第2話 ☆王弟殿下の小人さん☆


「チィヒーロ、手伝いなんかしなくて良いんだぞ? 邸でおやつでも食べながら、ゆっくりしておいで」


「働かざる者、食うべからずなんだよ? お父ちゃん」


「お父ちゃん..... あああ、チィヒーロは偉いなぁっ、こんなに小さいのに、働こうなんてっ!」


 熊のようにモジャモジャな髭で頬ずりしながら、ドラゴは千尋を抱き締めた。


 小人さんの正体が厨房に知れ渡り、微笑ましい親子の姿に、料理人らが顔を見合わせて苦笑していた頃。


 国の外れで、怪しい一団が馬車から降りてくる。彼らは周囲を見渡して、人気が無いのを確認してから古い民家に入って行った。


 民家の応接室には数人の女性。侍女の制服を身につけた彼女らは、訝しげな眼差しで入ってきた男達を見る。


「ファティマ様は? 何故いないの?」


 一人の女性が剣呑に眼をすがめた。


「.....失敗した。騎士団に感づかれて、暴動を起こせなかったんだ」


 途端、顔面蒼白で女性が立ち上がる。


「そんなっ、ファティマ様は指定の部屋に閉じ込めて来たのよ?? あれからどれだけたつと思ってるの? 死んじゃうわっ!」


「.....仕方無い。運がなかった」


「ふざけないでよっ、私達がどれだけ苦労して、あの方を育ててきたかっ! 十年かけたのよっ? こんなチャンス、もう二度と回ってこないわっ!!」


 激昂し、声高に叫んだ女性の名前はシリル。第二側妃に仕える侍女だった。

 共にいる女性らも城に仕えていたメイド達。彼女らはシリルと共に潜入していた他国の密偵である。


 魔法によって栄えた世界、アルカディア。


 しかし魔法それは衰退し、今では唯一、このフロンティア王国にしか遺されていなかった。


 理由は分からない。


 気が付けば人々は魔力を失い、魔法による古代の文明は廃れていき、人々は試行錯誤して新たな文明を構築する。

 そんな中、ただ一つ。この国、フロンティアだけが魔法文明を維持していた。

 調べてみると、この世界でも珍しい金の光彩を放つ王族達。その直系らや貴族らが魔力を失わず、この国の根幹にある魔術具を維持し、動かしている。


 それを知った周辺国は、あの手この手でフロンティアの王族を手に入れようと動き出したが...... その全ては失敗に終わった。


 魔法を操り使えるフロンティアと、魔法を失い使えぬ周辺国。戦力の差は明らかである。


 豊かで穏やかなフロンティアは戦を好まず、手を出さなければ何もしてこない。専守防衛の優しい国だ。

 戦争を起こしても不興を買うだけ。無意味でしかない。かと言って、交易や調略も無駄である。

 前述したように豊かで穏やかなフロンティアに、他国が優位にたてる部分は何処にもない。

 政略結婚などにも全く食指を示さず、フロンティアは完全に他国から一段上で独立していた。


 それもこれも魔法文明が生きているから。


 魔法があるから軍が強い。魔法があるから大地が豊かだ。魔法があるから生活が楽で人々は安寧である。


 その恩恵を少しでも奪おうと、多くの密偵がフロンティアに潜り込んでいた。


 潜入し、調べながらフロンティアの豊かさに感嘆する毎日。自分の故郷と雲泥の差だ。比べるも烏滸がましい。

 嫉妬と羨望の炎に炙られ、それでも、じっと耐え抜いた十年。


 ようやく好機が訪れた。


 仕えていた第二側妃様と正妃様が御懐妊。さらには一日違いで御出産となったのだ。


 このチャンスは見逃せない。


 正妃様の陣痛が始まり、御殿医や主要な者達の殆どがそちらに向かった。

 入れ違いに側妃様にも陣痛が起き、出産には若い医師とシリルの仲間のメイドらが付き添う。


 今なら生まれた御子を盗んで逃げ出せるだろう。


 人々の眼は正妃様に向いている。千載一遇のチャンス。魔力を保持した赤子を手に入れて逃げ出すのだ。


 そんな企みを脳裏に描き、出産を見守っていたシリルだが、そこで予想外の事態が起きる。


 側妃様の御子は双子だった。


 そういえば、前回の御出産も双子だった。そういう多産系の家系なのかも知れない。

 生まれたのは男女の双子。シリルは迷わず金髪の女の子を抱き上げ、口封じに医師を殺した。


 結果、側妃様には王子御誕生と大きく触れ回り、第二王子の誕生に沸き返る城の中へ王女を隠した。


 生まれた事すら知られていない王女。


 時々、王子と入れ換えて城の中を歩いたり、国王と会わせたりして、秘密裏に育ててきた。

 シリルは薬を調合して、王女の脳の成長を鈍らせ蒙昧に育成する。

 いずれは我が国の王族の子を孕ませるための母体となるのだ。国に連れ去ってから洗脳しながら従順になるよう調教すれば良い。


 だがそれも限界。王女も二歳になった。このままでは自身の環境に疑問を持ち始めるだろう。


 その前に連れ去らねば。


 こんな好機は二度と訪れない。


