かつて少女だった大人たちのお茶会

 小さな子どもは逃げて、逃げて、逃げ続けていました。


 狩りが出来ないからお父さんに見放されて、家事が出来ないからお母さんに見放されて。


 そして逃げるなと言われ続けてて。


 とうとう、逃げ出してしまったのです。


 そんな二人の言葉から。


 向き合わないといけない現実から。


 最後にやけくそに、お父さんにへなちょこな弓矢を放って。


 あてつけに、お母さんにできそこないの食べものを投げつけて。


 そうして、村から走って逃げ出してしまいました。


 逃げた先は、誰もいない独りの荒野。


 辺り一面、地平線が続くだけの迷いの荒野。


 振り返っても、もう誰も追ってなどこないけど。


 小さな子どもは、それでも何かが怖くて走って逃げ続けました。


 一体、何から逃げているのかすら、わからないまんま。


 どこへ行けばいいのかすら、何一つ、知らないまんま。



 ただ、独りぼっちで。



 ※




 そろそろ、冬が来る頃だった。


 朝方には吐く息が白くなって、運動不足の身体が方々で軋みを訴え始める。


 冷えた身体が、少しばかり気分を落として、代わりに落ち着きを連れてくる。


 そんな季節の頃だった。


 その日のいつもの会合は、珍しく私の方がかすみに呼び出された。


 待ち合わせ先もかすみが指定していた。私は初めて行く路地を曲がったところにある小さなカフェ。


 待ち合わせ時刻丁度について、少し重く古いドアを開けて中に入ると、中に他の客もいるはずなのに随分と静かな店内だった。


 どうやら席の一つ一つがわざわざ部屋で区切られているみたいだ。案内してくれた老人は物静かで、無言で席まで連れっていってくれた。なんだろう、喋るのが苦手なのかね。


 ……いや、多分、そもそも、そういう店なのだ。きっと。


 何も喋らない、何も聞かないそんな場所、だから他のどこでも話せないことを話せる、あるいは独りで考えられる。そんな時間をつくるための秘密の場所なんだろう。


 少し奥まったドアの前で老人は立ち止まった。部屋に入る前に、私が煙草を見せて、大丈夫? と首を傾げると、老人は優しくうなずいて、そっと小さな部屋のドアを開けてくれた。


 木製の机と椅子がギリギリ入るその場所は、なんだか教会の告解をする部屋みたいに見えた。違いはメニュー表と灰皿が置かれているくらい。


 そんな席で、かすみは黙って、俯いて座っていた。まるで告解に訪れた罪びとみたいに。


 私は何も言わないまま、メニューを机から拾い上げて、ブラックコーヒーを老人に向かって指さした。老人は、先ほどと同じような笑みで黙ってうなずくと、ゆっくりと部屋を出ていった。


 私はそれを見届けた後、かすみの正面の席に腰を下ろした。


 ぎぃっという音が、小さな部屋に反響する。


 さて、この小さなお茶会を続けて二か月半ほどの時間が経った。


 呼び出されるのも初めてだけど、彼女がここまで落ち込でいるのを見るのも初めてだ。


 ただ、原因はまあ、なんとなく予想がつく。


 彼女の前に黙っておかれた茶封筒、中身はきっと私がきりこから見せてもらったものと同じもの、なんじゃないかな。私も結構、衝撃的だったものだ。かすみとは感じ方が少し違うだろうけれど。


 ……さて、いきなり核心に触れてもいいが、話の途中で先ほどの老人がコーヒーを持って入ってきてもいたたまれないので、最初は適当に軽い話で流すことにした。


 「タバコ、吸う?」


 いつもなら、ここで渋りつつ、なんやかんやあって憎まれ口をたたきながら吸う流れだ。


 ただ、今日の彼女は黙って首を横に振っただけだった。


 ふむ、軽く息を吐きながら首を捻る。


 どこかで見たことのある様子だと、既視感が訴えていたから。


 ……ああ、そうだ。小さな頃、きりが自分の気持ちを上手く伝えられないまま、泣いていた時の姿によく似ている。小さな子どもが、何かを堪えながら震えている姿によく似ていた。


