閑話09 お帰りくださいませ、種々雑多様。
「今日ーもっ、お疲れでしたっー!」
マイホームを手に入れてから十五日目。時計の針が示すのは夜十時過ぎという、夜勤時代ならこれからが本番スタートという頃合い。異世界に来てからというのも、さっぱり夜勤なんてやっていない私は、今夜も優雅な余暇を過ごしていた。
「やっぱり湯船に浸かれるって最高だなぁ…いつでも一番風呂に時間気にせず入れて、お湯の温かさも入浴剤の効能も全部独り占めできるのも、一人暮らしの特権だよね……」
長風呂を終えて火照った体を涼める為、リビングの窓を開けてソファーに横たわり。そよそよと入ってくる初春の夜風を感じながら、私はそっと目を瞑った。
テレビもパソコンもスマホもない、娯楽のないこの家では、一般家庭のような騒音はほとんどない。耳に届く音は、外の風の音、敷地を取り囲む樹々の葉が揺れる音、どこか遠くで鳥が鳴く声…自然豊かな音に包まれていた。
コツ…コツ…コツ……
「ふぁ?!なに?!」
耳慣れぬ音に度肝を抜かれた私は、そこで始めて自分がうたた寝していたことに気がついた。
ソファから転がるように降り立ち、異音のするリビングの窓辺に近づいて、そっとレースカーテンを開けてみた。
「なんだ、カナブンか。異世界にもいるんだねぇ」
異音の正体は、窓枠にぶつかるカナブンだった。実家やコンビニでもよく見かけていた虫を、この異世界でも見るなんてね。
「網戸があってよかった。虫は苦手だけど、窓の向こう側にいるなら問題なーし!窓も閉めたし、ちゃんとベッドで寝よ」
寝る前にそんな出来事があったからだろうか。その晩に長々と見た夢は、実に散々なものとなってしまったのだ。
この晩見たのは、懐かしの故郷時代の仕事中の夢だった。まだ異世界転移してから一年も経っていないのに、もう随分と過去のことのように思えるのが不思議だね。
「おっかしいなー?昨日も掃除したはずなのに、もう死骸があるんだけど……なんで?そんなにこの冷ケースが好きなの?ねぇ?」
いつも通りお客様もいない、やることもないとある初夏の深夜二時半。
相変わらず作成も販売も最小限のホットスナック周りも完全に片付け終え、とにかく暇になってしまった夜勤中の私は。アルコールスプレーとペーパータオルを装備して、中食のケースの棚清掃に向かう。暇になったらとりあえず掃除しとけばいいよね、多分。
『世のコンビニ夜勤者さんは暇になると事務所に籠って遊んでる!』なんて噂もネットで見たことあるけれど、私は例外だ。だって事務所でただ座ってても暇だし、時間の進みは遅いし、何よりもいつ寝落ちしてもおかしくないんだもん。学校終わりのぼんやりとした眠たい体を起こすには、一人言でも呟きながら売場でも徘徊して、時計の針の進みと次の納品便を待つのが一番だ。
各種一つとか二つずつしかない、ギリギリラインナップのパスタやラーメンをさっと横にどけて、それらを乗せてくれていたガラス棚をささっと拭きあげる。商品をどけながら掃除するこの業務は超面倒だけど、やらない訳にもいかない。というのも、困った住人を回収しなくてはいけないからね。
「はい、半分終わりー。で、もう十匹くらいは見つけたかな、羽虫。困ったもんだね、マジで」
小さくて黒い羽虫たちが、いつの間にか店内に侵入し、そして何故かあちこちの売場の冷ケースで勝手にお亡くなりになっていることが多々あるのだ。これを放置している訳にはいかない。いくら動かないとは言えど、食品を並べる棚にいつまでも寝っ転がられても困るからね。
「いやまぁいいけどね、元気に店内を飛び回られるよりかはマシだから。でも気持ち悪いのには変わりないんだよ……はぁ……」