 彼女は外部の仲間と連絡をとり、複数の暴動を起こして騎士団を陽動し、王女を城から盗み出す計画をたてた。

 侍女の身である自分は派手に動けない。ひっそり動いても、顔見知りに咎められかねない。

 メイドらも同様だ。後宮務めな者が城の外郭に現れたら、絶対に眼をひく。


 なので彼女らは身軽な服装で御忍びをきどり、城から逃走した。


 王女を洗濯場奥の部屋に閉じ込め、翌日には暴動を隠れ蓑にして、目の前の男達が王女を確保してくるはずだった。


 それを信じてシリルは国外れの、この民家に身を潜めたのに。


「また、一からやり直しね。新たな密偵を育てないと.....」


 あれからもう、一ヶ月近く。薬で蒙昧な幼子が自力で逃げ出せる訳はなく、人気の無い場所を選んで閉じ込めたのだ。他力も望める筈がない。


 今頃ファティマ様は.....


 ファティマとはシリルの名付けた名前だった。

 彼の昔、神の御告げを受けたと言う予言者の名前。彼女の国を救う乙女となるように、その名前をつけた。


 既に事切れているであろう王女を悼み、シリルは一晩中、黙祷した。


 彼女は知らない。その王女が元気一杯に走り回っている事を。


 小人さんは今日も我が道を征く。




「おさとうとか、はちみつとかは、ないの?」


 ドラゴを見上げながら、千尋は首を傾げた。


 千尋は普通に話している。流暢に言葉を操る。


 しかしその短い舌から発せられる言葉は、周囲の耳には件のような、平仮名表記に聞こえて思わず顔が緩んでしまう。


 ほっこりと小人さんを温かく見つめる料理人らとドラゴは、問われた単語を聞き返す。


「蜂蜜は滅多に手に入らないな。おさとうとは? 食材か?」


 問われて千尋は愕然とする。


 ないの? 砂糖がない?


 ガーンと顔に書いてある小人さんに、周囲がオロオロと顔を見合わした。


「おさとうって何だ? 知ってるか?」


「わからん、どうしようっ」


「蜂蜜なら少しあっただろう、持ってこいっ」


 慌てて料理人らがワタワタと動き出す、そして千尋の前に小さな壺を差し出した。

 蓋を開けると見慣れた琥珀色の液体。

 千尋は、ほっと胸を撫で下ろす。


「蜂蜜はとても貴重な物なんだ。王様だって滅多に口に出来ないんだよ」


 ドラゴは言い聞かせるよう神妙な顔で千尋に話しかけた。


「貴重?」


「そうだ」


 壺の蓋をしめ、ドラゴは千尋を抱き上げる。そして厨房から出ると洗濯場奥の階段を上がり、見晴らしの良いテラスへと千尋を連れていった。


「あそこに森が見えるだろう?」


 言われて千尋は眼を凝らす。


 確かに街のずっと向こうに、煙るように萌える広い緑が見えた。


 あれが森?


「ああいった緑が深い森の中に蜂の巣があってな。蜂蜜を採る事が出来るんだ。しかし森の中には狂暴な獣や魔物がいる。騎士団でもないと入る事は出来ないんだ」


 なるほど。だから滅多に手に入らないか。


「養蜂はやらないの?」


「ようほう?」


「蜂を育てて、蜂蜜をわけてもらうの」


 ドラゴは思わず眼を丸くして千尋を見つめる。その頬をペチペチと小さな手が叩いていた。


 蜂を育てて蜂蜜を得る? そんな事が出来るのか?


 幼子の発想だ。森の動物は皆お友達的な考えで言っているのかもしれない。

 それはそれで可愛らしいが、ここはキチンと教えておかないと。

 蜂は危ない生き物なのだ。油断すると大変な事になる。


「チィヒーロ、良く聞きなさい」


「うん?」


「蜂はね、とっても怖い生き物なんだ。針を持っていて刺すし、噛みついてくる事もある。だから近付いてはいけないよ」


 ビシッと言い切り、大人の威厳を決めたつもりのドラゴだったが、予想に反して千尋は不思議そうに首を傾げていた。


「だから?」


 え? 刺されるんだぞ? 痛いし怖くないのか?


 今度は口まで空けてポカンとするドラゴ。それを気にもせず、千尋はにんまりと口角を上げた。


 あると分かれば話は早い。砂糖が無いなら蜂蜜だ。


「チィヒーロ? おーい、何考えてるのかな? お父ちゃんに教えてくれ」


 ほくそ笑む幼子に不穏なモノを感じとり、ドラゴは抱き上げている千尋を軽く揺する。

 それ気づいた千尋は、しばし、じっとドラゴを見つめた。

 寄せられた眉に心配そうな瞳。


 あ、ダメだわ、これ。話したら全力で反対されそう。


 そして千尋は、そっとドラゴから視線を逸らした。


「おーいっ、チィヒーロ? 黙らないでくれっ」


 ドラゴの必死な声も千尋には届いていない。


 彼女の脳裏には、如何にして蜂蜜や蜂を手に入れるか、その算段で一杯だった。




「チィヒーロが何か悪巧みをしてる。気を付けて見ててくれ」


 じっとりと眼を据わらせ、ドラゴはナーヤとサーシャに申しつけ、何度も邸を振り返りながら厨房へと仕事に出掛ける。


 言われた二人は顔を見合わせ、眼で会話。


 悪巧み? 御嬢様が?


