逆らえないお願いに僕はいつまでも縋りつく

ぱん

序章 

 ――それはそれは、好きな人がいた。


 遠くて思い出せないくらい昔のことだけれど、確かにそれは実在していた。

 でも、それは本当に恋だったのだろうか。

 想いを馳せようとも騒ぐ胸はなく、違和感と喪失感と、その他もろもろに加えてよくわからない不安がない交ぜになった混沌を生み出すだけで、とても甘酸っぱい気持ちが湧き起こる様子がないのだ、と。


「だから何……なんで、僕に手伝えって?」


 階段の踊り場から覗き込むように座って、階下を見つめる少年はため息をついた。


「もっといい相手がいるだろう、相川あいかわ。僕なんかよりも」


「テキトーな理由で捕まるのが君しかいなかったんだよ、多田ただくん。そう、放課後はいつも空を見上げることしかしてない君しかいないんだ、多田くん」


「勝手に暇人みたく言うな」


 だってそうだろう、と一階下から膝丈スカートをきっちり守って見上げる相川は、自前の膝で頬杖をつき始めた多田にやれやれと肩をすくめた。


「いつもこんな私に付き合ってくれるのは、多田くんしかいないじゃない」


「……そりゃあ、まあ」


 何かを口にしようとして、多田は頬杖をついた指先で口を覆ってそっぽを向く。

 分かっているのだ。昔から甘やかしすぎているのだと。

 彼女の横暴は今に始まったことでない。何かにつけて「お願い」を繰り出してきては、それは時に強引で、時に謙虚で、その実は強制なのであった。

 だから、今回も避けようのないクエストだ。

 こちらに害はあっても利得の一切はもちろんない。


「で、僕に何をしろって?」


 どうあれ断ることができないのだからこちらは手伝い内容を訊くしかない。討伐か、捕獲か。もとより採集や納品の可能性もある。ちょっと最近、狩りしすぎて思考がハンター色に染まってるな。自重するか。


「諦めがよくて嬉しい。ほんと好きになっちゃいそう、だぞ?」


「恋心がわからないって言ってる奴が言うセリフじゃないよな、それ」


 薄っぺらい言葉と、浮かべた作り笑いが妙にキャラクターじみていて、そちらもそちらで何かに染まっていらっしゃるのではないかと思わざるを得ないが、とにかく置いておくとして。

 毎度の確認のような会話を終えると、相川はすぐさま本題に入るようだった。

 ふんっ、と鼻息荒くすると、腰に両手をついて言った。


「好きな人はいるかね、多田くん」


「いや、いないけど?」


「え?」


「いや、『え?』って。なんで逆にいると思ってその話題振ったの? おかしくない?」


 浮世話なんて一つもない青春真っただ中の思春期男子学生に何をおっしゃっているのか。

 ややあって事態が呑み込めたのか、取り繕うように両手を振ると、相川は「あー」と困ったように眉を八の字にして苦そうに笑う。


「いやいや、まあ、そういうね、こともね、あるかなぁって、お姉ちゃん淡い期待から思ったわけなの」


「いつお姉ちゃんになったんだよ。誕生日僕より五ヶ月も後じゃん」


「データによると、女性の方が同年代男性よりも精神年齢は三歳ぐらい上という統計が出てるんだよ。知ってる? だから私、お姉さんなわけ。ほら、お姉さんよ。包容力抜群。妹だととてもこんな包容力を醸し出す私とキャラクターがつり合わないでしょ? だから、お姉さん、お姉さまなわけ。わかる? どぅーゆーあんだすたん? はい、どうぞ」


「いや、言わねえよ?」


 踊り場上の窓ガラスから差し込む斜陽に伸びる影が、相川と繋がる。

 片手をこちらに向け、笑顔の彼女をただ辛辣に真顔で見下げるこちらの表情は、逆光でおおよそ見えないだろう。とはいえ、察したようにまた頬が引きつって苦い顔になる相川は、はあ、と大きな嘆息ひとつして背筋を伸ばした。

 それこそ、一大決心をするようにして自慢していた包容力の化身である胸部を張り、こちらを見据えてくる。


「本題に入ります」


「まだ入ってなかったの?」


「入ろうとしたら突然……あんなこと、言うから」


「脱線したのそっちだろうに」


 頬を染める仕草のまま、うぐっ、とダメージを負いつつも、相川は変わらず偉そうな姿勢を崩さない。


「まあ、いいよ。好きな人がいないならむしろよかったし。好都合だったし。闇雲に脱線したんじゃないから。わかった? じゃあ、本題に入るからね」


 言葉途中で投げやりに頷くと、相川はちょいちょい、と真横に伸びる廊下へと手招きした。


「おい、何して……――」


 一歩。

 ゆらり、と長い黒髪が踊り場の端から現れた。

 膝丈よりも少しだけ短いスカート。きっちり前を閉じた当校指定のブレザー。比較的背の低い相川よりも少しだけ低く、かつ細い気がする。橙色に染まるこの場でもわかるぐらい、黒髪の間から覗く白雪のような頬も、穢れを知らない少女そのものだ。

 そんな彼女とは、一歩、また一歩と近づくたび、俯いていく前髪の隙間から一瞬だけ目が合ったような気がした。

 それは、放課後を染める暮色よりも赤い、紅色のようで――いつかどこかははっきりしないが、見憶えのある紅瞳だった。


「紹介するよ、多田くん。一年生の涼風すずかぜ七帆なほちゃんだ」


「いや、誰……?」


「まあまあ、話は最後まで聞きなさいってママに言われなかった?」


 コホンと咳払いし、少しだけ自慢げに、またしても苦笑いを浮かべる相川。こちらの機嫌などつい知らず、俯く黒髪少女――涼風に片手を伸ばすと、彼女の腰に添えるように、そして一歩前に押し出し、少しだけ渋る演技をしてから相川は口にする。



「――私のために、この子と付き合ってほしいんだ」


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逆らえないお願いに僕はいつまでも縋りつく ぱん @hazuki_pun

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