 私は黙って、自分の煙草に火をつけた。


 呼び出したからには話があるのかと、待ってみるが会話はとんと進まない。数分経って、ドアの小さな小窓から、老人の腕が覗いてコーヒーがそっと置かれた。


 なるほど、こういう風にして、会話の邪魔をしないようにしてるわけだと感心しつつ。告解室というより、囚人の部屋か何かみたいだなとも想い直した。


 はてさて、囚われているのは、一体誰の心だというのか。


 とんとんと、やがて老人の足音がゆっくりとドアの前から去っていく。


 それを聞きながら、私がコーヒーを手元に引き寄せて、口をつけかけた時、ようやくかすみはボソッと口を動かした。


 「先週、家に戻ったらがリビングの所に置いてありました」


 弱く、重い、そんな声だった。


 「ゆいかちゃんから?」


 「はい、『お母さんへ』、って。そう書置きだけが添えてありました」


 多分、私はその中身を知っている。じっくり読んだことさえある。ただ、確認のため、あえて尋ねてみることにした。


 「そう、何だったの?」



 「小説……いえ、童話みたいなものでした。……



 かすみはうつむいたまま、そう呻くように呟いた。


 私は机に置かれた封筒をそっと紐解く。


 案の定、それはゆいかちゃんが、書いた小説だった。


 きりこ経由で、私も一度見せてもらったものだ。


 ぱらり、と紙を捲ると小さな子どもの物語がつづられる。


 寂しく、弱い、そんな心をただ謡ったような、小さな誰かのお話が。


 そこには綴られていた。


 かすみはそれを、何かを嚙みしめるようにしながら見つめていた。



 ※



 それから、小さな子どもは、独り荒野で、動物を探しました。でも、もう矢はもう撃ち尽くしてしまったから、捕まえられっこありません。


 小さな子どもは、お腹が空くのを感じながら、ご飯を探しました。でも、もう最後のご飯を投げつけてしまったから、どこにだってありません。


 小さな子どもは、誰か、と声を上げました。でも、もう逃げ出してしまったから、応えてくれる人はどこにだって居はしません。


 小さな子どもは、夜の荒野の真ん中で、独りぼっちでした。


 自分を追い立てる全部から逃げ出して。


 そしたら、逃げた先は何もなく人っ子一人いませんでした。


 子どもは独りぼっちになりました。


 いいえ、本当は、きっともっと前から、ずっとずっと、その子どもの心は独りぼっちだったのです。


 ただ、そんなことに今更、気づいただけ。


 暗い荒野の真ん中で、子どもは初めてそんな当たり前のことを知ったのです。


 




 ※





 親から逃げ出した物語、か。


 かすみはこの物語を、そう意味付けたらしい。


 つまり彼女にとって、この物語を見せに来たゆいかちゃんの言葉は、憎悪であり、あてつけであり、怒りということになるんだろう。


  『お前のせいで、自分はこうなったのだ』とそう詰られているかのように、彼女は今、感じているんだ。


 だから、震える。だから、泣く。


 気丈で、私のなんかに頼るのはプライドが許さなかったろうに、それでも頼ってしまほどには、傷ついているんだろう。


 「これは私への報いですか?」


 「…………」


 「これは私への罰ですか?」


 「…………」


 私だけが咥えた、タバコの火がゆらりと少し揺らめいた。


 「あの子に求めたことがいけなかったんですか? 掛けた言葉がいけなかったんですか? 愛情が足りなかったんですか? 親としての考えが足りなかったんですか?」


 「…………」


 慟哭は、背負えない傷とぶつけようのない心の置き場所を探してた。


 「これはあの子を傷つけた罰ですか? ずっと間違え続けた罪なんですか? 私達がずっとずっとあの子をずっと独りのまま―――」


 「…………」

 

 「あなたなら上手くいったんですか? それとも他の親なら上手くいったんですか? 誰なら、あの子を幸せにしてあげることができる、いい親になれたんですか?」


 「…………」




 「私は、—--私達はあの子の親であるべきではなかったんですか?」



 私はゆっくりと息を吐きだした。


 煙は何の答えもなく、ぼんやりと空気を満たして、天井の小さな換気扇から抜けていった。


 私は結局、この数か月前に出会った友人のことを多くは知らない。


 彼女の子どもに対する想いや価値観はあえて聞いてこなかったし、向こうも話そうとはしてこなかった。


 あくまで私は、私のしたい話をしてるだけ。彼女は、彼女のしたい話をしてるだけ。


 そんな曖昧な時間を二人でただ共有していた、ただそれだけ。


 だから、わかることは多くない。


 そうすることで、少しでも追い詰められていた心が楽になればと思ってはいたけれど。


 さて、ここまでの歪みは私で何とか、できるんだろうか。



 「……とりあえず、吸いなよ」



 煙草を一本ゆっくりと差し出した。ただ、受け取られる気配もないので、目の前にそっと添えておいた。


 返ってくる言葉もなかったから。とりあえず何か、口を開こうとした。


 ただ、震えかけた喉が一瞬、止まる。


 私は一体、何を語るべきなんだろう?