 無い無い。あんな小さいのに、何が出来ますか。


 コクリと頷き合い、二人は邸の扉を閉めた。




 千尋は午前中は家庭教師による勉強と習い事。午後からは自由時間で、使用人の居住区をはしりまわったり、城の厨房でお手伝いをしたりと、気儘に過ごしている。


 先生らから瞠目されつつ勉強を終わらせると、千尋はナーヤを呼んで、庭に花を植えたいと御願いした。


「花でございますか? どのような物でしょう。花壇ですか? 鉢植えですか?」


「御花畑が欲しいの。だから、観賞用より野生種の方が良いな。野バラとか木苺や蔓苺とか。四季咲きで実が食べられる物が良い」


 ナーヤは少し考えてから、にっこりと微笑んだ。


 実を食べられる物と言うあたり、花より甘味な気がする。確かに野苺は美味しい。


「かしこまりました。幸い庭も広いですし、御嬢様のお好きなように御花畑を作りましょう」


「やったぁっ」


 ぱあっと顔を輝かせ、千尋は苗を買いに行こうとナーヤを引っ張った。


「お待ちください。野生種の苗は売っておりません。採取してくるよう依頼を出します」


「採取? 依頼?」


「そうです。冒険者らに依頼して取ってきてもらうのです。木苺などは森の中にしかないので。普通の花なら栽培して売っている物もありますが、野生種となると森にいかないと」


 冒険者っ?? 異世界定番キタコレっ!!


「一緒に行きたいっ、冒険者見たいっ!」


「ええええぇっ?!」


 驚き狼狽えるナーヤの周りを走り回り、千尋はナーヤが『うん』と言うまで駄々を捏ねまくった。

 結局、ドラゴに御伺いをたてて許可を貰えたらという話になり、千尋は口をへの字に曲げる。


 貰える訳ないじゃん。


 千尋は慣れた足取りで厨房へ向かい、一縷の望みをかけてドラゴに御花畑の話をした。


「ダメだ」


 ですよねー。


 眉を怒らせて腕を組むドラゴ、取り付く島もない。


 しょんぼりと意気消沈し、とぼとぼと厨房から出ていく千尋を見送り、ドラゴは胸が痛くなる。


 いや、だが、森は危ないんだ。冒険者が護衛すると言っても何が起こるか分からないんだよ。


 ここは心を鬼にしないとっ!


 それでも、しょんぼりとした小人さんの後ろ姿が、瞼に焼き付いて離れない厨房の面々だった。


 そんな千尋は、使用人の居住区に向かう途中、花壇の前で座り込んだ。

 まるでマリモのように丸まる小さな背中。それを見付けた誰かが声をかける。


「あれ? 君は誰だい?」


 いきなり声をかけられ、慌てて千尋は目深にフードをかぶり、そーっと後ろを振り返った。

 そこには薄い茶色の髪の男性。見た感じ上品な服装で、身分のある人間に見える。

 年の頃は二十半ばか。灰青な瞳が、じっと千尋を見つめていた。


「ジョルジェ男爵が娘、千尋と言います」


「チィヒーロ?」


「.....はい」


 またか。


 名前を聞き返されるのにも慣れてきた今日この頃である。


「私はロメール・フォン・リグレット。お見知りおきを」


 名乗りながらも彼は、習ったばかりのカーテシーで挨拶する千尋に軽く瞠目していた。


 目の前の子供は、どう見ても幼児だ。三つ? いや、ひょっとしたら二つ? いやはや、大したものである。


 そして彼女の少し暗い様子が気になった。


「ここで何をしていたの? 落ち込んでいるように見えるが?」


「何でもないです。大丈夫です」


 それが幼児の受け答えかなぁ?


 すうっと眼に弧を描き、ロメールはしつこく食い下がると、無理やり千尋から話を聞き出した。


「なるほどね。そりゃあ、料理長だって反対するだろう。本当に森は危険なんだよ?」


「知ってます。聞きました。でも....」


 うにゅうにゅと顔をしかめる幼子。

 思わず軽く噴き出し、ロメールはふわりと微笑んだ。

 こういった態度は子供らしくて可愛らしい。


「良いだろう。私が手を貸してあげる」


「へあ?」


 すっとんきょうな顔で見上げる幼子に、ロメールは小さく頷く。

 その眼は、何か面白そうなモノを見る好奇心に満ちた眼差しだった。


「明日は出掛ける準備をして待っていなさい。昼頃から森へ楽しいピクニックだ」


 千尋は訳が分からず、ただ眼をパチクリさせるしかなかった。




「こんにちは、チィヒーロ。良い天気だよ」


「......こんにちは、リグレット様」


 翌日、千尋が御昼を食べ終えた頃、本当に彼はやって来た。


 背後にズラリと騎士を連れて。


 呆気に取られるナーヤとサーシャ。そして千尋。


 なんだ、一体。何が起きたの???


