずっぽうに地図を指さしていた。◯◯◯沼、と書かれた沼の名前は馴染みのない並びのカタカナで、とっさには発音しにくかった。

「歩いては無理だなぁ。25キロ、もっとあるかなぁ」

「連れて行ってもらえませんか?」

ふいに言葉が出た。

運転手は少し驚き、しばらく考えてから「じゃあ、ちょっと待っててね」と言い残してレストハウスのなかへ消えた。

 誰もいないがらんとしたバスの後部座席から外を眺める。背の高い雑草が生い茂り、草のすき間にちらちらと光が見え隠れした。光っているのは海面のようだった。


無人の展望台や、小さな木立ちが、時折ぽつんぽつんと現れる。目印などほとんどない道を、運転手は何度も地図を確かめながら進んだ。

「実は私も行ったことがないんだよね」

 心なしかはしゃいでいるようにみえる。バスは、今度はほんとうに路線をはずれて走っているのだった。

やがて道の先にすっとラインが光って、巨大な銀色のかたまりが姿を現す。

「あったあった。いやあ、大きな沼だねぇ」

運転手はバスを止めて、もう一度地図を確かめる。

「うん、ここだ。間違いない」

道路から、やや奥まった沼の岸まで細い砂利道がのびている。

「ほら、その道まっすぐいくと沼へ出るよ」

私はうなずく。

「こっち行くと駅だからね。歩くと、1時間半」

彼は、犬山さんを、ちら、と見て言いなおす。

「いや、2時間かな。そのお人形さん持ってだとね」


「それ、どこかで買ったの?」

とまどってから私は答える。

「持ってきたんです」

「ははは。大変でしょう。変わってるねえ」


 ふいに、泣きたくなった。

 普通だ、と思った。お人形さんだ、と思った。

 それから、運転手は重要なことを思い出した。

「そうだそうだ。360円だね」

 私はお礼を言いながら運賃を料金箱に入れる。




巨大なセロファン紙を敷きつめて、上から100人もの狂人がいっせいに銀の粉を振りまいたに違いない。日差しを浴びて沼の水面はチリチリと輝いていた。

 私はその人と一緒に泳いでいた。

まだそう深くはなく水面から差し込む光が揺れている。私はその人をしっかりと脇に抱え、水をかき、水中深くを目指している。深さが増すにつれ耳の奥がぼおぼおと鳴り始める。さらに増すと、土や微生物やその死骸や水草のかけらや何やらわからない無数の粒子がうごめき、ぬらぬらと澱みはじめる。そして私は、しっかりと抱えていたはずのその人を、ふと、水中に放してしまった。

しばらく、ゆらゆらと揺れていたその人は、やはり例のじいさんに間違いなく、濁った水中だというのに、くっきりと姿を浮かび上がらせた。

「くもこ、勝負するか」

声がした、その瞬間、思いがけない力で、ま横から体当たりをくらわせてきたのだった。バランスを崩しながら肩で押し返したが、ゆら、と離れたすぐ先で、じいさん見事にきびすをかえした。空中よりもぐんと巨大化したその体を、ゆらりゆらりと揺らしている。タイミングを窺っているのだ。驚いたことにどこで手に入れたのか銀色のゴーグルまで装着していた。

2度めの攻撃の時、夢中で腕を強く掴み過ぎたのがいけなかった。衝撃と反動で、片方の腕が、ブォン! と音をたててちぎれてしまった。反射的に、もとの位置にくっつけなければと、私はゆで蟹の足のようなじいさんの右腕を振りかざしながら本体を追いかけたが、体が思うように動かない。左腕と両足をバタつかせるじいさんのあちこちを、手当りしだい掴んでいるうちに、左だか右だかの片足までちぎれ、続いてもう片方の足も膝のあたりで取れてしまい、とうとう腕一本になったじいさんは、その最後の腕を、ゆっくりと、そう、今まで見た姿のなかで一番堂々と、私の足もとにのばしたかと思うと、両腿にはさんで保管していたもう一方のちぎれた腕をひっ掴んだ。

「くもこはつよいなー」

そう言うと、猛スピードで視界から消えてしまった。あとかたもなく。

私は、沼の底に両手をついてひとり静かに着地した。




無人駅の改札口からは、眠りについた大蛇のようなホームが見渡せた。その先には、がっちりとした鉄の線路が続いていた。

私は靴を脱ぎ、待合室のベンチの上で腹筋をしてみる。

(はぁ、生きていくには、まず体操やな)

ロータリーに、音をたてて1台の大型バイクが入ってきた。あわてて体を立て直す。え、もしかして。さすがじゃない? イナリなの? 

薄暗がりの中でヘルメットを脱いだのは、あのバスの運転手だった。随分懐かしかった。バスに乗っていたのはもう10年も前のことのような気がした。にこにこと手招きをしている。

「よかったぁ。見つからないかと思った。お金2人分もらってたんだよ」

 え?

「はいこれ。1人分、180円返しとくね」

1人分? 

「ほんとによかったぁ。はっはぁ」 

 彼は、愉快そうに笑った。

ひとりぶん? ああ。

そう、2人だと思ったのは運転手の間違いだ。ママが死んで、私はひとりになった。間違いなかった。


思い浮かべてみる。襖で仕切られた部屋がある。ウエちゃんが現れて襖を開くと、じいさんがドイツ語でエロ話をつぶやきながら体操していた。ベルリンでの犬山さんの姿は、父が今、生きているかどうかを想像するよりも、あざやかに頭に浮かんだ。

あ。違う、まずい。イナリごめん。犬山さんを沼に捨ててきてしまった。



(終)

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