 これだけ傷ついて、疑って、嘆いているこの友人に。


 ありきたりな一般論?


 気持ちだけの慰め?


 いや、違う。別にそういうことが言いたいわけじゃない。


 それに、そんなことを説いても、この友人の心は一つだって癒えやしないだろう。


 何せもう見え方が歪んでしまってる。


 彼女にとって、娘がこめた想いは憎悪でしかありえなくて、だから手渡された物語をそのまま受けることはできなくて。




 その見え方を変える、答えは、正答は―――。




 ……いや、正解なんて、言わなきゃいけないことなんて。本当はどこにもないんじゃないか。


 本当の意味での正解なんて、きっとどこにも―――。


 私にも、彼女にも。


 そう想った。だから、何の正答も出ないままに私はそっと口を開いた。



 「一回、辞めたら? その『いい親じゃないといけない』って考え」



 答えは何もでないまま、私は思いのままに言葉を紡ぐ。



 目の前の泣き伏せている彼女が少し、驚いたように目を見開いて私を見た。



 「私の主観だけどさ、私がきりにとっていい親かどうかなんて知らないよ。まあ、最善は尽くしてるつもりだけど、それが結果的によかったかなんてわかんないじゃん。だってあの子は現に、学校から飛び降りたからね。10回中8回は死んでたって警察に言われたよ」



 思考を介さないままに言葉を繋ぐ。



 「だからさ、今あの子たちが笑ってるのは、正直、ただの結果論だよ。たまたま出会った迷子二人が、たまたま揃って道を探し始めただけ。そうして、今、たまたま笑ってる、ただそれだけ。誰だって、あの子達だって、そんなことを狙ってできたわけじゃないでしょう?」



 言葉は止まらない。



 「あんたの関わりはもしかしたら、間違えてたのかもしれない。私の関わりだってそう、あってるかもしれないし、間違ってるかもしれない。そんなの本当に最期の最後にしか分かんない。それに、それが人生にとって良かったか、結論付けるのは結局のところあの子たちじゃん、私達じゃないんだよ」


 

 そう、結局のところ。



 「あの子たちの人生はあの子たちのものだよ。—--私達はどうあがいたって代わりには生きてあげられないんだから」



 例えば、きりの代わりに、ゆいかちゃんの代わりに、私達が生きてあげることも、苦しんであげることも、喜んであげることもできはしない。だってあの子たちの人生だもの、誰だって代われないし、変えられない。



 私達にできるのは精々、必要な時に手を貸して、必要な時に隣にいる。



 きっと精々、それくらい。



 「だからさ、—--任せたらいいんだよ。だって、あの子たちの人生だもの。それにあの子たちはもうとっくに自分の道は自分で決め始めたんだから」



 そう、気付いたらいつの間にか。


 将来のことを尋ねたら、はぐらかしていたきりが、今、一生懸命に未来の自分のことを考えている。



 進路を尋ねても嫌そうな顔をしていたあの子が、今、必死に自分の道を探してる。



 それを少し寂しく想う気持ちはあるけれど、私はその歩みを遮ってしまう親にはなりたくない。



 どこの子どももきっとそう、やがて誰もが巣立っていく。



 彼女たちの人生を歩んでいく。



 …………そういえば、こんなことも、昔、きりに教えられたんだったか。



 「だから、自分が親じゃなければよかった、なんて言わないでよ。だって、やり方を間違えてたとしても、かすみはゆいかちゃんのことを想って行動してたわけでしょう?」



 同じように悩む夜が、私にもあったけど。



 でも、それでも。



 「どう恨んだって、どう悔やんだって、あんたはゆいかちゃんの親で、きりは私の子どもなの。それはどうやったって変えられないでしょ? それに、どんなに嘆いたって、どんなに傷ついたって。あの子たちはあの子達なりに苦しみを乗り越えて、それでも今、笑ってるんでしょ?」