 茫然とする幼子に、してやったりとロメールは眼を細める。


「約束しただろう? 手を貸すって。騎士団が護衛なら、料理長も文句は言えないよ。森へ行こう、チィヒーロ」


 いや、文句も何も、子供の我が儘のために騎士団動かすとか、おかしいでしょ? おかしくないの? これ、普通???


 チラリとナーヤらを見上げると、案の定、二人は眼を見開いたまま凍りついていた。


 ほらああぁぁーっ、やっぱ普通じゃないじゃんっ!


「森に行くんだよね? チィヒーロ?」


 はい、拒否権はないアレですね? 貴方、結構な御身分の方ですね?


 無邪気な好奇心に満々た瞳。下位の者に命じ慣れた口調。有無を言わさぬ雰囲気。


 逆らうだけ無駄だな。ま、いっか。森には行きたかったんだし。


 ロメールを見上げ、千尋が大きく頷くと、彼は満足気に破顔した。

 そして自分の前に千尋を乗せて馬に跨がる。


「では御令嬢をお預かりする。夕刻までには戻るゆえ、男爵に申し伝えておけ」


「は....、え? お、御嬢様?」


 狼狽え、とりとめもない呟きを漏らしながら、ナーヤは慌てて扉から出てきた。

 それに微笑み、千尋は小さな手を振る。


「行ってきます、ナーヤ。早めに帰るからね」


 そう言う千尋を片手で抱き締め、ロメールは馬を走らせた。

 それに続いて騎士団も馬を駆る。


 あっという間に遠ざかる一団を見送り、ナーヤは顔から血の気を下げまくった。


 拐かし....? いや、違う。


「旦那様....っ、サーシャ、旦那様にお知らせしろっ、王弟殿下殿が御嬢様を....」


 御嬢様を? 何と知らせる?


 二人の様子を見るに顔見知りのようだった。名前を呼びあっていたし、御嬢様も素直に馬に乗っていた。


 あああああっ、もうーっ、あの御嬢様はーっ!!


 ドラゴにどう伝えたものか。せっかく綺麗に整えてある頭を、ぐしゃぐしゃに掻きむしるナーヤだった。




「リグレット様は御身分が高いのですか?」


「ロメールで良いよ。高いと言えば高いかな。一応、王族だし。でも金の光彩を所持してなくてね。公務も殆どない部屋住みだよ。居候みたいなものかな」


 金の光彩?


 首を傾げる千尋の頭にロメールの手がかかる。


「良い天気だよ? 暑くない?」


 ロメールの手の意図を覚り、慌てて千尋は頭を抱え込んだ。


「おとしゃまが顔を出ちたらダメだとおっちゃいまちたっ!」


 ヤバい、盛大に噛んだっ!


 背後でフルフルと震えるロメールを感じる。


 怒った? 不敬??


 しばらくじっとしてると、千尋は周囲の騎士らも震えているのに気がついた。

 顔を背けて口を押さえている。


 なんだろう?


 千尋は、恐る恐る頭を抑えたままロメールを見上げた。

 するとロメールは何とも言えない顔で、によによと口を綻ばせている。

 思わずコテリとロメールに頭を預ける、千尋の小動物的な仕草に、辛抱たまらず、ロメールは軽く噴き出した。

 つられて騎士らも噴き出し、穏やかな笑いが辺りに響く。


 なんだ? この可愛い生き物。ずっと見てても飽きないな。おとしゃまって。大人びた子なのに、慌てると噛むのか。良い事発見した。


 くっくっくっと含み笑いの止まらないロメール。騎士らも同じだった。

 軽く馬を走らせながら、怯えも竦みもしていない幼児は上手にロメールに凭れ、辺りを珍しそうに見ている。


「料理長は何故に顔を出すなと?」


 言われて千尋は少し考えた。


 実際には髪をだが、それを言うと興味をもたれそうだ。顔、顔、顔...... お父ちゃん、親バカ借ります。


「顔を出すとさらわれるって」


 途端、ロメールが真顔になった。千尋には見えていないが。


 確かに、とても可愛らしい子供だ。料理長の心配も理解出来なくはない。市井にあれば、即、拐かしにあうだろう。


 得心顔なロメールが周囲を一瞥すると、騎士らも軽く頷いてくれる。


 だよね。


 既に間近に迫る森を視界に映し、ロメールは千尋を抱く腕に力を込めた。

 まるで守るかのように込められた優しい力に気づかず、千尋は青々と繁る森に感嘆の眼を向ける。


 異世界の森。どんな植物や動物がいるんだろう。


 ワクテカの止まらない千尋は、期待に眼を輝かせ、騎士団と共に森の中へ消えていった。


 これが彼女の人外人生の始まりとも知らずに。


 森は、ただ静かに彼女を呑み込み、見守っていた。




「野生種の苺苗がほしいんだっけ?」


 森の外れに馬をとめて、騎士らは何かを取り出し、大地に叩きつけた。

 するとそこに現れたのは高さ二メートルくらいの材木が数十本。瞠目する幼女の視界の中で、材木は勝手に動き出し一列の長い柵になる。

 その左右にズラリと馬を繋ぎ、騎士団は青い粉を柵の回りに振り撒いた。


「準備完了です、殿下」


 ぴしっと居並ぶ騎士ら十数名。


 それに鷹揚に頷き、ロメールは千尋を抱き上げる。


 思わず眼を見開いて固まる幼子に、彼は、くふりと愉快そうに眼を細めた。


「......殿下?」


「ああ、言ってなかったけ? 私は国王陛下の四番目の弟だ」


 聞いてねぇーよっ! ってか、わざと黙っていたろ、その、したり顔っ!! 隠せてねーぞ、こらっ!


