3話

「きみ、ほんまにド真ん前に座るか? 素直やなあ」

 平津さんが、急にステージから話しかけてきた。

「えっ、いや……」

 とっさに返答が思いつかず口ごもってしまったけど、平津さんは気にしていない様子で「おもろいやっちゃな」と笑って、舞台袖へはけていった。

 柴本さんと藤田さんのお客さんは、あっさりした人が多いのか夜ふかしをしないのか、割合すぐに帰ったので、一番に精算に呼ばれた。平津さんは関西から来ているというのもあって、久しぶりに会う人が多いんだろう。ひとりひとり話が長くなっているようだった。

 僕はといえば、熱心に話しかけてきた人がひとりいた。自分も音楽活動してるといってフライヤーを渡してきたから、単なる営業活動かもしれないけど。またぜひライブをみたいです、といって実際に来る人ってほとんどいないからな。

 ようやくすべての客が帰って、店内がスタッフと演者だけになると、さっきまでイベントが行われていたとは思えないほど静かだ。

 柴本さんと藤田さんは、マスターと熱心に話し込んでいるのか、なかなか楽屋から出てこない。

 僕はカウンターでグラスを傾けていた平津さんに声をかけ、ライブの感想を伝えた。ライブ中に見えた変なイメージのことは話さなかったけど。

「そんな褒めんといてくれや。かなんなあ」

 照れ笑いする彼の目元が垂れていることに、ふと気づく。

 よく見ると、優しい顔立ちなんだな。強面に見えていたのは、本番前でピリついていたからか。これほどのベテランでも緊張はするんだ。

「僕は本当に、悪魔に魂を売った人なんじゃないかと思いましたよ」

「件の十字路には行ったことはあるけどな、悪魔には会えへんかったわ」

 平津さんは乾いた笑い声を上げた。

「もう三十年くらい前やなあ、ちょっとの間やけど、アメリカのテネシー州に住んどったんや。メンフィスのビールストリートっちゅうとこは、ライブハウスがずらーっと軒を並べとってな」

 ずらーっと、と、彼はコの字型にした手を横へスライドさせた。

「この辺で凄いやつおるか、ゆうて、出とる奴の演奏をじーっと観察しとった。ほんで、帰ったらそれを一所懸命真似しとった。なーんも考えんと、同じ音が出せるようになるまでや。それを毎日、気がおかしゅうなるまでやっとったんや」

「もの凄い執念ですね。どうしてそこまで」

 バーボンを一口なめて、首を傾げた。

「わからん。暇やったんちゃうか」

 まるで他人事だ。

 実際は色々あるんだろうけど、込み入っていて話すのが面倒なのか、初対面の僕に話すようなことじゃないのか、どっちかだろう。

「きみもいっぺん行ってみたらええで。ストリートミュージシャンもようけおって、まあえらい騒ぎやわ。どこやったかの店は、天井からぎょうさんギターが吊ったってな、真っ赤っけの照明に照らされたんねん。あれは壮観やで」

 天井から吊られたギターだって?

 ……そんな、まさか。

 僕がさっきのライブ中に思い描いていたのは、行ったこともない、メンフィスのビールストリートの情景だったってことか? あのネオン街の風景も?


「正にその通り」


 また右耳に声がした。

 今度ははっきりと。

 低く落ち着いた女性の声にも、年若い青年の声にも思えた。

「どないした、何かおるんか?」

 平津さんが不思議そうに僕の視線の先を追った。僕は慌てて首を振る。

「なんでもないです。――そのライブハウスの話、聞いたことあるなと思って」

「おう。有名な店なんやけどなあ、ド忘れや」

 思い浮かんだのは、ショッキングカラーで、Rum Boogie Cafeラム・ブギー・カフェ、とポップな筆記体で描かれているレンガ風の壁。Rum Boogieまでは水色で、Cafeがピンク――

 いや。

 僕が忘れているだけで、どこかで見たことがあるんだ。それが急に意識に上ってきただけだ。そうに決まってる。疲れてきてるんだ。仕事以外を家に引きこもって暮らしていると、人がたくさんいる状況だけで消耗するんだよな。

 精算を終えた柴本さんと藤田さんがやってきて、会話に加わった。日本語でブルースはできない、という平津さんの話をとりあげて、柴本さんは語る。

「僕もボストンで演奏活動をしていましたが、日本で生まれ育った自分が、本場のジャズマンに対抗するのは無理なのかもなと悩んだこともあります。技術は練習で身につきますが、リズムや音に対する感受性というところで……」