私は一人言とため息を交互に出しながら、次々と見つかる小さな虫を回収し、拭き掃除を進めていく。
次の瞬間、夢の時間軸も場面もガラリと変わった。
相変わらずコンビニ店内なんだけど、今度はレジ中のフライヤーと水場が隣り合う奥まった作業場にいた。
そしてそこからちょっとだけ見える窓ガラスから、眩しい西日が差し込んで来ているのが見える。今度は夜勤ではなく、日勤中の夢らしい。しかしいっつも仕事中の夢ばっか見てるね、私は。どれだけ社畜なんだろうか。
レジにも売場にも目もくれずに、何故か稼働中のフライヤーをじっと見つめている夢の中の私。何やってたんだと、もう一人の明晰中の私がツッコミを入れる前に。
「りゅーじー!!また出たー!!」
突然その場から大袈裟にぴょんっと跳ね退いた私が、レジに向かって大声を張り上げた。いくらスタッフエリアだとしても、もうちょっと静かにしないと他のお客様のご迷惑になるでしょ、と明晰自分のツッコミが忙しい。
「またかー?毎回俺ばっかにやらせてねーで、ねーちゃんも自分で対処してくれよ。俺がいない夜勤中とかどうしてんの?出るだろ、こいつ」
「一人の時は見なかったフリを……ってそんなのどうでもいいから、早くどうにかしてよ!」
盛大なため息をつきながらやって来た、弟の龍二のビニール手袋をはめた手には、殺虫剤とペーパータオルが握られていた。そしてなんでか涙目の夢の私を追いやると、龍二はフライヤーの下の床を凝視し始めた。
「お、いたいた……けっこうでけぇなぁ」
何やらブツブツ言いながら床と仲良くしてる龍二。なんでかブルブル震えてる情けない夢の中の過去の私。さらにその後ろで二人を見守る、夢の主たる私が、やっとこの現状を理解した。
あ、黒いアイツが出たのか。いわゆるGね。名前を言うのもおぞましいやつだ。
龍二は手慣れた様子で殺虫スプレーを駆使し、あっという間に例のアイツを仕留めて、戦闘の成果を詰めたビニール袋を満足そうに手に提げていた。
「ほい、おわり」
「ありがと、助かったよ」
食品を販売するコンビニ店舗では、本来は害虫なんて発生させてはいけない。それは重々承知だけど。
「でもコンビニは屋外と地続きだし、人や物の出入りも多いし。どうしても全ての虫の入店をお断りするのは難しいんだよね」
「だからさっさと退治して、お客さんに不快な思いをさせないようにするんだろ?ゴキでもハエでもクモでも羽アリでもカナブンでも、見つけたら即始末。ねーちゃんもいい加減抹殺できるようになってくれよ?いつでも俺がいるとは限らないんだからさ」
おぞましい中身入りのビニール袋をブンブン振り回しながら、龍二がエヘンと胸を張った。
この時は想像もしていなかったな。このあと異世界転移してしまう私は、本当に害虫キラーの龍二を頼れなくなってしまうなんてね。
夢の場面はまた移り変わり、忘れようにも忘れられないあの事件の起きた日になったようだ。
「ありがとうございましたー、またお越しくださーい」
ミー…ミー……
「ん?何の音?」
日差しが店内に入り込む日中、珍しくレジ接客を終えたばかりの夢の中の私が、小さく聞こえてきた異音に反応し辺りを見渡し始めた。
ミー…ミーン…
「冷ケースの可動音でもないし、聞き慣れないこの音…後ろから?……え?」
恐る恐る振り返った私は、戸惑いと恐怖に身を固めてしまうこととなる。
「なんで店内に、セミがいるの?!」
タバコがぎっしりと並ぶ背面の壁の更に上、天井近くに張りついていた音の元凶は、本来は屋外にいるはずのセミだったのだ。
ミーンミンミンミンミーン!