 然も楽しげなロメールを心の中で毒づき、憮然とする千尋を抱え、一行は並んで森の中へ入っていった。




「苗ねぇ。わかるかい? ハロルド」


 森の中の小道を進みながら、ロメールは前を歩く騎士へ声をかける。

 ハロルドと呼ばれた騎士は少し思案げに眉を寄せて、小さく呟いた。


「私には少々..... 植物に関しては不得手でございます」


 燃えるような赤い髪にくすんだ藍の瞳。年の頃はドラゴと同じくらいであろうか。四十いくか、いかないか。

 整った顔立ちの精悍なイケオジである。

 その言葉に反応して千尋が周囲を見渡すと、他の騎士らも困惑顔で首を竦めていた。


「ふむ。庭師でもつれてくるんだったかな」


 ふざけんな、そこ、重要ーーーーーーっ!!


 なんで苗を採取に来るって分かってるのに、その専門家を連れて来ないのさっ!


 千尋も地球では野山を駆け回り、野苺やスグリなどを取って食べた田舎育ちだ。

 それなりの知識はあるが、ここでも通用するとは限らない。魔力があり、魔法があり、魔物のいる世界なのだから。

 常識からして大きく外れ、生態系だって違うだろう。


 ぐぬぬぬとロメールの耳を引っ張り、千尋は頬をプックリと脹らます。

 リスのようなその顔に、周囲がどっと笑い出し、千尋は恥ずかし紛れにロメールの頭をぺちぺち叩いた。


「痛い痛い、ごめんって。ほら、これ上げるから」


 大して痛くもないだろうに大袈裟な声をあげ、ロメールは千尋に小さな包みを差し出す。

 受け取った彼女は不思議そうにそれを開いて、次にはギラリと眼を輝かせた。


 これってお菓子じゃないの??


 薄い紙に包まれていたのは焼き菓子で、ほんのりとバターの匂いがする。


「ふおおぉぉっ、お菓子だっ」


 眼を丸くして驚く千尋に、再びロメールは噴き出した。声を出して笑い肩を大きく揺らす。


「ふおおぉって、君、面白い子だね、ほんとうに」


 仕方がないではないか。こちとらお菓子どころが食べ物にすらありつけず死ぬところだったのだ。

 しかも食べ物に不自由しなくなった今でも甘味には飢えている。

 贅沢かもしれないが、現代日本で飽食に慣れ親しんだ千尋に、今の環境は辛いモノだった。

 甘味と言えば水菓子か干し菓子。バターも生クリームもあるのに、甘くないというだけで全くの別物になる。

 王侯貴族すら滅多に口に出来ない蜂蜜を千尋が使える訳もなく、日がな一日、甘いお菓子を妄想しながら果物を食べる毎日だった。


 千尋は焼き菓子を手に取ると、期待に満ちた眼差しで口へ運ぶ。そして咀嚼すること数回。


 甘味への期待again。肩透かしも大概にしろや、こら。ガッカリだよっ!


 焼き菓子は甘くなかった。甘いといえば甘いが、小麦の仄かな甘味がバターの塩気で際立っているだけである。


 あれだ。クラッカーとビスケットの間みたいな感じ。


 期待しただけに落胆も大きく、千尋はガックリと項垂れた。


「あれ? おかしいな。美味しくない?」


 思わず眼を遠くしてしまった千尋は、オロオロと自分を見るロメールに力なく微笑んだ。


「美味しいです。ありがとうございます」


 いや、絶対そう思ってないよね???


 きっと喜んでくれるだろうと考えていたロメールは、嘆息する幼子の反応に狼狽えた。


 こういった焼き菓子は王侯貴族らでしか作れない。バターやチーズは高価なモノだ。

 庶民にも手が届かなくはないが、それを菓子に使おうとは思わないだろう。

 高価であるからこそ食事で振る舞う。間食という概念すら庶民には薄い。

 小腹が空けば野菜や果物を噛る。それが普通だ。


 幼女が、お菓子だっと叫んだ時、さすが料理長の娘だなと思った。よほど溺愛しているのだろう。王侯貴族らに作る菓子を娘にも与えていると思ったのだ。


 しかし、結果は期待外れ。


 幼女は落胆の色を隠せぬほどガッカリしている。


 違う菓子を与えているのか? これよりも美味しいモノを? 帰ったら詰問してやるっ!!


