『罪人』
土方 煉
第1話『不自由』
「はぁー…なにしてんだろ俺…」と仕事終わりの私はズボンの右ポケットにしまっていたタバコを手に取り、火を点け一息入れた。
私は神谷 旬(かみや しゅん)
今年32歳になる運送会社に勤めるごく普通のサラリーマンだ。会社はそれなりの大企業なので福利厚生も手厚く、世間からの評価もかなり高い。なので会社に対して特にこれといって不満はない。
でも実際はそれほどやりがいも感じておらず、仕事が終わるたび「何してんだ?俺」と考える事が多い。
よく「好きなことを仕事に!」というが、今の私には程遠いフレーズだ。
でも決して今の仕事が嫌なのではない。要は毎日が安定しすぎて刺激が足りないのだ。なかなか定職につけず苦労している人には悪いが、私の様な悩みを持っている人間も一定数いることが現実だとも思う。
友人らにこの悩みを相談しても「じゃあ転職しちゃえよ」と言われるのがオチである。だから私は誰にも相談できないでいる。転職して解決される悩みだとは思えなかった。
プライベートも充実しており、先月1歳年下妻の美加と入籍も済ませたばかりだ。
養うべき家族が増えたら仕事へ対するモチベーションも変化するかと少し期待していたが、その様な心境の変化は微塵たりとも感じない。
むしろ美加と結婚した事により、ストレスが増加した。
時間の制限、金銭的自由の制限、性欲の制限。
独身であれば全て自由だ。でも結婚すればそうもいかない。それが【結婚】ということなのかもしれない。
じゃあなぜ結婚したのか?と問われるとほとんど両親の為ではないかと思う。単純に私は長男なので結婚し、孫を両親に見せてあげたいという想いが強かった。両親には普通のおじいちゃんとおばあちゃんになってもらいたかった。
でも実際は自分の気持ちより両親への想いを優先させてしまった事に後悔している。
もちろんこんな事は妻には口が裂けても言えない。
仕事にもやりがいを感じない。家に帰ってもストレスを感じるどうしようもない状態が続いている。
一度は「ストレスを発散しよう!」と趣味に浸ろうかとも考えたが、これといって没頭できる趣味も見つからなかった。唯一趣味と言えるものはテレビゲームと映画鑑賞ぐらいだ。
しかし実際に自分の部屋にこもりゲームをしていると美加に死ぬほど気を遣う。私は休みの日ぐらい好きにさせろよという気持ちだが、おそらく美加は違うだろう。
休みの日ぐらい家事手伝ってよ!ぐらいに思っていそうだ。しかもそれを私に言ってこないから余計に気を遣う。
こんな時ふと学生の頃を思い出す。
大学生の頃は電車通学だった。私はいつも朝の満員電車に乗ってるサラリーマンを生気がないしょぼくれたオヤジだと鼻で笑っていた。
私は絶対あんな風になりたくないと心に誓っていた。でも就職し結婚した今だからこそ、その時のオヤジ達の気持ちが少し分かるような気がする。
おそらくあのオヤジ達は結婚し、子供が生まれて家庭を持ったと同時に「自分の人生」ということを諦めたのだろう。
毎日朝早くから夜遅くまで働き、時には下げたくない頭を下げ、1円でも多く稼ぐ。
なぜか?家族の為である。
しかも苦労して家族の為に稼いでも、世のほとんどのお父さんはお小遣い制だ。日々の働きの対価として何十万円を持ち帰っても、妻から毎月2.3万渡されて終わり。独身なら全て自由なのに。
考え出すとキリがないほど不満が溢れてくる。でもやっぱり不満よりも幸せの量の方が勝るからみんな耐えれるのであろう。はたして本当に私もそうなれるだろうか?