こちらの視線にでも気づいたのか、さっきまで控えめだったセミの鳴き声が急に元気になった。外で鳴いてるのを聞く分には、夏らしさを感じられて好きなんだけど、今はそんな悠長な事は言ってられない。
「コンビニ店内にセミって…どうにかして追い出さなきゃ……背後も頭上も取られてたら気になって仕事にならないっ!」
本来は衛生面とかを気にすべきはずなんだけど、この時の私は自分の身の安全ばかりを気にしていました、はい。
こうしてお客様も他のバイトもいない、日中のセミとの縄張り争いが始まった訳だけど。これがかなり大変な争いとなった。
「だーめだ。殺虫剤いくらかけても効かないや。頑張って踏み台まで使ったのに……箒やハエ叩きはあるけど、近づきたくないし…」
虫嫌いの私が頑張って殺虫剤を振り撒いたというのに、天井近くのセミには効果がなかったようだ。殺虫剤がかけられた瞬間だけは反応して、ちょっと飛んで移動したり鳴き声を更に大きくするけれど。それだけで死んでもくれないし外に逃げてもくれない。
一度ポトリと床に落ちてきて、仰向けで脚をバタバタさせる様を間近で見せられた時なんて、こっちが大絶叫する羽目になった。
「ただいまー、きゅーけーおわりまーした……って、ねーちゃん、何やってんの?」
結局この縄張り争いは、休憩で一時帰宅していた龍二の来訪で、あっさりと幕を閉じた。
「セミかぁ、懐かしいなぁ。虫取りアミで取れたけど、コイツどうする?外に放してくる?」
そういえば昔は虫取り大好き少年だった龍二が華麗にセミを逃がしてくれたおかげで、この一件は解決したものの。その後暫くレジに立ってても背後が気になるし、外で聞こえるセミの鳴き声にビビるようになってしまったし、死にかけのセミが落ちている現場から全力で逃げるようになってしまった、残念な私でした。
こんな感じで私は基本的に昆虫は苦手で、指先に乗るようなサイズの羽アリですらけっこうしんどい。一人きりの勤務で一番恐れているのがヤンキー客や強盗でもなく、生きている虫と断言できる辺りからも、私の虫嫌いは明確だろう。
でもそんな虫嫌いの私にも例外があることを、とある日に知った。
「…なんでこんなコンビニの通路のど真ん中で、腕広げて威嚇してるのかな、君は?……なんかかわいいな」
夢の舞台はまたもや別日の夜勤中に移動したようだ。いつものジャケットタイプではなく、ポロシャツ仕様のユニフォームを着た過去の私が、通路のど真ん中にしゃがみ込んでいた。左を缶詰、右をカップ麺に囲まれた狭い通路で膝を抱える私は、床にいる何かを熱心に見ているようだ。過去の私の後ろから、夢の主の私も首を伸ばして見てみる。自分の夢ながら、どういう原理なんだろうね、自分が二人いるこの夢の現状は。
何かと思ったら、緑色のカマキリだ。腕をビシッと上げてキリッと威嚇しているその様は、堂々とした戦士のようにも見えてくる。何をどう間違ってコンビニ店舗にやって来てしまったのかは不明だけど、小さな躰からは『ここはボクの縄張りだ!ここから絶対に動かないぞ!』という意思すら感じる。
「可愛いけど、そんな我が物顔で通路を占拠されても困るんだよね…なんとか出ていってくれないかな?殺したりするのは嫌だし無理だし」
小さくため息をついた過去の私は、小走りで事務所に向かい竹箒を持ってきた。箒でツンツンつついて、なんとか退店願おうという作戦らしい。おっかなびっくりのヘタレ腰でカマキリをつついてみるものの、彼はさっぱり意に介さないご様子だ。完全に私の存在も箒の刺激も無視されている。
「えー……そんなに当店がお気に入りになっちゃったの……?嬉しいけどお帰りくださいぃ……カマキリって飛ぶんだっけ?飛ぶのはやだなぁ……なんとかテコテコ歩いて出てってくれないかなぁ…?」
十数分かけてカマキリをつついたり話しかけたり、挙げ句に手を合わせて懇願したりしている内に、カマキリ君は飽きたのか、あっさりとトコトコ歩いて出ていった。
「はぁー、よかった、長い戦いだった……どうだ龍二、私もカマキリ相手ならなんとか対処できるんだぞ!」
本当の一人きりになった店内でどや顔をする私は、この時はまだ知らなかったのだ。可愛いとまで言ったカマキリの先祖が、あの黒いGと同じだという事実を。幸いにもこれ以降店内でカマキリに遭遇したことはないけれど、遭遇したとしてももう二度と対処なんて出来ないだろうな。
ここまで長々とトラウマレベルの営業日ばかりの夢を見てきたけれど、しかし思い出すだけで心がほのぼのするような来客様の経験もあるのだ、一応。
「………ん?なんで店内を歩いちゃってるのかな、君は?何処から来たの?何しに来たの?てかドアも開いてないはず……そもそも起きてる時間だっけ?」