 この言葉をかける意味があるのかはわからない。



 どんな言葉も、どんな想いも聴かれなければ、響かない。



 「だから恨まないであげてよ、悔やまないであげてよ。あの子たちが生まれてきたことを、かすみが生まれてきたことを。だって、そんなの……悲しいでしょ? どうしたって変えられないことを、恨んだり悲しんだりしても、どうしようもないじゃない。それに悲しいことなんて、どうせ生きてりゃ沢山あるんだから。せめて生まれてきたことそのものくらい、愛してあげてよ。喜んであげてよ、ゆいかちゃんのことも、かすみ自身のこともさ」



 紡いで、紡いで、紡ぎ切った。



 「あんたは、—--あんたたちは、親子でよかったんだよ」



 きっと、きっと。



 きっと、きっとそうだと願っていた。



 いつだったか、私と私の子ども達に、そう願ってた。



 それだけ、不安な夜があったから。こうきと進路を言い争った日に。きりが学校から飛び降りた日に。



 そう願った夜があったから。



 だって、親も結局、人間だ。



 いや、結局、誰も彼もが人間なんだ。



 初めてのことに狼狽えて、解らないことに怯えて、失敗に震えて、時々、辛いことから逃げ出したくなる。



 そんなものだ。誰だって、変わらないでしょ。



 親になったから、偉い人になったから、大人になったから。



 不安が消えて、怖さが消えるなんて、あるわけないんだから。



 過ちを重ねることも、それを正す難しさも、傷を認めることの怖さも、愛して欲しいと震える心も。



 そんなの誰だって同じ、なんだから。



 きっと、目の前で泣いて震えるこの大人も。



 いつか、私の前で泣きじゃくっていた子どもも。



 きっと何も変わらない。



 ああ、それにしても。この友人、本当に泣くのが下手くそだなあ。



 絶対、昔、ちゃんと上手に泣けなかったタイプだよ。泣き方でわかるもん。涙をひっこめて、必死に泣いてないふりをして。人に知られちゃいけないって思いこんで、上手く声を上げて泣くことすらできてこなかった、そんな子どもだったに違いない。



 そう、彼女も結局、かつてそんな少女だった、ちっぽけなただの人間だ。



 きっと誰とも変わりはしない。



 私はもう一度煙草を差し出しながら、目の前の小説の最後のページをそっと開いた。



 「それにあんたはこの物語を報いだなんていうけれどさ。私が想うに、ゆいかちゃんにとってこれは―――」



 これを私に手渡してきたときのゆいかちゃんの表情を想いだす。



 少し恥ずかしそうにしながら、うちの娘に背中を押されて私に封筒を差し出してきて、そしてどこか嬉しそうだった顔を想いだす。



 そうして、紡いだ言葉を想いだした。



 「『これは希望の―――物語だよ』」



 小さな部屋に、小さな泣き声が響いてた。



 いつか泣き損ねた少女の声が響いてた。






 ※






 独りぼっちの小さな子どもは、ふと空を見上げました。



 そこにあるのは夜闇に浮かぶ満天の星、広い夜空に瞬くたくさんの小さな光。



 数多の星が瞬いて、子どもの視界を埋め尽くさんばかりに覆っていました。



 そうやって、ぼうっと夜空を眺めたら、いつのまにか、気付いたら涙は止まっていました。



 数えられないほどの星の光が、子どもに少しだけ希望を渡してくれたから。



 だって、こんなにも星はたくさんあって。



 だって、こんなにも世界は広いのだから。



 きっと、きっと、独りぼっちのこんな小さな子どもにだって。



 いつか、素敵な出会いがあるのです。大事な誰かができるのです。



 誰もいない荒野にだって、きっと、きっと、いつか、どこかで。



 そうして、何かを見つけられたら、いつかお父さんやお母さんとも笑って再会することだってできる気がして。



 独りぼっちの小さな子どもはそっと足に力を込めました。



 暗闇の中、遠い遠い星空の燈火だけを頼りにして。



 その時、流れ星が一つ、遥か彼方、ずーっと遠くに落ちていきました。


 

 そして、子どもはぐっと涙を拭きました。



 いつか、それに出会える、そんな小さな希望を胸に抱いて。



 独りぼっちの小さな子どもは、確かに一歩、歩き始めたのです。




 《一章おわり 二章に続く》

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