宵の明星

いとー

砂嵐

「また砂嵐ダストストームだ」


 納屋での作業を終えて外に出ると、西の方角にそれが見えた。

 どこまでも続く赤錆びた荒野の先で、黄色く汚れたような雲が地平線に沿う形で分厚く広がっている。それは一見すると山のようで、つい動くものではないと本能的に錯覚しそうになるが、西から北までを取り囲むように続いているアスクリス高原の稜線が、舞い上がった砂塵によってじりじりと隠れていく様子を観察すると、地表を這うそれは我が家に近づいていることが理解出来た。

 21月に入って、3度目の砂嵐だった。冬を象徴する季節性の自然現象とは言え、どういうわけか今月の発生頻度は例年より多い。だがこれが運の悪い偶然なのか、それとも異常な事態なのかは分からなかった。


「植えたライムギ、大丈夫かしら……」


 納屋の奥で道具を探していた妻のサヴィが、心配そうな様子でこっちにきた。地平線の向こうから迫りくる砂塵のことはあまり気に掛けず、納屋のすぐ横に広がっている畑を見ている。冬を前にして作物はほとんど収穫していたが、寒く乾燥した季節に育つライムギは先月に植えたばかりだった。

 サヴィは伸び始めたばかりの葉が砂で傷付き、生育不良に繋がる事態を恐れているのだろう。けれど俺には心配のし過ぎに思えた。


「毎年耐えてくれているんだ。そこまで弱くない」


 それから西の地平線をじっと眺めて、付け加える様に言った。


「あれも大して強い砂嵐じゃないだろう」


 サヴィを安心させるため、純粋にこれまでの経験から導き出した予想としてそう答えたが、彼女は納得していない様子だった。


「でもこの前はすぐに抜けてくれなかった」


「あれは……」


 先月の初めに襲った砂嵐の記憶が蘇る。

 あの時は砂埃の雲が我が家を5日間も覆い続け、畑をすっかり、周囲の荒野と同じ赤い砂塵で塗り潰してしまった。ライムギはまだ植える前だったが、もしも芽が出た直後に襲って来ていたら全て枯れていたかもしれない。


「ああいうこともあるさ、仕方ないよ」


 そうとしか言いようがなかった。他にどう言える? 俺たちは"彼ら"と違って自然を意のままに操れない。予測出来ない世界の作用と変化を、ただ黙って受け入れるだけ。それが俺たちの限界であり、生きるための術でもある。悲観でも諦めでもなく、明日や来月、来年を生きるための忍耐だ。


「相手は自然なんだから」


 ――〈失踪〉前と違って、今は誰も立ち向かえない。


「さぁ、早く片付けよう」


 砂を被って埋もれてしまう前に、俺は収穫したばかりのジャガイモを残した裏の畑へ行こうとしたが、横に立っているサヴィはすぐに動こうとしなかった。心配だと言った畑から目線を外し、今度はまだ砂嵐に隠されていない西の空を寂しそうに眺めている。

 サヴィが何を見ようとしているのかは分かっていた。神聖なる象徴シンボル――黄昏後の空に輝く一番星、"彼ら"が居る地球という世界。だが、あの砂嵐が日没までに抜け去ってくれる可能性はなさそうだった。


「今日は見えないよ」


 俺はあえてそう言ってみた。象徴シンボルの不在が、何かの拍子に痛々しいほどの渇望をやめるきっかけになるのではと、淡い期待を込めて。


「別にいいわ。それでも祈りの言葉は伝わる」


 もちろん、そうだった。こんな些細な障害と小言で、妻の信仰が揺らぐわけない。分かっていたはずだ。

 救済を願う行為の本質は、"彼ら"という存在そのものに対する救助の要請にあって、決して宵の明星、あるいは明けの明星という可視化された"彼ら"の世界の有無に縛られることはない。例え見えずとも、そこに存在しているなら祈るべきだと、彼女自身が俺にそう説教したことがあるのだから。

 サヴィが見せた寂しげな表情は、単に礼拝の為の目印ガイドがないことに対する気分の落ち込みでしかないのだろう。宵の明星が輝いている姿を信じ、象徴シンボルの不在と捉えない。例えこれから何週間も空が砂塵に覆われて暗黒だったとしても、お前はそうやって救済の祈りを捧げ続けるのだろうな。健気に、根気強く、"彼ら"が手を差し伸べてくるその日まで、いつまでも……


「そうかい。好きにすればいいさ」


 どうしてそんなに"彼ら"を信用出来る? 俺には、彼女の信仰が空虚にしか思えなかった。この世界を整備したのに、姿を消して俺達を残した。被造物をどうするかは創造主の自由だと言うのなら、〈失踪〉後の歴史が"彼ら"の態度だろう。この赤い砂の大地で生きるのは辛いといくら地球に叫んでも、きっと耳を貸さない。


「さぁ急がないと。すぐに砂嵐がくるぞ」


 叶わない希望を抱くくらいなら、目の前の現実と向き合った方がいい。それが俺の信仰だった。


「俺は裏を片付けてくるから、お前は羊を小屋に戻してきてくれ」


「えぇ、分かったわ」


 そう言って妻は2匹の羊を放している牧草地へ向かい、俺は家を挟んで反対側の畑へと向かった。収穫したばかりのジャガイモと、その他の砂が被ってほしくない物を荷車に載せて、納屋に運び込み、淡々と片付けを済ませていく。

 牧草地の方からサヴィの声が聞こえてきたのは、再び裏の畑に戻った時のことだった。


「ねぇ、あなた!」


 呼び出すようなその声で、俺は羊に苦闘して助けを求めているサヴィの姿を想像した。砂嵐が迫っている時に、家畜と戯れている時間的な余裕はない……。荷車をその場に置いてしぶしぶ引き換えし、牧草地の方を見た。

 サヴィが指を指していた。砂嵐とは反対側、何もない荒野が広がる東の方向を。わけが分からずにその指先へ視線を向けると、すぐに意味が分かった。


「誰か歩いてる。こっちにくるみたい!」

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