そうなれたら楽だが、我が人生を諦めたくない自分もいる。
「はぁー…」いつも通り最後にため息が出て今日も考えるのをやめた。
翌日。
私は毎日現状の不満に対して頭を抱えている。さすがに少し疲れてきた私は気分転換をすることしにした。(少し散歩でもしてみるか)この日は休みということもあり、思い腰を上げながら玄関へと向かった。
すると美加が台所から顔を出し、「旬くんどこいくの?」と聞いてきた。
「んー?散歩だよ」と答えると、美加は不思議そうな顔をし、「行ってらっしゃい」とだけ言うと、台所へ首を引っ込めた。
今日は平日ということもあって表の道はがらんとしている。思い返すと私は普段車で移動するからこんなにしっかり家の近所を歩いたことがなかったのかもしれない。たまに人を見かけても自転車に乗っている主婦らしき人や健康維持の為に散歩している老人ぐらいだ。車で移動している人に目を向けると、書類で手元がくしゃくしゃになりながら電話で話している営業マンや(運転中の通話は違反だ)真っ黒に日焼けしたダンプのオヤジが次々と通りすぎていった。
「忙しそうだな…」自然と心の声が漏れていた。すると次第に負の感情が生まれてきた。
(だめだだめだ。そんなこと考える為に散歩しているのではない!)と自分に言い聞かせ、考えない様にした。
こんな池あったっけ?
どれぐらい歩いただろうか。私の目の前に見た事がない広々とした池が広がっていた。
すぐにスマホを取り出し地図アプリで現在地を確認した。
画面に自宅の住所を入力し、距離を計ってみた。すると自宅から5キロちょっと離れた所まで来てしまった様だ。
それにしてもここは綺麗な所だ。池なんて何年ぶりに見ただろう。私は昔釣りをしていたので池の中を覗き込んで魚を探してみた。
だが残念ながら魚はいなかった。というよりもアメンボなどの生物すらも見当たらない。
変わった池だ。周りに草木もなく、まるで砂漠にポツンとあるオアシスの池の様だ。「何か…すげーなここ」私は呟いた。今までこんな神秘的な所に来た事がない私は変な気分になった。
もちろん観光地にあるパワースポットとかに訪れた事はある。
でも所詮その類いは観光客に対しての何かしらの施策がされている場合がほとんどだ。
立ち入り禁止の看板があったりロープが張ってあったり警備員がいたり……
いくら神秘的なパワースポットであってもそういうのを見てしまったら少しは気持ちが冷めるだろう。
でもこの池は自然そのものである。人工的なものは一切ない。水面には波紋一つ広がらない。時が止まっていると錯覚してしまうほどだ。
そして私は池の前に腰を下ろし、しばらく池を眺めていた。眺めていたというよりも自然と視線が池に吸い込まれるような感覚がした。
池を眺めていると浄化されていくかの様に負の感情が消えていく。とても心地よい気分だ。
クラシックでも聴きながらゆっくりしようと思い立った私は、スマホを取り出し動画アプリを開けた。そしてお気に入りのクラシック動画を再生した。
ゆったりとしたメロディーが心を撫でてくれるようだ。
あまりの心地よさにボーッとしていると池の対岸から視線を感じた。
私は何気なく視線を池から上げて対岸を見た。
(ん?何だあれ?)
視力があまり良くない私は対岸の何かを把握するのに数秒かかった。
そこには尾が三本生えた犬らしき生物がいた。毛色はドス黒く、しかもかなりの大きさだ。
(野犬か…?いや、犬にしては大きすぎる。もしかして狼?……いやいや狼がこんな所にいるはずがない!)
私は眉間にシワを寄せながらその生物を凝視した。
その野犬か狼か区別がつかない生物は私の方をずっと見ている。
周りに人気もなくあまりにも大きな未知の生物ということもあり、恐怖が雪崩のように押し寄せた。
(お、襲われる!逃げなくちゃ!)
しかし頭で考えても体が言うことを聞かない。今までの人生でこんなにも本能的に焦ったことはない。
足が痙攣し、力が入らずまったく動けなかった。
するとその生物はくるっと体を反転させ、奥へと姿を消した。
(一体何だったんだ…)
足の痙攣が収まるまで数分かかったが、何とか立ち上がり私は小走りでその場を後にした。
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