大団円②

「お、おわぁ……」


 木陰にぽつんと残された飛助は、「あの女狐、やるじゃァないか」とけらけら笑う青衣に反応する余裕もないようで、おわぁ、と呟いた後、がくりと肩を落とした。


「おいらの初めてが……。これだけは、これだけは大事にとっておいたのに……。まさか奪われてしまうとは……」


 ふるふると肩を震わせ、うるうると涙を浮かべる飛助は正直見ていて愉快の一言だったが、大切に大切に取っておいた最初の口吸いが、人の姿とはいえ狐であるというのはさすがに同情に値する。そう思った青衣は、飛助の前に腰を落として言った。


「そう落胆するでないよ、お猿。口吸いなんてね、これから先何度でも出来るんだしさ」

「ううう、そうだけど……」

「何なら、わっちもしてやろうかい?」


 きれいに紅を塗った唇を、つい、と突き出すと、平素の彼なら喜んで乗ってきそうではあったが、いまはしょんぼりと項垂れたままである。


「……良い。だって姐御男だもん」

「そりゃァそうだけどさ」


 もちろん冗談のつもりだったとはいえ、バッサリと斬り捨てられては立つ瀬がない。何せこれまでありとあらゆる男達から是非ともと言い寄られてきた青衣である。金を山と積まれてどうか一晩褥を共にしてくれまいかと懇願されたこともあったし(当然断ったが)、太郎ほどではないものの、貢ぎ物の類もあの扇子屋にはよく届けられているのだ。


 この猿め。

 いっそ無理やり奪ってやろうか。


 ぎり、と歯噛みをして、そんなことを考えたりもする。


 いや落ち着け、一時の感情で手を出すものではない。そもそも大前提として、こいつは全く自分の好みではない。


 元とはいえ忍びの自分が感情に流されるとはなんと情けないことかと、腿を叩いて戒める。

 そんな青衣の心中など知る由もない飛助が急にがばりと顔を上げた。


「おいらの初めてはね、優しい優しい年上のお姉さまと決めて――……いや!」


 そう叫んだかと思うと、足の力だけで、ぴょん、と飛び上がり、すた、と着地を決める。おお、さすがは軽業師だねぇ、と賛辞を贈る青衣に「だろ?」と笑みを返す。


 そうして、やめだやめだ、とかぶりを振ると、一体何をと首を傾げる青衣の肩をがしりと掴んだ。


 そこでやっと、もしや『やめる』というのは、常に公言している『優しい年上のお姉さま云々』のことだろうか、と思い至り、だとすれば自分も彼の射程圏内に入ってしまうのではなかろうかと身構える。この単細胞なお調子者をからかうのは愉快だが、本気になられても正直困る。いまの状態から本気で向かってこられれば、腕力では押し負けてしまう。懐の扇子に手を伸ばすが、その手も取られてしまえば、いよいよ打つ手がない。


「別にお姉さまにこだわらなくたって良いや」

 