 実際は異世界の菓子と比べられただけなのだが、それを知らぬロメールは、八つ当たり気味で料理長に憤慨していた。




「あっ、あれっ!」


 しばらく進んだ辺りで、千尋は見慣れた花を指差した。

 さわさわと揺れる大きな葉に、ぽつりぽつりと咲く小さな白い花。

 まだ開花期ではないのだろう。沢山の蕾がついたそれは、葉も花も薔薇科特有の形をしていた。


 千尋はロメールに下ろしてもらうと、一目散に駆け出していく。

 近くからマジマジと見つめ幼女は破顔した。


「木苺だーっ、あったぁーっ」


「これが? ふむ、結構大きいものなのだな」


 生い茂る木苺は高さ二メートルほどあり、ロメールの背丈よりも大きい。


「根っ子ごと引き抜けば良いな。頼むぞ」


 ロメールが指示すると、何処から取り出したのか、数人の騎士がシャベルを抱えて頷く。


「さっきも思ったけど、何処から出してるの? 木材とかシャベルとか」


「ああ、まだ知らぬか。魔法でな。こう小さな玉に封じてあるのだよ。騎士団には貴族が多いから魔法がつかえる者も多いのだ」


 ほああぁぁ、異世界定番テイクツー。


「私にも使えますか? 魔法っ」


 キラキラした眼差しで見上げられ、ロメールは何と言えば良いのか言葉に詰まった。

 男爵とはいえ料理長は平民だ。彼の魔力では調理に役立つ程度の生活魔法しか使えない。

 だが、それも魔法には違いあるまい。特にこんな幼子なのだ。その程度でも十分嬉しいだろう。


「そうだな、励めばきっと使えるようになる」


 微笑ましそうな笑顔で頷くロメール。思わず手を合わせて跳び跳ねようとした瞬間、千尋は騎士らの動きに眼を凍らせた。


「だめーっ、根っ子が傷つくっ!」


 なんと騎士らは木苺の株真下にシャベルを突き刺している。すでに幾つかのシャベルは地面に突き刺さっていた。


「あああああっ、あー.....、ダメだ、これ」


 慌てて駆け寄った千尋は、多くの主根が切られているのを確認し、この株自体は無理だと判断する。

 木苺は丈夫で繁殖力の高い植物だ。根っ子を切られても平気で新たな芽を出す。

 しかし、この株は終わりだ。繁殖力が強いかわりに見切りが早いのも木苺の特徴だった。

 すぐに弱り、この株は枯れ果てるだろう。


「しゃーない。根っ子回収して、ベイサルシュートを採取しよう。挿し木、接ぎ木で増やせるかもしれないし」


 根っ子を植えておけば、来年には勝手に芽を出す。むしろ周囲を深く囲って隔離しておかないと、爆発的に繁殖し地を埋め尽くす恐ろしい植物なのだ。

 テロ・プランツ並みにしぶといのが野苺である。


「博識だね。挿し木? 接ぎ木って?」


 首を傾げるロメールに大まかな説明をし、千尋は他にも蔓苺やスグリ、グミなど多くの植物を手に入れた。

 騎士らも慎重になり、千尋の指示どおりに大きく外れたところからシャベルを入れ、土をほぐしながら丸めるように根っ子を回収していく。


「植物の採取とは手間のかかるモノなのですね」


 一息つきながら呟く騎士に、ほにゃりと千尋は笑った。年相応の可愛らしい笑みに、騎士の顔も綻ぶ。


「だから面白いんだよ。手をかけてやれば、それに応えてくれるし。ここは良い土だね。森が嬉しそうだ」


 うーんと息を吸い込む幼子の瞳が、陽の光を浴びてキラリと金色に輝いた。


 えっ?


 ばくんっと大きく心臓が鳴り、騎士は改めて千尋を見つめた。

 地面に眼を戻した幼子の瞳は薄い茶色。ミルクティーのように、本当に淡い琥珀色だ。


 見間違い? だが....


 どうしても気になり、騎士は恐る恐る千尋のフードに手をかける。


 その瞬間、多くのけたたましい羽音が辺りに響き渡った。


「え? なに??」


「抜刀ーっ!」


 ハロルドが声高に叫ぶ。途端、騎士らが腰から剣を引き抜き、千尋達を囲うように構えた。


「抜かりました。奴等のテリトリーに踏み込んでいたようです」


 すかさずロメールは千尋を抱き込み、低い姿勢であたりを窺う。

 千尋を抱き込む腕の力が、その緊張をあらわしていた。


 なん? なんかヤバい奴がきた???


「アレは一匹倒すと鈴生りで襲ってくるからね。絶対に動かないでね、チィヒーロ」


 固唾を呑み、羽音のする方へ眼を向けると、そこには大きな蜂がいた。


 へあ? 蜂?


 可愛らしい容貌の蜜蜂だ。ただ大きさが尋常ではない。人間の赤ん坊くらいのサイズである。


 お父ちゃんーーーーっ、説明、雑かーっ! あんなんだと知ってたら、養蜂なんぞ考えなかったわーっ!!


 可愛い姿でも、その大きさだけで十分恐怖を感じた。あれで更に刺すと? 噛むと?

 そりゃあ、危険だろうよっ! あのサイズの針って、殆どナイフと同じだろーっ!


「まいったねー。アレらは森の主だから、傷つけるとヤバいんだよねー」


 森の主? 蜂が?