またもや一人勤務らしい寂しい私が、床に向かって何やら問いかけていた。外の様子や時計は不明だけど、栄養ドリンクの在庫を整理しているってことは、多分朝方三時前とかだろう。毎日同じ業務やってるから、作業内容でそれくらいは推測できてしまう。
「店内にハトがいるなんて、衛生的にヤバイよねー……困ったな、どの商品にも触れさせずに早くお帰り願わないと…」
両手に抱えていたゼリードリンクを一気に在庫ケースに突っ込んだ私は、床をとてとてと歩く一羽のハトに狙いを定めた。
「飛ばないでよー…歩いて帰ってよー…?あーもう、なんで一番入り口から遠いトコにいるのさー……」
小さく祈りと文句を呟きながら、優雅に歩くハトの後ろをゆっくり付いていく私。不審者じゃないですよー、退路を塞いでハト君の行く先をどうにか誘導できないかと思ってるだけですよー。少しでも刺激してしまって、店内を自由に羽ばたかれてしまったらおしまいだ。いつぞやのセミほどの恐怖感はないものの、それでも飛ばれたら相当厄介だ。
「よかった……なんか普通に歩いて出ていってくれた……しかし一体何だったんだろ、あの子」
よほど人馴れしていたのか、そもそも私がハト君にナメられていたのか、どんなに距離を詰めてもハト君が羽ばたくことはなく、普通に徒歩で出口まで誘導することができた。あー、ビックリした。でもちょっと可愛かったかも。
「ん?ハト?いつの間にか店内に入り込んでた?んー……あれじゃね?夜の間に店に侵入して、どっかのテーブルの下で寝てたとか。で、店ん中ずっと明るいから朝だと思って変な時間に起きちゃったとかさ。けっこうありそうな話じゃね?……てかねーちゃん、一人勤務だからって何遊んでんだよ。一応本職だろ、ちゃんと仕事しようぜ」
「あー…その説はけっこうあり得るかも……てか遊んでるとは失礼なっ!これでも大真面目だったんだよ、ハトが暴れないようにって!」
その日の夕勤で龍二にそんな呆れ混じりの見解を言われたところで、夢の場面はまたもう一匹のお客様の場面へと切り替わったようだ。
「そんなに外から真剣に見つめられても、君を招き入れる訳にはいかないんだよ……可愛いけど……ごめんね……」
当店はそこそこ交通量の多い道路沿いに面していて行き交う車の騒音もかなりうるさい。しかしそれも夜更けになればかなり静かになる。
そんな静かで広々とした当店自慢の駐車場には、時たまに可愛らしいお客様がお見えになるのだ。
「うーん……この子はどう見ても野良猫ちゃんだよね……外のゴミ箱を漁る訳でもなく、店に入ってくる訳でもなく、ただじっと外から店内を見てるだけだなんて……何しに来ちゃったのかな、君は?」
透明な自動ドアの向こう側にちょこんと座っているのは、一匹の子猫ちゃんだった。
細身の身体を包む白い毛は所々汚れていて、片方の耳には痛々しい傷跡があるのが分かる。ここが土手とかで私がただの通行人だったりしたら、迷わずこの子を抱き上げて連れ帰るだろう。それくらいの痛々しさだ。
「でもここはコンビニなの。基本的に動物のご来店は出来ないんだよ……ごめんね……」
自動ドアが反応しないギリギリの距離まで近づいて、私はドア越しに猫ちゃんに謝った。
……みー……
透明なドア越しに見つめ合って数秒後。白猫ちゃんは小さな鳴き声だけを残して、ゆっくりと去っていった。
「せめて売場の猫缶を自主購入して、あげればよかったかな?何もできずにごめんね…」
猫ちゃんの面影だけが残るその場に、私はもう一度心からの謝罪をした。まぁ後々振り返ると、この時こんなに心を痛める必要はなかったんだけどね。
「あーもう!また来ちゃってる!いくらゴミ箱が外にあるからって、潜り込んで巣にするんじゃないのー!」
意外と逞しかったこの白猫ちゃんは、その後度々当店の外に設置してあるゴミ箱に勝手に侵入し、まるで自宅のように好き勝手に振る舞うようになってしまったのだ。何度お帰り願っても数時間後にはしれっと舞い戻ってくるこの子との、ゴミ箱をかけた闘いはそれはそれは苦労したものだけど。まぁそれはまた別の話。
『起きろ!起きろ!仕事の時間だ!起きろ!起きろ!仕事の時間だ!』』
「はっ?!……目覚ましか……はぁ……なんだか疲れる夢だった……」
お馴染みの元気な目覚ましのおかげで、私は長い長い過去を遡る夢から目覚められた。…おはようございます。ぐっすり寝たはずなのに、仕事の夢ばかりで疲れたなぁ……
この晩の夢が原因で今後暫くの私は。ホームシックと虫への恐怖感と、バイトさんが一緒にいてくれる歓喜とを、全て同時に抱えて仕事をする、精神的に忙しいコンビニ店長になってしまいましたとさ。
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