 聞けばこのデュオ、二人ともバークリー音楽大学出身だった。現代音楽の名門だ、そりゃ考えることの深さが違うよ。

「歳を経るごとに、ジャズという枠にこだわらず、自分の音を追求すればいいと思うようになりましたね」

「オレかて、なんもかんもを否定しとるわけやないですよ。例えば、淡谷のり子のブルースは、形としてはブルースっちゅうより歌謡曲やけども、ぎょうさんの人を救った。ほんまもんの歌ですわ。形式に則ってることと、力のある作品であるかどうかは何も関係あらへん」

 もう全然ついていけない。まず淡谷のり子が誰なのかわからない。たぶん、けっこう古い人なんだろうけど。

「そやけども、音楽のジャンル、ゆうのは、その生まれた土地の気候風土、生活習慣、宗教観、歴史、そういうもんが土台にあると思てますねん。それを全く無視してしもうて、形式だけ借りてやってるもんをほんまもんとかいうのは、なんやケツが痒いんですわ。そやから、オレが歌うんも、借り物のブルースっちゅうことですねん」

「なるほどなあ。――でも、目に見えるもの、触れるものは、周波数が違うだけで、本質はすべて同じエネルギーなんですよ。素粒子レベルで振動の仕方を変えることができれば、ぼくたちはどんな姿、状態にでもなれるわけでね」

 藤田さんの口から急にぶっ飛んだ話が飛び出したが、平津さんは眉一つ動かさなかった。

「それは量子力学ですか、スピリチュアルっちゅうやつですか」

 話が通じたとみて、藤田さんは嬉々として語り始めた。

「真面目な科学の話ですよ。もちろんミクロの世界の道理は、マクロな世界にはそのまま及ばないから、仮面ライダーみたいに変身! とはいかないだろうけど。波形である音を通じて、その片鱗を感じることは可能である、とぼくは信じているよ。ときどき演奏中に感じる不思議な感覚は、宇宙との共振だと思ってるの。ぼくは本職の科学者じゃないからそのメカニズムはわからないけどね。でもきっと、科学が解明してくれる」

 私を月に連れて行ってフライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン、っていう次元の話じゃない。グラスを棚に片付けていた愛さんが、眉を寄せて首を傾げた。僕に、わかるか、と視線で尋ねてくる。僕は小さく首を振った。

「彼は昔からこういう話が好きなんですよ」

 気を遣ってくれたのか、柴本さんが話しかけてきた。

「ギターで聴く『ピアノ・マン』、良かったですよ」

「好きな歌なんですけど、僕はピアノが弾けないので……」

「自分の得意な楽器でやればいいんですよ。思い入れを感じる素晴らしい演奏でした」

 目元にシワを寄せて柔和に微笑む顔に、社交辞令の四文字は見あたらなかった。

 本当に実力のある人って、むやみにダメ出しないんだな。同じ土俵に立ってないんだから当たり前か。

「僕はあの歌を聴くと、東京のバーで演奏していた頃を思い出します」

 彼は懐かしそうに目を細めた。

「ジャズバーだといっているのに、歌謡曲をリクエストするお客様がよくいらっしゃって。専門外のことはなかなか上手くできないもので、お前はプロだろう、と怒られたものですよ」

「そんな無茶振りがあるんですか?」

「当時は僕もまだ若かったので、ムッとしましたよ。でも、なんとかリクエストにお応えできると、『きみのピアノで聴きたかったんだよ』と仰られて。そこからいろんなお話を聞かせて頂いたりしました。僕はそういったお客様から、ジャズの大事な部分を教えて頂いたと思っていますよ」

 ライブは対話、といっていたっけ。

 三人とも考えていることはそれぞれだけど、彼らの技術は、執念なり、サービス精神なり、探究心なりがなければ持ち得ないものなんだろう。

 僕にそんなものがあるのかといえば、見当たらない。演奏は楽しいけど、それ以上のものは求めてない。完全に自己満足の世界だ。

「皆さん、音楽を通して僕には見えていないものを見ていますね……」

「安岐さんはまだまだこれからですよ。真剣に向き合っていれば、いつか自分なりの音楽が見えてきますよ」

 激励のつもりだったんだろうけど、残念ながら、僕は真剣な人間じゃないのだ。場違いだよなあ、本当に。

 僕が黙り込むと、藤田さんと平津さんの会話から「マクウチュウ」という言葉が聞こえてきた。何を喋ってんだこの人たち。

「めちゃくちゃIQ高そうな話してる」

 締まりのない顔と声でつぶやいたのは、河南さんだった。

「ミッチー、ちょっといい?」

 よし、この濃厚すぎるフィールドから解放される。僕は力強く頷いた。

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