 でも分かる気がする。昆虫は、その脅威的な数で大きな生き物を圧倒するのだ。

 小さな白蟻が大きな建物を崩壊させるように。


 千尋が恐々と蜂を見つめると、蜂も千尋を見つめていた。何故か見つめられていると感じる謎。


「私じゃ力不足かもしれないが試してみよう。誰かチィヒーロを」


 ロメールは近くの騎士に彼女を渡すと、周囲を囲む数十匹の蜂へ静かに歩いていく。


「なに? なにするの? 危なくない?」


 オタオタと手足をばたつかせ見上げる幼子に、騎士は眉を寄せて説明する。


 ようは縄張りを荒らした御詫びに魔力を与えるらしい。

 魔物は魔力を好む。人間らを襲うのも魔力を得るためだ。つまりは餌扱い。

 だから、魔力そのものを放出して与えることで、知性のある魔物ならば見逃してくれるらしい。

 主と呼ばれる蜂らは、その類いなのだと。


「通常の魔物なら倒して終わりなんですが。彼等は倒せない。傷つけたが最後、国中が彼等に襲われます」


 千尋は背筋をゾッとさせる。


 以前見た古い映画に、そんなのがあった。無数の蜂が人々を襲い、群がる。


 なんで.... そんな危ない森だって知ってたら。


 ......知ってても来ただろうとは思うが、自分一人なら、自己責任で食べられて終わりだったのに。


「この国の人間なら彼等のテリトリーには絶対に入りません。今回は.....その、我々も夢中で.... 我々の失態です。何のためについてきたのか」


 つまり森を熟知しているはずの騎士団が、千尋につられて森の奥深くまで足を踏み込んでしまったのだ。


 アタシのせいじゃん。


 アタシが走り回ったから、彼等の感覚が鈍ったのだ。


 ロメールが何かを唱えると、その周囲に陽炎のような靄がたち始める。

 大きな蜂達はそれに群がり、瞬く間にロメールの姿が見えなくなった。


 大丈夫なの? アレ....


 心臓がバクバクする。おかしい。なんか変だ。


 自分の胸をぎゅっと掴み、限界まで眼を見開いていた千尋の視界で、蜂の塊はぐらりと揺らぎ、飛び立った蜂から解放されたロメールが大地に倒れた。


「殿下ーっ!」


 何が起きた?


 叫んだのはハロルド。しかし彼も動かない。いや、動けない。


 先程の話どおりなら、蜂に対して敵対行動は出来ないのだ。

 しかし蜂はさらに倒れたロメールへ近づいていく。既に彼の身体から、モヤモヤした魔力は失われていた。


 まさか....っ、まさか、まさか、まさかっ!!


 考えるより早く千尋は駆け出した。


 食べるつもり? ロメールを??


 後で騎士らが絶叫を上げているが、そんなもん知るかっ!! 目の前でっ、人がっ、食べられそうなんだぞっ!!


「やめてーーーーーっっ!!」


 転けつまろびつ、千尋は飛ぶようにロメールへ覆い被さった。

 フードが外れ、金の髪が陽にあたり鮮やかに煌めく。それに構わず覆い被さった千尋の全身から、金色のような靄が辺りに広がった。

 度肝を抜かれた蜂達が争うように金色の靄に群がり、さらに奥からやって来た蜂達も、それに倣い、次々とやってくる蜂で周囲は真っ暗になった。


「何が起きて....?」


 完全に周りを数百、数千の蜂達に囲まれ、騎士団は手も足も出せずに見守るしかない。

 そんな中、一際大きな羽音をたてて一匹の蜂が飛んでくる。

 大人サイズはあろうかという大きな蜂に、周囲の蜂達が道を開けた。

 そしてその中心にいる二人の姿も見えるようになる。


「殿下ーっ、男爵令嬢っ、御無事ですかーっ」


 叫ぶハロルドにロメールが軽く手をあげた。


 安堵するハロルドを確認して、ロメールは自分に覆い被さる千尋を見た。


 何でさ。何で君なのさ。


 フードの外れた千尋の髪を撫でながら、その感触と色を確かめる。

 白銀にも近いプラチナブロンド。色彩が薄いほど魔力は高い。


 瞳も薄かったね、そういえば。


 彼の服をぎゅっと握って離さない千尋の背中をポンポンと叩き、ロメールは苦笑した。


「チィヒーロ。大丈夫だから。起きて?」


 言われて顔を上げた千尋は、周囲にひしめく夥しい蜂の群れを見て絶句する。


 いったい何処からこんな数がっ?


「ロメール、大丈夫だからねっ、食べさせないからねっ」


 千尋は彼を抱き締めるようにしがみつき、それでも震えてる幼子の温もりに、ロメールは思わず目頭が熱くなった。


 ああ、君は私を助けようと.....? まいったな。


《食べませんよ、失礼な》


 え?


