10月17日 

 変化というものが、得てしてそうであるように。


 些細な兆しというものは、それこそ見えないほどささやかなもので。


 誰一人として、時には当人すら気づかないうちにそれはふと、訪れる。


 決意というものは、突然地表に現れる物ではなく。


 雪山に堆積した雪のように、いつのまにか、そして長い間かけて降り積もった何かなんだ。


 他人がそれを変えようにも、それは固く、分厚く、一朝一夕で変えられるものじゃない。


 それはそうだろう、端から見てそれは唐突に表れたものだとしても、当人からすれば何日も、何時間も考え続けて、感じ続けたものなのだから。


 私の自殺がそうであったように。けいかのゲーム作りがそうであったように。


 それは来るべくして積みあがった何か何だ。


 ゆいかが、ずっと積み上げてきた。何かだったんだ。


 ふうと長く、息を吐いた。


 さあ、覚悟はいいか。私。


 ゆいかは、傷ついた私の隣にずっといてくれた。


 いつかのそれに応えるのは今だよ。


 どれだけ、辛いことをゆいかがこれから経験したとしても。抱え続けた古傷にどれだけ喘いだとしても。


 いつかの想いに応えるために。


 逃げずに隣に居続ける、覚悟はいい?





 ※




 それはある日の日曜日のことだった。


 残暑はとうに過ぎていて、吹く風はただただ心地よくて、窓を開けていれば暖房も冷房も必要ない。


 そんな、雨が降る日のことだった。


 『ねえ、きりこ私の部屋でゲームしない?』


 朝起きたら、ゆいかからそんなメッセージが入ってた。


 珍しい、なんて話じゃない。


 紛れもなく、初めてのことだった。


 だって、ゆいかは出会ってからこの半年、私を自室に入れたことは一度たりともなかったんだから。


 一度、ゆいかが部屋に引きこもったことがあったけど、あの時も結局、部屋から出るのを待っていたから彼女の部屋の中身を私が見たことはない。


 意図的に隠されているのは知っていた。だから、私も触れてこなかった。


 ゆいか側からはいつでもやってきていたけど、肝心な部分で彼女は私に、彼女の領域まで踏み入らせることはなかったんだ。


 寂しくはなかった、っていったらウソになるけど。別に、納得もしていた。


 だって、そんなこと忘れそうになるほど、ゆいかはよくウチに来ていたし。


 私の弱い部分も、醜い部分もどうせがっつり知られてしまっているのだから。


 信頼されているのは知っていた。好かれているのも知っていた。


 心だって許されてる。でも、その一線だけは越えさせてはくれなかった。私も越えようとはしてこなかった。


 どれほど仲が良くたって、どれほど辛いことを分かち合っていたって。伝えられないことがあることは、私だって知っていた。


 だから、部屋に入れる、ということがゆいかにとって、とても大事な部分だと言うのはわかってた。


 いつか、入れてくれるかな、なんて思っていたけれど。


 その日は、唐突にやってきた。


 『わかった、窓からいくよ』


 『雨だし、危ないよ。玄関から来て』


 『そっか、わかった』


 短いやり取りで、スマホのアプリを閉じて。私はそっと、自分の部屋のベッドから腰を上げた。軽く着替えて、途中、まだ誰も起きていないリビングで水だけ飲んで、玄関から出た。ドアを開けたら、雨がざあざあと音を立てていた。まだ朝だから少しだけ空気が冷たい。


 そのまま、数歩だけ歩いて、隣の部屋のドアの前へ。


 インターホンを鳴らそうとしたら、同時に声がした。


 「開いてるよ」


 ドア越しだから少しくぐもったゆいかの声。


 私は、返事もしないまま。ドアノブをそっと握って、引っ張った。


 ゆいかがいた。


 ちょっと不思議な表情をしていた。


 疲れたような、でもどことなく泣いた後のような、だというのにほんのりと笑顔を浮かべたそんな表情。


 パジャマ姿で、少し気の抜けた姿。まるで、私達が出会った当初みたいな、引きこもり然としたゆいかの姿がそこにはあった。


 「いらっしゃい」


 もしかしたら、少し眠いのかもしれない。弱く揺れたような足取りで、ゆいかはそれだけ言うと踵を返して部屋の中に戻っていく。


 私はドアの境界線を越えながら。


 「おじゃまします」


 とだけ告げた。返事は、特に帰ってこない。


 ドアを閉じると、雨の音が遠くなって、世界がそこで閉ざされたみたいだった。さっきまでの場所が外、ここからさきは内。洞窟めいた暗さの部屋の中、ゆいかの足音だけが床に少し響いてる。