 その言葉で、やはり、と確信を持つ。


 まァわっちは別に始めてじゃァないしねェ。


 仕方ないから流されてやろうかと力を抜きかけたその時。


「タロちゃんがいるしな!」


 あっはっは、と天を仰いで笑い、よし、タロちゃんに上書きしてもーらお! と叫んで彼は駆け出した。


「こ……この、小猿風情が!」


 わなわなと拳を握りしめて唇を震わせる青衣だったが、そっちがその気なら、と懐の扇子を取り出して、とんとん、と肩を叩く。


「アンタなんかに可愛い坊の唇を奪わせるもんかね」


 そう呟いて、騒がしくなり始めた荷車の方へと向かった。


 特に急ぐでもなくしなりしなりと歩いていると、その姿を目に留めた太郎が、やれやれと困ったように眉を下げて笑っている。


「随分と賑やかになっちまったねェ。――おや、さすがの嬢ちゃんも起きたか」

「そりゃあ起きますわよ。小萩もいないし、白狼丸も飛助もうるさいったら」


 あぁせっかく気持ちよく寝ていたのに、と荷車の上で腕を組んでぷうぷうと不満を漏らす雛乃に、そんなぁ、と飛助が情けない声を出す。


「ちょっと待ってくださいよぅ、うるさいのはおいらじゃないですって」

「っああん!? お前が奇声を上げて走って来なけりゃいまでも平和だったんだよ!」


 せっかくうるせぇのが寝てたっていうのによぉ、と白狼丸が口を滑らせると、今度は雛乃が目を三角にして怒り出した。


「何ですか、まるでわたくしが厄介者みたいに!」

「そんなこと言ってねぇだろ!」

「言ってなくても、言ってます! どうせわたくしは厄介者ですわよ! わたくしだけ子どもですし、ここに来るのだって足手まといで、芸の一つも出来ませんし!」


 その場にいた全員――あの太郎さえも――が、おや、と動きを止めた。


「皆わたくしのこと、腫れ物みたいに扱って。そ、そりゃあちょっと我が儘かも……しれませんけど」


 いや、ちょっとでは、と犬猿二人は思った。どうやら互いにそう思っているらしいと、同時に顔を突き合わせて知る。その顔にすべて書いてある。


「だけど、こないだまでは、姉さん達だって、一緒に遊んでくれたのに。一緒のお布団にだって入ってくれたのに……」


 着物をぎゅ、と握り締めてほろほろと泣く姿を見れば、やはり雛乃は十の子どもである。『石蕗つわぶき屋の一人娘』として蝶よ花よと育てられ、従業員達からも丁重に扱われていたのが、数ヶ月前のかんざし事件によっていよいよ腫れ物になったのだ。姉さん達の中には、彼女を気安く『ひぃちゃん』『ひなちゃん』と呼ぶ者もいたが、最近では皆『雛乃様』やら『雛乃お嬢様』になっている。その他人行儀な距離感も寂しい。


 ならばもともと『雛乃お嬢様』と呼んでいる太郎はどうなのかというと、これは最初から一貫しているから問題はない。彼の態度は事件の前後で何も変わっていないのだ。そして、何も変わっていないのは太郎に限らず、白狼丸も飛助も、そして頻繁に店にやって来る薬師の青衣も同様なのである。


 最近の雛乃が、やけにこの面々と関わろうとしてくる理由などわかっていたつもりだった。それでもつい、『石蕗屋の御令嬢』という彼女の身分が枷となって、わずかに距離をあけてしまう。


「悪かったな」


 ぐすぐすと鼻を啜る雛乃に、首にかけていた白布を「拭けよ」と差し出して、白狼丸が一歩進み出る。ごく小さな声でありがとうと言ってそれを受け取った雛乃は、今度ははっきりと聞こえる声で「汗臭いですわ」とそれを突き返した。


「あっ、お前! 人の好意を!」

「好意でも! だってそれずぅっと首にかけていたやつでしょ? 汗で湿っているではありませんか!」

「湿っ……てん、なぁ。うん。これは確かに……」

「あっはっは、恰好つかねぇなぁ、白ちゃんは。良いかい、こういう時はね、ちゃあんと乾いてるやつを――……おいらは持ってないみたいだから、姐御お願い」

「お前も持ってねぇんじゃねぇかよ!」

「うるさいなぁ。懐に入れてたんだから仕方ないだろ! おいらだって汗びっしょびしょなんだよ!」


 向かい合ってぎゃあぎゃあと喚き出した二人の間をわざと「はいはい、ちょいとごめんよ」と通って、懐からきれいに折り畳まれた手巾を取り出す。雛乃はそれを恐々と受け取り、きちんと乾いていることを確認してからそっと涙を押さえた。


「おい、ちょっと待てよ。姐御だって懐に入れてんじゃねぇか! 何で濡れてねぇんだよ!」

「何でって言われてもねェ」

「言ってやるなよ白ちゃん。姐御はね、おいら達より年上なんだからその分代謝が悪いのさ。それとも毛穴が詰まってんのかな? だから仕方な――、あ?」


 あっはっはと軽い調子でしゃべっている彼の鼻の下に、ひた、と音もなく扇子の先が突きつけられる。


「おだまり、小猿」

「……姐御、ここって人体の急所じゃなかった?」

「タマを狙わなかっただけ、優しいと思わないかえ?」

「いや、そうかもしれないけど。ひええ、姐御、目が怖いよぉ」

「おいおい姐御、勘弁してやれよ」

「青衣、それくらいで」


 白狼丸ではなく太郎の声に反応して扇子を下ろす。ふん、と一つ鼻息を吹いて、それを再び懐に差した。


「汗一つ残しちゃならないんだよ。その癖が残ってるってェだけさ」


 小声でそう漏らすと、三人は目を丸くして「成る程」と声を揃えた。そして、それが聞こえていないはずの雛乃もまた何やら口をぽかんと開けて青衣を見つめている。


「素敵……お姉さま……」


 一体何が彼女の心に触れたのか、うっとりと青衣を見つめるその姿を見て、飛助は、姐御にゃ悪いがこれでやっと肩の荷が下りたかな、と安堵した。


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