 千尋は茫然と辺りを見渡す。


「蜂は人を食べたりしないよ。攻撃したら別だけどね。彼等は知性ある生き物なんだ」


《その通りです。その方が魔力を使いすぎたので、我が子らは少し還そうとしただけです》


 ステレオ式に聞こえてくる副音声。


「へあ? じゃあ、アタシの勘違い?」


 頷き苦笑するロメール。

 千尋は顔を真っ赤にして蜂達に謝った。

 道理で、あの状況にも騎士らが動かなかった訳である。

 彼等は、これを知っていたのだろう。


「ごめんねーっ、てっきりロメールが食べられちゃうかと..... やだもう、恥ずいーっっ!」


《全くです。ところで貴女、私の声が聞こえてますよね?》


「うん? 聞こえてるよ?」


 途端、ざわりと空気が蠢いた。響き渡る羽音が、さらに鋭さを増す。


《金色の魔力を感じて来てみれば。やはりですか。久方ぶりの王の来訪ですね。初めまして、新たな契約を結びますか?》


「ほぇ? 契約? なにそれ?」


《.......そこからですか》


 彼女はクイーン・メルダと名乗り、千尋の前に舞い降りる。

 大人大の蜂の到来に、ロメールも千尋も顔が凍りついた。


 そして彼女は話してくれる。旧き盟約に結ばれた、この世界の成り立ちを。


「つまり何処の森にも主がいて、一つの森で一つの契約が結ばれていると?」


《そうです。魔力が高く、金色である事が条件になります。それを我らは王と呼びます》


 そのように魔力の高いものは滅多におらず、結ばれた盟約も多くはない。数百年に一度くらいだという。

 盟約に沿って、契約をむすんだ王は森の主のあるじとなり、命つきるまで共にあるらしい。

 魔力の高い者に仕え、その魔力を分けてもらえるのは森の主にとって誉れであり、新たに森を活性化出来るのだとか。


 ふんすっと胸を張り、メルダは手を..... 足なのかもしれないが、わきゃわきゃさせ、迫るように千尋にズズィっと顔を近付けた。


《なのでっ、是非ともっ、新たな盟約をっ、我が王よっ!!》


 複眼までギラギラさせて鼻息の荒いメルダ。


 いや、まだ王になってねーし、ってか第八王女だし。しかも廃棄されたようなモンだし。


「あー、良く分からないんで保留で。もっと良く調べてくるよ。盟約とか、森の主とか」


 有耶無耶にしようと愛想笑いする幼子に、ロメールは確信する。


 君はクイーンと会話出来てるんだね。ほんとに、何で君なんだろうね。


 一人と一匹が何を話しているのか分からない。森の主と会話出来るのは、金色の王のみだ。いや、女王かな? 今回は。


 新たな盟約が結ばれれば、今しばらくフロンティアは安泰だ。


 各国は知らない。知らせる訳にはいかなかった。


 少し遠い眼をしてロメールは空を仰ぐ。


 世界中に点在する深い森。そこに棲まう主が魔力の根元なのだとは。

 森が活性化し、森の主が健やかであれば、その近辺の大地は魔力で満たされる。


 数百年に一度の盟約。


 長い月日に風化され、それを忘れた周囲の国々は近代化の波に押され、凶悪な魔物だとして森の主を殺し、森を切り開いてしまった。


 我が国が気づいた時にはもう遅かった。


 殆どの国で森は失われ、魔力も魔法も失われていた。これを今さら公開しても、新たな火種と妬みを生み出すだけである。

 少し調べて統計をとれば、森から放射状に豊かな大地があるのだと分かるだろうに。


 それがなくとも我が国の森の主は空を駆け、数千の数を誇る生き物だ。

 他の国のように簡単には倒せない。その脅威が幸いしたのだろう。

 おかげで数百年周期に生まれる金色の王の記録が失われる事はなかった。


 でも......


 何で、それが君なのかなぁ? いったい何者なの?


 未だにワチャワチャしている二人。その片方がしょんぼりと項垂れた。


《盟約がなされないならば、頂いた魔力を御返しせねばなりません。せっかく森が豊かになると思ったのに.....》


 肩を落としてグスグスと泣き出したメルダに、千尋はポンっと手を打った。


「蜂蜜!」


《はい?》


「今回の魔力とやらは返さなくて良いから、蜂蜜ちょうだい。それで手打ちに」


《そんな物で宜しいのですか?》


「うんっ!」


 元々、養蜂を始めようと思って御花畑に着手したのである。こうやって、魔力と引き換えに蜂蜜がもらえるなら、それにこしたことはない。


 メルダは花丸がつきそうな笑顔で了承し、しばらくして大きな塊を運んできた。

 それは六角形の長い管で、直径五十センチ、長さ一メートルくらい。茶色の筒状で中には蜂蜜がギッシリ入っていた。


《こんなモノで宜しければ、何時でもお持ち下さい》


 ニッコリ笑うメルダ。女神キタコレ。


 ひゃっほうっと喜ぶ千尋は、周囲の不穏な眼差しに気づいていない。

 自分のフードが外れ、その見事な金髪を晒している事にも。


 驚愕と感嘆を同衾させた訝しげな視線。


 ロメールとハロルドにいたっては剣呑を通り越した黒い笑顔になっている。


「さてと。チィヒーロ? 喜んでるところ悪いんだけど少し話を聞かせてもらっても?」


「へあ?」


 ようやく事態に気づいた小人さんだが、時既に遅し。


 黙りを決め込んだ小人さんは、冷たい眼差しで嘆息する王弟の馬に乗せられ、ポックリポックリと帰宅していった。


 その頃、王宮外郭では、冬眠前の熊のように険しい顔でウロウロするドラゴがいたとか、いないとか。


 小人さんの伝説は、まだ始まったばかりである。

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