 靴を脱いで部屋に上がった。玄関に置いてあるのはゆいかの普段使いの運動靴と学校用の制靴だけ。他には誰の靴も置いてない。


 以前、日曜日には少しだけ両親のどちらかが顔を出すと、聞いたことがあったけど。


 ただ、そんな疑問も解決する間もなく、ゆいかは足を止めることなく部屋の奥へと行ってしまう。


 私は宙ぶらりんな疑問を抱えたまま、その後姿についていった。


 うちと同じ間取りの廊下を抜けて、一番、奥の部屋に。うちとは左右で対になっている構造だから、ちょうど、私の部屋と同じ間取りの場所。


 そこがゆいかの部屋だった。


 ゆいかはドアの前で一瞬だけ、私を振り返った。


 ぎぃと廊下の床板が浅く軋む。


 暗くて、あまり表情の伺えない顔でこちらを見てから、ゆいかはそっとドアを開けた。


 カーテンが閉め切られているから、その部屋は酷く暗くて。でも、ゆいかは躊躇いなく、自分の部屋に足を進める。


 少し遅れながら、私はそのドアをゆっくりとくぐった。10月の朝の少しだけ涼しい空気が足元を覆ってる。


 



 静かだった。



 とてもとても、静かな部屋だった。



 まるで、小さな洞窟の中にいるみたいな。



 ゆいかは部屋の真ん中でもう一度、私を振りかえるとそっと自分のベッドに腰を下ろした。



 それからそっとこちらを見てきたので、私は誘われるまま、ゆいかの近くまで歩いていく。



 私の部屋とあまり変わらない、部屋だった。



 言ってしまえば、至極、普通の部屋。



 勉強机には、随分昔の教科書と、今使っているであろう教科書が並んでいる。あと、キーボードが繋がれたタブレット。



 本棚には、時折ゆいかが喋っていた漫画と、ゲームソフトが並んで置いてある。巻数はどことなくまばらで、なんだかちぐはぐだ。



 部屋の隅にはゲーム機とコントローラーがディスプレイの隣に置いてあった。いつも、あそこを通して私たちは一緒にゲームをしていたんだ。



 ベッドは、ちょうど私の部屋に面するところに置いてあった。少し、その気になれば、些細な音くらいは聞こえるような、上手く眠れない夜に気付かれたこともあったっけ。




 ちょっと変わったところもあるけれど、あまり大きく言うべきところは見つからない。




 いや、ある、のかな。




 ゆいかの隣に、私はぽすんと腰を下ろした。淡い色のベッドシーツから、ゆいかの甘い香りがほんのりとただよってくる。




 『それ』は、ベッドに座ったときに丁度、よく見える位置にあった。



 よく見れば、机や本棚は少し動かされた跡があって、普段は『それ』が上手く見えないように隠されているんだと、察しがついた。



 私は『それ』をじっと見た。



 『それ』は部屋の壁一面に、所狭しとつけられただった。



 はさみか、カッターか、包丁か、そういったもので、つけられた傷だった。




 何度も、何度も。



 きっと、痛みを訴えるために、何度も、何度も、何度もつけた、そんな傷だった。



 ふと、部屋を見回すと、そこ以外にもそんな傷がちらほら見えた。



 ベッドの脇に、タンスの横に、本棚の隅に、勉強机にも、木目調のテープが貼ってあって、うまく隠されていはいるけれど。



 何度も、何度もつけられた傷だった。



 多分、ゆいかが、ゆいか自身につけてきた傷だった。



 私は何も言えないまま、ベッドにごろんと寝転がった。柔らかいベッドの感覚に身体が沈んで、ゆいかの匂いがふわりと私を包み込んでくる。ゆいかの表情はよく見えない。



 「ゆいか」



 寝ころんだまま、声をかけた。




 「なに?」




 少し、低く、詰まったような声でゆいかが返事をした。




 「ん」




 手を大きく広げた。





 「ん」





 ゆいかの頭が私の胸に落ちてきた。ぼふっと音がして、ゆっくりと小さな頭が、私の腕の中に納まった。





 なにを言うべきはわからない。何を言って欲しいのかもわからない。





 ここにどれだけの痛みがあったのか、そしてそれをどんな想いで隠し続けてきたのか。




 まだ私には何も分からない。




 だから、わからないまま抱きしめた。二人揃って、寝ころんで。




 ただ、胸の中にあるゆいかの頭は、涙に震えることも、怖さに怯えている様子もなかった。




 ただ、落ち着いた様子で、安心したように私に頭を預けていた。




 聞こえるのはただ、二人の呼吸の音と遠く向こうの雨音だけ。




 少しの間、そうしてた。ゆいかの匂いと暖かさだけを感じながら。








 ※







 ざあざあ。








 ※








 すうすう。









 ※



















 「ねえ、きりこ」


 「なに? ゆいか」


 「私の話、してもいい?」


 「うん、いいよ」


 「ありがとう。でも、大丈夫だよ、心配しないで



 これは最後にちゃんと笑顔で終わる話だから」

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